プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

三富恒雄

2017-10-22 15:13:57 | 日記
1983年

加藤はロク膜炎、血行障害と二つの危機を乗り切ったが、三富は、それを上まわる三つの危機に襲われながら、すべて克服したのである。初めが戦前の頭部へのデッドボール。次が戦後の左腕骨折。そして三番目がロク膜炎。実をいえば、三富は、第四の危機があった。それには、このわが輩がからんでいる。27年のことだったが、所は後楽園。一塁走者の三富は二塁へ歩くようにしてフラフラとやってきた。間違いなく併殺、と観念しておったのでしょうな。滑る気配もない。ウカツにもわが輩、三富が投手であることをすっかり忘れていた。だから、いつもの顔は三塁、ボールは一塁の猛牛スロー。なんとこれが三富の顔面を直撃してしまったのだ。ワシャ心の腕が止まりしたぞなもし。ブッ倒れた三富の前で土下座して「すまん!」と謝った。謝ったって、もう遅いのですが、この時のわが輩、こうするより仕方なかったのだ。それほどショックだった。その三富が何日かあと、ホッペタに絆創膏を張ってニコニコ顔でわが輩の前に現れた時は、本当に救われた思いがした。不幸中の幸い。わが輩の送球は急所をはずれ、ホホ骨の打撲だけで済んだのだ。これがコメカミややや鼻の上だったら、とんでもないことになっていただろう。いま思いだしてもゾッとするシーンだ。こんな三富だから、少々のことでは驚かない。当時としては非常に珍しい左のサイドスローからのシンカーを有効に使って、満員の巨人戦でも度胸満点のピッチング。川上や与那嶺に「三富はどうも好かん」とブツブツいわせたものだ。当時の三富を一番よく知っているのは杉下茂。杉下によれば、まったくタイプの違う2人は「助けられたり、助けたりでいいコンビでしたよ」ともに24年に中日にやってきた。いわば同級生。杉下の豪球と三富のシンカーの組み合わせは、たしかに相手打者には厄介なシロモノでした。24年といえば、坪内、西沢が中日に戻ってきた年、29年初優勝の布石がこの年にでき上がったのである。戦前派の三富が29年を最後に引退したのは、宿願を達成、もう思い残すことはない、と考えたからでしょう。戦前派ー。それはまったく戦前の人そのものだった。戦後初めて中日で「18番」をつけたのが三富、中日は、16年まで(当時は名古屋軍)18番をつけていた村松幸雄投手が、特攻隊員として散華して以後、18番は欠番扱いとなっていた。そのエースナンバーが三富のものに。感激した三富は村松の故郷である掛川まで行き、墓前で「村松先輩、この番号をありがたく戴きます。先輩の名を決して汚すようなことはいたしません」と誓った。こういうことはおそらく、いまの若い選手には理解不可能だろう。だが、戦前の職業野球の選手とは、こういうものだった。三富は25年に16番をもらうのだが、それまでは21番。これは奇しくも、加藤の背番号と同じ。そういえば、加藤の前に21番をつけていた現日本ハムの高橋一も腰痛と闘いながら頑張っている。21番は耐える男背番号らしい。
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バンサイド

2017-10-22 09:59:35 | 日記
1964年

阪神の対巨人戦用投手として採用されたバンサイド投手を初めて見たのは、去る二月二十八日西京極球場で阪神対阪急のオープン戦の日だった。一見してこれが大リーガーかと思えるほどの弱弱しさを感じたが、ハーフスピードで投げる球には何か秘められたものがあると直感した。球は素直でない。投球練習でも、ただワインドアップからばかりで投げない。セット・ポジションをとり、打者を想定してのピッチング。さすが考えていると感心もした。軽い投球練習でも考えての投球に徹していると見た。バンサイドの投球練習をみていた阪急西本監督にバンサイドをどう思うかと聞くと「ひよわい感じだが、やはりただのネズミじゃあない。考えて投げる投手だ。いいですよ」といっていたのが思い出される。バンサイド投手のフォームは決してきれいなものではない。昨年のワールドシリーズで快投したドジャースのコーファックス投手のような華麗さはない。左腕と上体はスムーズにいっていないし、投球のリズムというものからはやや外れているようにも見える。そのバンサイドが対巨人第一戦に登場したのでバックネット裏の第二列で彼の投球を注目した。バンサイドは1㍍90近い長身、長い左腕からの投球は打者にとっては間近に感じたろう。一回は彼もやや堅くなり、併殺でピンチを切抜けてからの彼は彼の持味を十分生かしたが、もう少し、スピード(直球)があればとも思われた。昨年前半オリオールズ、後半セネタースに移って0勝2敗、大リーグ生活で百九十六試合に出て19勝36敗の成績だが、おそらく彼は大リーグでも技巧派投手であったろう。速球があればおそらく大リーグ生活をまだつづけていたろう。しかし日本の球界には彼の変化球はまだ十分通用すると見た。やや上体よりも常に半コマおくれて出て来るような長い左腕から低目に球を集めようと努力していた。彼のよさは柔軟な上体と強いリストをうまく活用し、重心を低く持って来るように注意していたように思う。カーブも大きいのと小さいもの。これにスライダーをうまくミックスしていた。王はこの二種類のカーブを外角に落とされて打てなかった。試合後「自分は引張ることばかり頭にあって裏目と出てしまった」と頭をかいていた。内角に落ちる球もよく、時折りナックルも投げた。四球ほどわからぬ球があった。このうち三球は打者は見送っていたが、代打藤尾の三振の球は手先に来てボール圏外に云ったかに見えた時、藤尾は空振り。そのはずみでバットを投げ出してしまった。隣で見ていた巨人の内堀氏(もと巨人捕手現スカウト)も頭をひねって「一体あの球種は何だろう」と不思議顔。実はそれがスクリューボールだった。とにかくバンサイドは低目に変化球を集めようとしていたし、低目の変化で勝負する投手と見た。打者の攻め方も日本の投手とちがうように思う。対巨人戦用といわれるバンサイドではあるが、好調時のバンサイドにはセ・リーグの好打者も手を焼くのではないか。今後の彼の健闘を注目したい。
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荒砂任司

2017-10-22 09:38:05 | 日記
1956年

投手 19 荒砂任司

昨秋、西宮球場に於いて、鐘紡渡米壮行試合で好投、西村監督の目にとまって、阪急入りとなった選手である。シュートボールに特徴がある。

京都水産高ー福知山鉄道ー阪急
五尺八寸 十七貫五百 二十才
右投右打 京都府 合宿
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