1983年
加藤はロク膜炎、血行障害と二つの危機を乗り切ったが、三富は、それを上まわる三つの危機に襲われながら、すべて克服したのである。初めが戦前の頭部へのデッドボール。次が戦後の左腕骨折。そして三番目がロク膜炎。実をいえば、三富は、第四の危機があった。それには、このわが輩がからんでいる。27年のことだったが、所は後楽園。一塁走者の三富は二塁へ歩くようにしてフラフラとやってきた。間違いなく併殺、と観念しておったのでしょうな。滑る気配もない。ウカツにもわが輩、三富が投手であることをすっかり忘れていた。だから、いつもの顔は三塁、ボールは一塁の猛牛スロー。なんとこれが三富の顔面を直撃してしまったのだ。ワシャ心の腕が止まりしたぞなもし。ブッ倒れた三富の前で土下座して「すまん!」と謝った。謝ったって、もう遅いのですが、この時のわが輩、こうするより仕方なかったのだ。それほどショックだった。その三富が何日かあと、ホッペタに絆創膏を張ってニコニコ顔でわが輩の前に現れた時は、本当に救われた思いがした。不幸中の幸い。わが輩の送球は急所をはずれ、ホホ骨の打撲だけで済んだのだ。これがコメカミややや鼻の上だったら、とんでもないことになっていただろう。いま思いだしてもゾッとするシーンだ。こんな三富だから、少々のことでは驚かない。当時としては非常に珍しい左のサイドスローからのシンカーを有効に使って、満員の巨人戦でも度胸満点のピッチング。川上や与那嶺に「三富はどうも好かん」とブツブツいわせたものだ。当時の三富を一番よく知っているのは杉下茂。杉下によれば、まったくタイプの違う2人は「助けられたり、助けたりでいいコンビでしたよ」ともに24年に中日にやってきた。いわば同級生。杉下の豪球と三富のシンカーの組み合わせは、たしかに相手打者には厄介なシロモノでした。24年といえば、坪内、西沢が中日に戻ってきた年、29年初優勝の布石がこの年にでき上がったのである。戦前派の三富が29年を最後に引退したのは、宿願を達成、もう思い残すことはない、と考えたからでしょう。戦前派ー。それはまったく戦前の人そのものだった。戦後初めて中日で「18番」をつけたのが三富、中日は、16年まで(当時は名古屋軍)18番をつけていた村松幸雄投手が、特攻隊員として散華して以後、18番は欠番扱いとなっていた。そのエースナンバーが三富のものに。感激した三富は村松の故郷である掛川まで行き、墓前で「村松先輩、この番号をありがたく戴きます。先輩の名を決して汚すようなことはいたしません」と誓った。こういうことはおそらく、いまの若い選手には理解不可能だろう。だが、戦前の職業野球の選手とは、こういうものだった。三富は25年に16番をもらうのだが、それまでは21番。これは奇しくも、加藤の背番号と同じ。そういえば、加藤の前に21番をつけていた現日本ハムの高橋一も腰痛と闘いながら頑張っている。21番は耐える男背番号らしい。
加藤はロク膜炎、血行障害と二つの危機を乗り切ったが、三富は、それを上まわる三つの危機に襲われながら、すべて克服したのである。初めが戦前の頭部へのデッドボール。次が戦後の左腕骨折。そして三番目がロク膜炎。実をいえば、三富は、第四の危機があった。それには、このわが輩がからんでいる。27年のことだったが、所は後楽園。一塁走者の三富は二塁へ歩くようにしてフラフラとやってきた。間違いなく併殺、と観念しておったのでしょうな。滑る気配もない。ウカツにもわが輩、三富が投手であることをすっかり忘れていた。だから、いつもの顔は三塁、ボールは一塁の猛牛スロー。なんとこれが三富の顔面を直撃してしまったのだ。ワシャ心の腕が止まりしたぞなもし。ブッ倒れた三富の前で土下座して「すまん!」と謝った。謝ったって、もう遅いのですが、この時のわが輩、こうするより仕方なかったのだ。それほどショックだった。その三富が何日かあと、ホッペタに絆創膏を張ってニコニコ顔でわが輩の前に現れた時は、本当に救われた思いがした。不幸中の幸い。わが輩の送球は急所をはずれ、ホホ骨の打撲だけで済んだのだ。これがコメカミややや鼻の上だったら、とんでもないことになっていただろう。いま思いだしてもゾッとするシーンだ。こんな三富だから、少々のことでは驚かない。当時としては非常に珍しい左のサイドスローからのシンカーを有効に使って、満員の巨人戦でも度胸満点のピッチング。川上や与那嶺に「三富はどうも好かん」とブツブツいわせたものだ。当時の三富を一番よく知っているのは杉下茂。杉下によれば、まったくタイプの違う2人は「助けられたり、助けたりでいいコンビでしたよ」ともに24年に中日にやってきた。いわば同級生。杉下の豪球と三富のシンカーの組み合わせは、たしかに相手打者には厄介なシロモノでした。24年といえば、坪内、西沢が中日に戻ってきた年、29年初優勝の布石がこの年にでき上がったのである。戦前派の三富が29年を最後に引退したのは、宿願を達成、もう思い残すことはない、と考えたからでしょう。戦前派ー。それはまったく戦前の人そのものだった。戦後初めて中日で「18番」をつけたのが三富、中日は、16年まで(当時は名古屋軍)18番をつけていた村松幸雄投手が、特攻隊員として散華して以後、18番は欠番扱いとなっていた。そのエースナンバーが三富のものに。感激した三富は村松の故郷である掛川まで行き、墓前で「村松先輩、この番号をありがたく戴きます。先輩の名を決して汚すようなことはいたしません」と誓った。こういうことはおそらく、いまの若い選手には理解不可能だろう。だが、戦前の職業野球の選手とは、こういうものだった。三富は25年に16番をもらうのだが、それまでは21番。これは奇しくも、加藤の背番号と同じ。そういえば、加藤の前に21番をつけていた現日本ハムの高橋一も腰痛と闘いながら頑張っている。21番は耐える男背番号らしい。