プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

矢嶋勝彦

2023-08-22 22:06:35 | 日記
1967年
ノンプロ生活四年間、1㍍73の小兵ながら、思い切ってプロ入りした矢嶋勝彦内野手(22)。ベース一周を13秒8で走る近鉄の秘密兵器だ。右手をちょっと外に開いたランニングフォームは、バランスがよくこまねずみの形容がぴったりだ。南海には広瀬という盗塁王がいる。その広瀬には及ばないにしても、阪急の忍者山本にはヒケをとらない俊足、抜け目のない走塁をすることは間違いない。フィールディングも一流だ。「グラブさばきのうまいのにはびっくりした」といったのは、阪神から移籍した名手鎌田だ。二月十九日の日曜は、明石キャンプではじめての紅白戦が行われた。約三千人のファンがつめかけたが、その三千人が四回思わず「ワーッ」と歓声を上げ惜しみない拍手を送った。遊撃を守っていた矢嶋が、痛烈な三遊間ゴロを頭からすべり込んで好捕、すばやい身のこなしで送球、アウトにしたからだ。鎌田がお世辞抜きでほめるほどだから、グラブさばきは確かにうまい。だが、問題はスローイングだ。手首を巻き込むように投げるので、捕球から投球まで鎌田や安井らとくらべるとひと呼吸おくれるように見える。ノンプロ東京日産時代、肩を痛めて以来、痛みをかばって投げているうちに、そんなスローイングになったのだという。問題はバッティングだ。1㍍73の小柄だが、ノンプロでは三番を打っていた。リストが強く、見ていて意外なほど打球が飛ぶ。昨年の産別対抗で後楽園の右翼席にホームランしたのもなるほどとうなずける。だが、それは、フリーバッティングでの話。投手が全力投球する紅白戦などでは、つまった打球が多かった。外角打ちはいい、内角の速球にはどうしても打ちおくれていた。上体が先に突っこむからで、真ん中から外の球は、強いリストでおっつけるように打てるが、内角球には、いわゆる腹切りの窮屈なバッティングになる。矢嶋にはオレは実戦的な選手という自負がある。その気持ちがコーチのアドバイスを素直に受け入れさせないようだが小玉監督は、その根性を高く評価しているひとりだ。「確かにバッティング面ではもの足りないところがある。しかし、野球はフォームがすべてではない。それなら、南海の国貞なんかあれは一体なんですか。あれはバッティングじゃありませんよ。それでいて、試合になると、うるさいバッターだ。フォームがいいに越したことはないが、それ移住鬼大事なことは気迫ですよ」と手放しでほめる。また矢嶋は内野ならどこでもこなせるオールラウンド・プレーヤーで「遊撃より、むしろ二塁の方が守りやすい」というほど器用な選手だ。近鉄の今シーズンの内野布陣はいまのところ、二塁鎌田、遊撃安井、三塁小玉監督だ。近鉄としては、ここ数年来にない、守備のいい顔ぶれといえよう。だが、三人はそろって軽量、フル・シーズンを押し通す体力という点で不安がある。二塁の控えには進境著しい五年生菊川がいる。三塁には、同じ新人だが竜谷大のキャプテンだった伊能がいる。遊撃のライバルとしては十一年選手の木村軍がいる、だが、控え層の中では、根性のきつい矢嶋が、グーンと頭角を現してくる公算が大きい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西芳弘

2023-08-22 20:34:09 | 日記
1991年
「野球は中学でやめて高校では陸上をやろうと思ってたんですよ」あえて難しいプロの世界へ飛び込もうとうする西選手から意外な言葉が飛び出した。高校へ入学したら、仲のいい友達と陸上部に入部するつもりだった西選手を野球の道へと導いたのは寺井高の高鍬稔久監督だった。監督の「ピッチャーをやってみないか」の言葉にひかれ、西選手は野球を続けることになる。二年の春からレギュラーでセンターを務めながら、投手の練習も積んできた西選手は最高145㌔の球速をマークする地肩の強さもさることながら、百㍍を11秒5で駆け抜ける足やバッティングにも非凡なものを見せ、オリックスの三輪田勝利編成部課長に「俊足、強肩、リストの柔らかいバッティングと三拍子そろった素晴らしい素材だ」と言わせるほど。西選手がプロのスカウトの目に止まったのは、ちょうどレギュラーの座を射止めた二年春のことだ。三年に同姓の選手がいて、春の県大会を見に来たスカウトが5番・センターで出場していた西選手を三年生だと思い込み「一度練習を見せて下さい」と高鍬監督に申し込んだ。三年の春には、指名したオリックスをはじめ、十球団のスカウトが西選手の練習を見学に訪れた。西選手は「自分とは掛け離れた世界だと思っていたのに、意中のオリックスから指名されてうれしい」と喜びをかみしめるものの、ドラフト直前まで心に決めていた大学進学かプロ入りかでかなり迷ったようだ。父親の延夫さん(49)と母親の三重子さん(46)は「正直なところ大学へ行ってほしいという願いもあるけど、本人が決めたことだから思う存分やらせたい」と話し、「オリックスの松永選手を目標に頑張ります」と早くも目を輝かせるわが子の巣立ちを暖かく見守っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1983年 巨人 退団選手

2023-08-22 19:56:54 | 日記
1984年
昨年も7人の男が多摩川を去っていった。沖縄の星といわれた赤嶺賢勇はトラックの運転手さんに。頑張り屋の伊藤元喜は不動産屋の見習に。ガッツマンの森谷昭はスポーツ店に。二宮至もまた同じなら、西尾善政は市役所勤務にアタックし、安西健二と与那城隆は実家をつぐ第二の人生へとスタートしていった。「巨人で学んだものは決して無駄ではないはずだ。巨人に在籍した誇りを忘れずに、新しい人生にトライしてほしい」と涙ながらに話しかけた藤本寮長のことばを胸に、彼らは寮の荷物をまとめて出ていった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

服部敏和

2023-08-22 19:49:35 | 日記
1983年
惜しかったのは昨年8月、全治2ヶ月の重傷(左足首骨折)を負って、ついに15年間の現役生活を断念せざるえなかった、服部敏和外野手だ。立大を中退、日本楽器からの44年の近鉄入り、51年、日ハムへ移籍していた。抜群の守りで、控え外野手ながら、昨年、念願の1000試合出場を果たして「悔いのないプロ生活」だったという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高井一

2023-08-22 18:39:18 | 日記
1994年
第二の人生は、好きなことをとことん追求したいー。今季限りで任意引退となった元阪神・高井一外野手(25)は地元の神奈川に帰り、大手製パン会社に勤めることになった。「とにかく子供のころからパンが好きだったんですよ」就職先を決めた理由はいたってシンプル。寮生活を送っていた時も、朝は和食には目もくれずパン一筋。練習から帰ってきても、おやつがわりに口にしていた。それを職業にまでしてしまうこだわり、純粋さは野球にかける思いと同じだ。「掛布2世」と期待され横浜高からドラフト2位で入団したのは87年。プロ7年間で78試合、2割5分8厘の成績を残した。しかし、手術まで必要となった腰痛には勝てず、今季を最後に無念の引退。からっぽになった心に「パンを作る仕事がしてみたい」という欲求が徐々に満ちていった。もちろんすぐにパンが作れるわけではない。大会社では機械による大量生産システム。その流れを管理するのが当面の仕事だ。「でもね」高井はいたずらっぽく笑う。「何年かすればパンの作り方を一から研修させてくれるんですよ」その日を待ちながら、とりあえず1月10日から働き始める。休みは9回。夜勤も覚悟のうえだ。夢はもちろん「高井ベーカリー」を作ること。「年を取ってからでいいんですけどね。とりあえず勉強です」と言う目は現役時代と同じ真剣そのもの。打撃の職人を捨てた男が、今度はパン職人に挑戦だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする