プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鈴木孝行

2023-08-30 21:06:51 | 日記
1984年
先発ピッチャーの背番号といえば、だいたい10番、20番台が相場。「そんなの関係ないよ」と平然と先発投手に入ってきた72番の男がいる。鈴木孝行である。左腕からの重いストレートを投げ、カーブ、スライダーの変化球もいい。「いまはパームボールのマスターに取り組んでいるんです。これを完全にコースに投げられるようになれば…」この男、背番号では苦い経験をしている。56年、東北クラブからドラフト外で入団したときはエース格の「19番」その喜びは1年でチョン。西本に奪われ「33番」に変更。58年になって、今度は成田にぶんどられた。それでも、いまやローテーション入りの切符を半分手に入れた。プロ先発組で最も重い背番号の投手となった。鈴木孝にはこんなエピソードも。黒江コーチが、寮の部屋をちょっと覗いたら、灰皿がタバコの吸いがらの山。「どうやって、吸ったタバコを消すのか」図太い神経も持っていた。


1987年


引退後:都内で就職

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片岡一美

2023-08-30 20:53:25 | 日記
1969年
片岡一美捕手(18・1年)関西高から入った片岡は広島ファンでもほとんど聞いたことがないというから中央の野球ファンはまず知らない。根本監督は「捕手が欲しい」と阪神の辻佳に白羽の矢を立てたが、結局ふられてしまった。衰えが著しい田中のあと釜が必要で、控え選手には絶好のチャンスなのだが、この片岡は、そのチャンスを与えられる間もなく、わずか一年間のプロ生活から足を洗った。今後はどこかに勤めるというが…。

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芝正

2023-08-30 20:48:46 | 日記
1984年
ルーキー田中学が3回に金村から先制3ランを浴びた。1点差に追いあげた五回無死一塁から二番手でマウンドに上がった芝は、火の付きかかった猛牛打線を完全に沈黙させたのだ。スピード豊かなストレートに、大きく割れるカーブ、それにスライドしたりシンカーのように落ちる芝ボールが効果的で、4回を2安打無失点で切りぬけた。2年目の57年5月19日の西武戦でイースタン史上6人目のノーヒット・ノーランを達成。4年目の今季は背番号も「50」から「29」に変わり、自主トレから一軍入り。左足首捻挫も克服して「中継ぎとして高橋里、田中学とともに期待している」まで成長した芝である。

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柳田利夫

2023-08-30 20:23:49 | 日記
1960年
柳田利吉さん(58)=新矢ノ倉炭鉱勤務=とキンさん(55)の間に五男二女の四男として生まれ幼いころから意地っ張りで向う気が強くキカン坊の典型だったという。湯本二小から同二中に進んだが当時は身体が小さくやせぽっちで野球部に入っても中学三年になってようやくレギュラーになれたというから全く皮肉なもの。しかし運動神経の方は小学生のとき秋田県の陸上競技大会に出場したという父利吉さんの血をうけただけあってすばらしく学校の運動会ではいつも一位だった。もっともこの点は長兄進さん(34)=常盤炭鉱、次兄栄さん(32)=常磐炭鉱、三兄三郎さん(27)弟勝利さん(20)とも同じで常磐炭鉱の運動会では柳田一家が居住地の青葉区=常磐市湯本字日渡地内=を代表するリレー要員だったし、野球のほうでも全員が青葉チームの有力メンバーだったスポーツ一家である。二十七年、湯本二中を終えて常磐炭鉱に習技生として入社、このころからメキメキ身体が大きくなり習技所野球部に投じてショートを守った。翌二十八年、柳田選手を含む同チームの主力メンバーが内高定時制に入学し県高校野球界の席巻を図ったが、これは他校からの異議申し立てで挫折し、三年後に常磐炭鉱野球部に迎えられた。在校中もショートとして活躍したが、とくにバッティングは素晴らしく三番か四番を打つロングヒッターだった。当時、柳田選手らを鍛えた森文則氏=常磐炭鉱労務係、平商OB=は「あのころは一日四時間から五時間きたえ上げましたがなかなか音を上げない気の強い男でした。強肩、俊足なうえにファイトもあり、あれはやはりホームランバッターですよ。気が強いだけに努力もしますからプロでも成功すると思います」とベタぼめしている。同炭鉱野球部ではチャンスに恵まれず鳴かず飛ばずの三シーズンを送り三十三年心機一転、大毎の新人テストを受けて見事に合格、タテジマの入ったスマートなユニホームに百八十二センチの長身を包むことになった。それでも最初はこの田舎選手が果たしてプロ選手になれるかどうか疑いの目をもって見られたが、なんとかものになると可愛がったのが西本監督と二軍の山田コーチで連日ノックの雨だったそうで、西本監督はそんなときでもヘバらない柳田選手のファイトは大毎にない新しい型として将来一線級になることを見通した。この苦労が実って昨年あたりから一軍のラインアップに顔を出すまでに成長、そして三年目の今シーズン、遂に待望の一番打者のポストを確保、一躍スターダムにのし上がった。この間、常磐市に残る家族も大変だった。野球のヤの字も知らなかった母キンさんまでテレビにかじりつき、ラジオに聞き耳を立てて「利夫がんばれ!」の声援を送るほどになった。もっとも柳田選手が打席に立つと耳をおさえ、顔を伏せてしまうという。毎朝五時半に配達されるスポーツ新聞も一家の争奪戦だったが、いまでは父、母、長兄の順に落ち着いたようだ。去年十七日、利吉さんは次兄栄さんに連れられ生まれて初めて後楽園の観覧席に座った。この日のカードは大毎ー何回のダブルヘッダー。第一試合の一回裏柳田選手がバッターボックスに入った。南海の投手はエース杉浦、柳田選手はなんの苦もなく第二球を左翼中段にたたき込んだ。観衆総立ち、ダイヤモンドを回る柳田選手に拍手を送った。利吉さんもさすがにうれしかったという。「ボックスに入る姿を見たら三振でもするのではないかと落ち着かなかったが、あの一撃は全く素晴らしいプレゼントでした」と目を細くして笑っていた。最近、柳田選手からきた便りには「調子は上々、ホームランダービーなどは意識していないし自分のペースを守って自信を持ってやってゆく」とあったが、新聞のスクラップをつくり打ったといって手を合わせて喜ぶ母キンさんにはいつまでたってもキカン坊利夫君のことが気になるらしく金刀比羅様のお守りを送ったり「人気におぼれず、健康に注意してしっかりやれ」と口やかましく激励している。「利夫は親思いなヤツです。いったんこうと思い込んだらテコでも動かない強情っ張りですから母の言うことだけには無抵抗ですから母からの忠告が最上ですよ。いまの調子をもちつづけて郷里の声援にこたえてもらいたいものです」と進さんが結んでいた。柳田選手のめざましい活躍に刺激されて最近常磐市を中心にした後援会結成の機運も起こっており、エースの小野正一投手とならんで大毎の快進撃をになう同選手の活躍に郷土ファンは盛んな拍手を送っている。

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