プロ野球 OB投手資料ブログ

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矢ノ浦国満

2023-10-04 15:04:31 | 日記
1960年
矢ノ浦国満選手は福岡県遠賀郡水巻町の出身である。ノンプロ球界では一応名のとおっている日炭高松がここにある。父親保喜さんはこの日炭高松に勤務していた。水巻中学を経て東筑高校に進学した矢ノ浦選手は彼が住む高松区東町という静かな炭鉱住宅地に前代未聞のスカウト合戦を展開させた。東筑高からは先に西鉄の仰木選手がプロ入りしれいるから矢ノ浦選手はプロ入り二号である。巨人を除く十一球団が矢ノ浦選手入団をめぐってしのぎをけずるようになったのは彼が高校二年のときからである。ショートを守り得意の外角球なら大物をとばす。昨年、今年と春、夏の九州大会で見せた矢ノ浦選手の打棒の冴えと軽快な守備に各球団のスカウトが着目したのは当然のことであったろう。今年の春夏ともに九州大会では四割の打率を残している。プロ入りは一時南海にきまりかけたが土壇場になって近鉄バファローが射とめた。西鉄、南海はじめ各球団が示した契約金は近鉄に劣るものではなかったという。近鉄を選んだ理由について「一日も早くレギュラーとして働くには下位球団の方がいい」という理由にあったらしい。「弱小球団に入って自分の力で少しでも強くできたら」という希望が多少高遠に過ぎるとしても「プロ野球に入るからには弱小球団であればあるほど個人プレーは目立つ。私はそのスターになりたいのだ」とすなおに語るあたり好感がもてる。シーズンが終わって約一週間ほどバファローで合宿生活し、紅白試合にも出場したが、この一週間は実に貴重な体験であったという。その言葉の中には想像も及ばなかったプロ野球の洗練された技術に対する響きが秘められているが、それでも「決してついていけないものではない」という信念と希望も同時に抱いている。国満という名前は彼が満州国で生まれたことを示す。満州では一かどの事業家であった父保喜氏(54)も昭和二十二年内地に引き揚げてきてからは一介の坑夫として日炭高松に就職した。そうした生活の苦しみを子供心に脳裏にきざみつけている矢ノ浦選手は、自分が、一流のプレーヤーになることで、親孝行をしたいと強く決心しているのである。


父親保喜氏の話 おとなしい性格のようにみえて精神に一本シンが通っている子供だ。プロ野球に入ったからには、自分たちのように喜んでくれている周囲の人たちの期待を裏切らなぬような選手になって欲しいとただそれだけを願っている。近鉄に行くことはあくまで本人の希望のとおりだった。早く一線に立ちたいと願う気持と、二、三年は下積みで鍛えられたいと願う気持とどちらがいいかは分からないが、要は本人の努力次第だと思う。


東筑高大橋監督の話 矢ノ浦は打ってよし守ってよしの選手だがプロ野球のショートとしては若干肩が弱いように感じる。だからサードにいった方がいいと思うのだが…。外角球には滅法強い選手だが内角球もプロで鍛えられるならわけなく上達しよう。グリップの強さは無類だ。矢ノ浦はきっといい選手になれると思う。

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