プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

芝野忠男

2016-04-27 22:11:17 | 日記
1957年

南海、毎日と競り合って芝野を獲得したとき、大洋球団木下代表は「芝野は大洋の中西になるんじゃないか」と。この新人に寄せる期待をあからさまに語った。鎌倉高の三塁手として一昨年は4割2分、昨年は4割1分をマーク、本塁打6本をたたきだした神奈川県下高校きっての強打者、身長1㍍78、体重76㌔というのも高校ばなれしている。鴨池球場の大洋キャンプに加わった八日「卒業試験でろくろく練習もできなかった」といいながら松井、豊田らが投げる重い球を苦もなく中堅へふかぶかと持っていった。ことに内角ベルトあたりにきた球は百発百中、白い孤をえがいて三百フィートラインを越えていく。「シーズン半ばに代打に出せる」と迫畑監督がほおをほころばせるのもムリはない。今シーズンの大洋のホット・コーナーを守るのはいうまでもなく老巧児玉だ。しかし児玉は年令的にみて全試合出場はムリ。したがって守備のよい山村で逃げる試合が多くなろう。キャンプでは児玉、山村、芝野の三人が三塁を守っているが、肩は芝野が随一。しかし守備はまだまだ難が多い。宮崎二軍監督がいみじくもいった「芝野の一打で勝つか、かれのエラーで負けるかだ」と。当然キャンプでは猛烈なノック攻めにあっている。「プロは高校野球とちがうので、第一歩から勉強しなおします。ライバルといえば、みんながライバルです」と静かに語ったが、リキがあってしかも鋭いスイングといい、打球にドライブがかかっている点といい、身体のわりに柔軟なところなど大洋の中西の素質は十分。白面の好青年であることもつけ加えておこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日野美澄

2016-04-27 21:21:33 | 日記
1957年

日野は相手チームにとっては小にくらしい型の選手である。ニック・ネームはゴンタ(悪太郎の意)あるいは「おとぼけのゴンタ」などいわれている。悪太郎といっても、悪いことをするというのではない。見たところ五尺六寸、十七貫の彼には立大の長嶋早大の森などのように必殺のパンチで敵を威圧するほどの貫録があるわけではない。いうなれば往来の図太さ勝負強さが時折り敵の心たんを寒からしめるような痛打となって現れるところから、相手にとってはいやなバッターとしてうつるのである。昨秋二割一分六厘で二十一位という打撃不振にあえいでいたにもかかわらず、早慶戦では二度とも彼の殊勲打で優勝を自軍にもたらせたあたり、日野の特色がよく現れたものといえよう。生国は阿波踊で有名な徳島県、昭和九年生まれというから二十二歳である。鳴門高から慶大に進んだのであるが、昭和二十六、七年の鳴門高は大型打線で甲子園の花型であった。二十七年の選抜でも準優勝を遂げ、日野は二年とも優秀選手に選ばれた。花やかな高校時代を過ごした彼は廿八年慶大に進み、春からレギュラーとして出場、九分九厘まで首位打者は大沢(南海)の掌中にあったのを、シーズン途中の出場で規定打数の足らなかった日野が、早慶三連戦で9打数、3安打を記録して、規定打数の30を越え、三割八分二厘の高打率をあげて二厘差で大沢から首位打者の栄冠を奪ってしまった。日野はどちらかといえば、技術より精神力でもっている選手である。守備においても華麗さはなく、むしろギコチない球さばきで見栄えがしない。それに強肩でもない。打撃フォームをみても、ギコチなさが見受けられ、体力的にも恵まれず学生野球では花形選手のうちにはいるだろうが、プロではと頭をかしげる人も多い。にもかかわらず、ストーブ・リーグでは日本の最強チーム西鉄と巨人の対抗馬中日との激しい争奪戦の的となった。西鉄、中日などの強豪がなぜ彼を欲したのかというと早慶戦でのものおじない試合度胸を買われたからであろう。たとえ調子は悪かろうと、嫌いな球であろうと、ここというときは球に食いついていくファイト、しかもそれがテキサスとなり、安打となって敵に痛手をあたえるところが、魅力の根源であったと思う。日野は現在のところでは、技術面からみて岡嶋に優るとは思われない。しかし精神面あるいは基礎、経験から割出して、彼が大振りすることなく、打撃眼を養い、悪球に手を出さずに自己の長所を活用すれば、遊撃のポジションを獲得することもできよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒井健

2016-04-27 19:29:10 | 日記
1957年

ワセダの荒井といっても、花やかなリーグ戦に登場したのは、わずかに五、六回ていどだから、一般ファンに知られていないのも当然のこと。ワセダでは全く木村、山口の陰にかくれた存在であった。直接の指導者である早大森監督すら彼の力量を見逃しがちで、昨秋全早慶戦における彼のピッチングを見て、初めてしまった!早慶戦に荒井を使うのも面白かったな・・・とくやしがったとか。その真意は別としても、とにかく荒井は地味な選手である。高松一高の二年生のとき、当時三年生だった中西(現西鉄)とともに、夏の甲子園大会に出場、準決勝まで勝ち進んで清水(現毎日)-上市(現大映)の平安に惜しくも敗れたものの、一回戦では秋山ー土井(現大洋)の岡山東、二回戦は福島、準々決勝では植村(現毎日)-石本の芦屋を倒すなど、ちょっと注目された存在だったが、秋山、植村、清水などのようにさわがれなかったのも、身のついた地味さのせいだろうか。五尺六寸五分、十七貫三百の体格も、プロ選手としては小さい部類で、ちょっと見ただけでは、これで力のバッティングに対抗できるかと思うほどである。しかし芥田監督は、バネのよくきいた身体とともに、よく野球を知っている点において、相当高く評価している。高校時代から大学にかけてスリー・クォーターだった投法を、大学三年生ごろから真っ向から振りおろすオーソドックスな投法にかえて、かえってクセが出てきたという彼の球あナチュラル・シュート、あるいはナチュラル・スライダーするひねくれかた。これに意識したシュートとスライダー、垂直に落ちる大きなドロップと小さなドロップ、それにアウドロ気味のカーブを混じえ、相当多彩なピッチングである。といっても決して技巧にかたよっているというのではない。スピードも普通以上にあるし、ウィニング・ショットとして垂直なドロップはまだ打たれたことがないというほどで、一試合平均8個の三振を奪っているのをみても、力で勝負している証拠であろう。ただ体力的に劣り、初めから終わりまで力一本で押し通せないところから球に変化をもたせ、打者の欠点をつくことによって、力の不足をカバーしているのであって、自己の生きる道をしっかりつかんでいる点は、真っ向から勝負はしていきますが、決して三振をとろうなんて考えていません。そんな色気を出したら必ず打たれますという言葉とともに、やはり大学でもまれ、技術的にも、人間的にも成長している結果だろう。プロに入っての課題もまだシュートが打者のうんと前から曲がるので、もっと打者の手元で変化するよう務めたいということで、プロに入って劣る体力のマイナスを、変化球の鋭さで補う点は賢明である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小野木孝

2016-04-27 18:55:08 | 日記
1959年

国鉄の4点リードが吹き飛んで4対4のタイスコアとなったところで西鉄は稲尾を送った。その稲尾の立ち上がりを攻めた国鉄が箱田のタイムリーでふたたび2点をリードしたところでだれがマウンドを踏むか注目された。西鉄に勝って若いナインに自信を植えつけたい国鉄をすれば、大かたの予想は勝つ態勢にあったのだから、ベテランの器用だと思われた。ところが出てきたピッチャーはなじみの薄い小野木だった。小野木は予想を裏切る快投をやってのけた。ばん回をめざす西鉄のトップ高倉を内角球で2ストライクと追い込んだあと、外角低目の速球で三振に打ち取ったのをはじめ、打ち気にはやる西鉄を七、八回三者凡退まで寄せつけなかった。最終回小淵にカーブを左翼線にねらわれて北川と交代したが、西鉄が真剣に攻めていたからこそ一段と光る好投だった。昨年仙台工から入団した二年生。入団一年目は二軍で暮らしたが、1㍍80の長身から投げ降ろす速球は、はじめから見込みありと期待されていた。ことしのキャンプではこの速球をさらに威力づけるように練習したとのこと。北川と交代してベンチに引き揚げる彼の肩をポンとたたいた宇野監督はよくやったといわんばかりだった。
ー西鉄打線を相手どっておじ気はしなかったか。
小野木 そんなことより無我夢中でした。力の限り投げただけです。
ーなにが効果があったの。
小野木 速球とシュートです。
ーこれで気をよくしただろう。
小野木 自信というのでなしに気持ちがいいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祢永智則

2016-04-26 22:58:32 | 日記
1962年

阪急ブレーブスはこのところ積極的な補強をみせているが、このほど福岡県三池農の祢永智則投手(18)=身長1㍍74、体重70㌔、右投げ右打ち=を獲得、三日福岡市新大工町の岩井ホテルで同球団岡野専務立ち会いのもと正式契約をかわした。同選手はシュートを武器とする本格派の投手で、同球団藤井スカウトが射止めた。今夏の県予選では三回戦で三池工に敗れ、注目されるまでにはいあたらなかったが将来性を見込まれている。

岡野専務の話 祢永選手の将来に期待する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三宅孝彦

2016-04-26 20:31:56 | 日記
1962年

プロ野球パリーグの大毎オリオンズでは、このほど名商大付属高の三宅孝彦投手(17)=愛知県守山市二十軒屋=の入団を決定した。身長1㍍71、体重66・5㌔、右投げ、右打ち。同選手は愛知県高校球界では好投手として期待されていたが、愛知予選三回戦で猿投高に4-2と敗退。その後地元をはじめ多数のノンプロチームから誘われていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

的場祐剛

2016-04-25 23:06:02 | 日記
1961年

高校球界の好選手としてプロの関心を集めた法政二高の的場祐剛外野手は、入団先を大洋、大毎にしぼったまま最終的折衝を行っていたが、二日東京・女塚の下宿先で正式に大洋入りの意思を表明、球団事務所で契約に調印した。なお的場選手は四日から川崎等々力の大洋合宿にはいる。昨夏、今春と甲子園大会に連続優勝した法政二の的場選手は主将、主軸打者として柴田(巨人入り)是久選手らとともに早くから注目を集めていた。二年からレギュラーとして出場、1㍍71、60㌔の小柄ながらシャープなバッティングで当時三割六分ていどをマークした。

的場選手の話 ほっとしました。自分の好意を持っていた球団に思いどおりはいれてうれしい。入団の条件については金の面より常時出場の可能性を一番考えました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小松時男

2016-04-25 22:24:55 | 日記
1970年

西鉄は十五日午後一時半、東京八重洲の同球団東京事務所でドラフト七位指名の小松時男外野手(24)=元河合楽器=と契約した。契約金四百万円、年棒百六十万円(いずれも推定)。ことしのドラフト指名選手で契約したのは十二球団を通じて小松選手が初めて、同選手は十六日午後零時二十分、羽田発の日航機で福岡に行き同日、西鉄球団事務所で入団発表のあと、十七日から西鉄の秋季練習に参加する。同選手は172㌢、78㌔、左投げ、左打ち。日大三高ー日大を経て、昨年四月、河合楽器に入社、ことし八月、家庭のつごうで退社した。高校時代は東都六大学の本塁打王から一昨年、ドラフト一位で東映に入団した大橋と同級生。大橋が二番、小松は四番を打ち、三十七年夏と三十九年春の二回、甲子園に出場している。日大時代の通算成績は打率300、本塁打7本。四年生秋のリーグ戦では376(ベストテン2位)本塁打4本を打っている。ノンプロでは、昨年、ことしと二年連続して夏の都市対抗(後楽園)に出場、五番を打った。小柄だが「パンチ力には自信がある」というとおり、長打力もある。左右打ち分けるのがうまく、大学時代の本塁打7本のうち、3本は左、4本は右方向に打っている。ベース一周14秒5と足も速く四十三年春の対立正大戦で、一試合七盗塁を記録している。

小松選手の話 西鉄は好きなチームだった。高校、大学、ノンプロを通じで学んできた自分の野球がプロでどこまで通用するか、全力でやってみたい。左、右に打ち分けるバッティングと足には自分なりに自信を持っている。目標はどんなコースでも安打できる張本さんのような選手になることです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米山哲夫

2016-04-25 22:07:29 | 日記
1970年

西鉄ライオンズの渡辺スカウトは、十四日午後六時ドラフト会議で五位に指名した東芝の米山哲夫内野手(21)=168㌢、63㌔、右投げ右打ち=を横浜市中区初音町一丁目二番地の自宅にたずね、父親真一さん(54)にドラフト指名のあいさつをした。米山選手もまじえて、この日が初めての顔合わせだっただけに、渡辺スカウトは指名したいきさつと、西鉄のチーム事情を説明したていどにとどまり、十九日以降に本格的交渉をはじめることになった。米山選手は、日立の補強選手として産別大会にも出場したが「巨人の黒江のようなタイプのファイトマンで、馬力もあり、右左に打ち分けるうまいバッティングをする」(渡辺スカウトの話)好選手。横浜高校では、ことし西鉄に入団した山本投手の二年先輩だった。米山選手自身「プロでやってみたい」希望を持っており、父親真一さんも「好きな野球をやりたいというのだから、反対する理由はない」と好意的。なお渡辺スカウトは同日朝、東京・数寄屋橋の東芝商事に、東芝野球部の春原監督をたずねてあいさつをしたが、同監督も「本人がプロ入りしたいといえば、とめるわけにはいかないだろう」といっており、プロ入りの障害となるようなことは見当らず、条件さえ折り合えば小松選手=元河合楽器=に続いて西鉄入団は間違いなさそうである。

米山選手の話 プロ野球は野球界の最高のものなので、やれるものならやってみたいという気持はある。プロ野球は近鉄の飯田さんやロッテの平岡さんが高校の先輩なので、近鉄やロッテの試合は何度か見た。西鉄に指名されたときはうれしかった。

父親真一さんの話 小学校一年のときから野球をやっているし、西鉄に指名された以上、プロで一生懸命やりたいという気持を持っているようなので、やりたいことをやれといっておいた。別に反対する理由はなにもない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緒方勝

2016-04-25 21:56:18 | 日記
1961年

ノンプロ日鉱佐賀関のエース、緒方勝投手(22)は十四日国鉄スワローズと正式契約、同日午後三時から同球団事務所で砂押監督も同席して発表された。緒方投手は三十四年宮崎県高鍋高卒業後、日鉱佐賀関にはいり都市対抗野球大会には三十五年鹿児島鉄道、三十六年九州電電、三十七年大分鉄道局のいずれも補強選手として活躍した。身長1㍍76、体重68㌔、右投げ右打ち。速球、カーブを武器とする本格派。十七日から出場できる。

緒方選手の話 得意なタマはカーブ。プロで活躍できるか、やってみなくてはわかりません。巨人の藤田さんのようになりたい。

砂押監督の話 四年前の緒方が日鉱佐賀関入りするときもテストに立ち合ったがよいタマを持っていた。そのときに比べ体格がひと回りもふた回りも大きくなった。フォームがきれいすぎるほどの本格派で、すぐ一軍入りさせる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡河弘

2016-04-25 21:28:14 | 日記
1961年

巨人では二十四日東洋高圧大牟田の淡河(おごう)弘捕手(22)の入団を発表した。同選手は二十一日に東洋高圧を退社、同日午後二時羽田空港着の日航機で上京、内堀スカウトにともなわれて多摩川の合宿入りした。巨人では同日付けで連盟に登録、背番号は60。同選手は久留米商から東圧入りしたもので、今夏の都市対抗でも活躍した強肩の持ち主。1㍍76、70㌔、右投げ右打ち

佐々木球団重役の話 淡河はとても素質のある捕手だ。研修制度が来年から実施されるが、淡河の場合すぐ登録したのでもちろんひっかからない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米山哲夫

2016-04-25 21:19:36 | 日記
1970年

西鉄・渡辺スカウトは十四日、東京・八重洲の西鉄球団東京事務所で、ドラフト五位指名の東芝・米山哲夫内野手(21)と六回目の入団交渉をした。交渉には父真一さん(54)母のぶ子さん(50)の両親が同席、契約金六百万円、年棒百二十万円(いずれも推定)で入団が決まった。西鉄がドラフトで指名した九人のうち佐伯豊南の塩月勝義投手(18)菅豊捕手(18)の両選手は進学の希望が強く交渉を断念するため、米山選手の入団決定で西鉄の指名選手との交渉は全部終了し、七人が入団した。米山選手は横浜高卒・専大を一年で中退したあと浜田産業(静岡)を経て四十三年、東芝に入社した。170㌢、70㌔と小柄だが、ノンプロ三年間の通算打率が3割を超えるしぶといタイプの選手。百㍍12秒と足も速く、ノンプロ通算50盗塁を記録している。ことしの産別大会には日立製作所の補強選手として後楽園に出場、二番を打った。小柄でがっちりとしたからだつきが黒江(巨)に似ているところから黒江二世といわれ、本人も黒江と高校時代の一年先輩の飯田(近)を目標にしているという。なお正式発表は十七日午後、福岡市の西鉄球団事務所で両親が同席して行われる。

米山選手の話 西鉄はこれから伸びていく若いチームだけに魅力がある。目標は早くプロの水になれることだ。なれさえすれば自分の努力しだいで力をつけることができると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

種田弘

2016-04-24 23:47:24 | 日記

梶本兄、米田の左、右本格派で代表される阪急の投手陣にあって、種田は非常にユニークな存在である。いつどんなときでも真っ向から打者とわたり合う梶本兄、米田とは対照的に、種田のそれは文字どおりの静かなピッチング。モーション一つにしても、投球術を思わせるように、インターバルの短い、そして無造作なものだし、繰り出す球も軟球である。梶本兄や米田にくらべてかれは決して体力に恵まれた投手ではない。上背こそ1・75㍍だがウェイトが67㌔、だからこういうピッチングに活路を求めたわけであるが、かれの場合は成功だったと言えよう。阪急入りする前の一シーズンをセ・リーグ大洋で送り三十年に入団したが、この年は8勝7敗とグッと伸び、昨年も阿部、柴田らの中堅がふるわなかったなかで面目を保ったのはかれだけであった。阪急が自チームの宣伝ポスターをつくったとき、種田には針のアナを通すほどたしかなコントロールをうたい文句にしていた。力不足の投手が、その不利をカバーするのは、コントロールと変化球であり、とくにかれのコントロールは狂いがない。ど真ん中に投げこむときはほとんどまれで、つねにコーナー三寸のピッチングである。表をみて四球数が他投手より少ないのは、登板数はもとより関係のあることだが、その正確さを裏付けるものである。変化球はカーブ、シュート、シンカーの三種類。低目にきまるカーブはきれがよい。しかしかれの武器といえばカーブよりもシュート、シンカーであろう。種田の場合、横手気味から手首をしゃくるように球を手離すために低目の球がヒザ元あたりに沈み、打者にはあつかいにくい球となっている。表をみてスイングの大きな打者のそろっている西鉄が手こずっているのは、カーブで泳がせてから投げるこの種の球に引っかかっているわけである。西鉄のほかでも大振りする打者は全部かれにかわされている。稲尾に対して4割もの打率を残した野村が・125なのも同様であり、しゃくりあげる山内も19打数3安打で種田には得手の打者となっている。種田が毎日に不思議と強いことをー(三十年1勝0敗)三十一年3勝2敗、三十二年3勝1敗)-別当監督が「あんな投手に負けるのが不思議だ」と言っていたことがあるが、逆に言えば得点源の山内との勝負に勝っているからと言えるのではなかろうか。その代りにバットを短めに握って、コツコツと攻めてくる打者は苦手のようである。同じ毎日でも小森、荒川には散々打ち込まれているし、ピストルの近鉄にも弱いことをみせている。とくに選球眼をともなう打者にはめっぽうニガ手、力のない東映の浜田にも4割を献上しているのはごまかしが通ぜぬためである。このあたりがかれの嘆きであろう。しかし今シーズンもその存在は貴重だ。体力不足から完投能力に欠けるため、ゲームの後半、球の変化に乏しくなるうらみはあるが、リリーフとして、とくにショート・リリーフとしてのピッチングは、力の打者の盲点をつくものであるだけに、上位チームにはクセ者ぶりを発揮しよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安部和春・岩永功・鳥川忠石・初村義治

2016-04-24 22:29:46 | 日記
1959年

西鉄ライオンズは二十一日正午から球団事務所で四人の新入団選手と正式契約を行った。この日契約したのは安部、岩永両投手および鳥川内野手、初村外野手の4人。これで契約をすませた西鉄の新入団選手は十三人になった。安部和春投手(19歳)博多高、右右、1・79㍍、71㌔、岩永功投手(18歳)大濠高、右右、1・75㍍、70㌔、鳥川忠石内野手(18歳)苅田高、右右、1・73㍍、68㌔、初村義治外野手(18歳)柳川商、右右、1・75㍍、70㌔。

安部和春投手・・・フォームはオーバースロー。高校時代は速球とドロップをおもな武器にして投げていたが、プロでどこまでやれるかわかりません。一生懸命やるだけです。

岩永功投手・・・別に記録らしい記録はない。春の九州大会の予選で福岡商をノーヒット・ノーランに押えたほか練習試合で二度ノーヒット・ノーランをやったことがあるが、みな相手が弱いチームだったからです。最初は上から投げていましたが自然に手が下がって、いまではサイド・スロー。シュートとシンカーが武器です。

鳥川忠石内野手・・一年のときピッチャーをやった経験があるが、二年からずっとショートを守ってきました。三年のときの打率は4割5分ちょっとですが、ホームランは三年間に1本だけで、ロング・ヒットは少ない。高倉さんのようなバッターになりたいと思っています。

初村義治外野手・・・ことしの夏の予選では5割打ちました。ホームランは三年になってから4本。百㍍を12秒ぐらいで走ります。バッティングは引っぱるほうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井上忠行

2016-04-24 21:12:03 | 日記
1957年

同じノン・プロでも全国的にその名を知られていた花井、小淵にくらべて、井上はたんに九州の強打者というに過ぎなかった。そのため、ともすればこの二人のカゲにかくれがちなのだが、こと素質という点・・・さらにはそれによって予測される将来性では花井、小淵を上回るのではないかとクロウト筋では、かれの力を買う人が多い。1㍍79、78・5㌔と、プロ選手には理想的な身体に恵まれているのが高く評価される理由の一つだが、大男に似ず身体に弾力性があり、カンも発達していることがかれの魅力のよりどころともなっている。井上は八女工高の出身で、門鉄には三年在籍した。最初の年は、高校時代の経験から投手をつとめたが、二年目から打力を生かして一塁手に転向、これからの成長が素晴らしかった。門鉄の四番打者としてそのご3塁の通算打率をあげたことでもわかるが、それにもまして驚異なのは、二年間に記録したホームラン22本であろう。ただ22ホーマーを検討して、このうちなんとか大会と銘打った試合、つまり大きな試合で打ったのは「せいぜい四、五本・・・」と本人がいっているのは、多分気の弱いためであり、それともう一つは、内角球は滅法強いが、外角球には相当の甘さを残しているためである。それだけに、この二つをどう克服するかが井上の当面の課題であるが、同僚の間では、研究熱心で通っており、三原監督も「きっとのし上がってきますよ」といっている。そしてかれの打力があまりにも素晴らしく、また河野の調子がよい場合は「外野にコンバートすることも考えている」といっている。それというのも、西鉄の一塁手が、河野をはじめ、驚異的成長をみせた田中、さらには三竿と好選手が目白押しのせいである。思えばむずかしいポジションに入ってきたわけであるが「河野さん一人でなく、一塁全部の人を競争相手として・・」といっているのはたのもしい。プロへ入って最初に感じたことは「プロの選手は力である」ということだったそうだが、とくに目標とする打者は決めていないといっている。ただ門鉄で三番を打っていて、同じくプロ入りした指方(毎日)にだけは「どんなことがあっても負けたくありません」のライバル意識だろう。福岡県八女郡が生んだ最初のプロ選手であり、八女工時代は滝内の戸畑高校と試合をよくした仲である。プロ入りにあたっては南海、東映、国鉄からも勧誘されたが「西鉄が自分の力を一番発揮できそうなので・・・」と西鉄を表したそうだ。野球のほかでは卓球、バスケットなど球技もやり、趣味は登山。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする