プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

宮本幸信

2017-07-09 20:22:09 | 日記
1975年

連敗をストップさせようと懸命に食い下がる巨人を広島は宮本の負けじ魂で辛くも抑えることができた。「ウチのチームができたことは相手側にもやれるということ。警戒心だけは常におう盛でなければならない」と古葉監督はいつも思っている。この夜、外木場が六回までノーヒットノーランで切り抜けたというのに、ベンチの古葉監督は前夜(十三日)のことを思い出していたという。小川に、やはり六回までノーヒットノーランに抑え込まれていた広島が、七回巨人のミスをきっかけに一挙6点を奪ったことである。だから七回無死で王の2ラン、淡口の左前打が続くと迷うことなく渡辺ー宮本のリレーに入ったのだ。「力んでカーブが決まらなかった」宮本が、押し出し四球を与え1点差となったものの何とかこのピンチを切り抜けた。八回に入ると、ブルペンでは前夜7イニングを投げた池谷が投球練習を開始していた。宮本は先頭の末次に左前打を許したが、ブルペンの池谷を見て「なにくそ!」という気持ちを一層高めたという。リリーフの切り札である宮本が投げているとき、主戦投手が待ち構えているといった光景は、今シーズンかつてみられなかったことなのだ。試合後、宮本は「ぼくの気持ちとしてはそりゃねえー、何かありますよ」と、胸のあたりに手をあてて目くばせするのだった。切り札としてのプライドを強調したかったのだろう。宮本は、このピンチに前の打席にホームランした王を三振、淡口を一塁ファウルフライ、ジョンソンを投ゴロに仕とめた。決め球は三人とも鋭いカーブだった。イニングが一つ変わっただけでカーブの威力はまるで違っていたのだから不思議である。ここらあたり気の強い宮本の奮起をみることができよう。九回に入るとブルペンでは池谷のほかにもう一人、二日前完投勝ちした佐伯が加わっていた。この日は阪神が破れ、中日が引き分けた。しかし、古葉監督には、試合後も高笑いするゆとりはなかったようだ。「まだまだトップ争いは三強間で行った日からの大洋戦は怖い。なにしろ相手は打ち出すと止まらないチームだから・・・」
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宮本幸信

2017-07-09 19:03:47 | 日記
1975年

木俣がバットを振った瞬間、もう山本浩は背中を見せた感じだった。打球は、バックスクリーン目がけて一直線に走る山本浩の頭上を越え、あっという間にフェンスにはね返った。同点の九回裏、無死で木俣が二塁に立った。ローンのバントで一死三塁。勝負の時である。与那嶺監督がベンチを飛び出すと「代打飯田」を告げた。飯田は、昨年のこの日、同じ広島を相手に、九回裏代打で登場し、サヨナラ満塁ホーマーを放っている。この一打で中日は巨人と並び、待望の首位に立ち、優勝への一歩を踏み出した。広島の投手は宮本。外野フライ、あるいは緩い内野ゴロでもサヨナラだ。だが、ここから宮本のピッチングがさえた。「三振取るほかありませんからね。悪くても内野ゴロ。だから、強気にコーナーいっぱいを速球で攻めた」。初球のストレートを飯田が力いっぱい振ったのを見ると、シュートで内角を攻め続け、2-3から真ん中高めへストンとカーブを落とすと、飯田はぼう然と見送った。与那嶺監督は、この時、スクイズを考えたそうだ。ところが、広島が満塁策をとってくるという気がして、ためらっているうちに飯田がたちまち2-1と追い込まれてしまい、スクイズを断念したのだという。「一本出れば同じだから、満塁策は考えなかった。飯田がストレートをねらっているのがわかったから、真ん中にカーブを投げた」宮本はそう語る。続く大量にボールを散らし過ぎて0-3。しかし、結果的にはこれでよかった。大島の打ち気をそいで、2-3と持ち込み、再び大島の打ち気が高まると、ワンバウンドになりそうな低いカーブを投げて空振りさせた。「あそこは歩かせてもいいと、思い切り低めをねらった。ストライクコース低めいっぱいからぐっと落ちたので、バットが出たのでしょう。振ってくれと祈ってましたよ」負けムードの試合だっただけに、引き分けると古葉監督は勝利投手を迎えるように宮本の手をしっかり握った。「この引き分けが星勘定のうえでプラスかマイナスかわからない。でも苦しい試合を追いつき、ピンチを切り抜けたのは、今後の試合に大きなプラスになると信じている」と古葉監督。「惜しかった。でもあす勝てば、この引き分けは生きてくるからね」と与那嶺監督。ともにきょう四日の試合に希望をつなぐ引き分けとなったが、試合が終わったとき、首位にいるのはどちらだろうか。
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宮本幸信

2017-07-09 17:50:00 | 日記
1969年

熱を帯びた舞台ー。押しも押されもせぬ名優が期待はずれの演技をし、ワキ役が名演技を見せたのだから、ファンはあっけにとられた。名前は、両リーグ最高の20勝をあげている鈴木。ワキ役は先月三十日の西鉄18回戦でやっと3勝目をあげたばかりの阪急の二年生投手宮本である。一回鈴木も、宮本も三人でかたづけたが、実はこのスタートで早くも二人の距離は球速にひろがる要素があった。鈴木は阪本、ウィンディにいい当たりの外野飛球を打たれ「リズムに乗れないという不安を感じた」のに、一方の宮本はファウルフライ二つと永淵をから振りの三振にとって「タマが走る。いけそうだ」と自信を強めている。しかも鈴木は、この日「サインを見破られないため」指さきだけでなく、からだをゆさぶったりする複雑な動作を、岩木との間で特別に組み立てている。不必要に神経をいらだたせていたのだ。四回長池に3ランホーマーを打たれたタマ(外角直球)も、鈴木は「内緒のことだから」と明かさないが、どうやらサインの手違いにあったようだ。長いインターバルをとったことも失敗だった。ていねいに投げようと一球一球かなりの時間をかけたつもりだが、阪急に読む時間を与えてしまった。「あの一打がショックだった」という二回一死一塁からの岡村浩の右前打は「エンドランをはずすつもりの外角低めのボールを見事にねらい打たれた」という。鈴木は「くふうをこらしたことと、慎重さが裏目になってリズムに乗れず、調子が出ずじまい。完敗だ」とくやんだ。これとは逆に阪急・宮本は無欲だった。首脳陣は前日、米田、梶本、水谷と宮本の四人を先発候補にあげ、考えに考えた。結局「西鉄に完投勝ち(18回戦)した気分だけを買って」(真田コーチ)イチかバチかで宮本。真田コーチは「若いから緊張して四球を出し、つぶれやしないか」と成否は五分五分の気持ちだったという。それが4安打の完封勝ちという降ってわいたようなラッキー。四回無死一、二塁に土井を内角シュートで三塁ファウル・フライ、伊勢を外角攻めで三振(併殺)にとり、六回二死一、二塁にまた土井を中飛にうちとったのは、いずれもタマが生きていた。宮本は言う。「一回でも二回でも押え込もうなどという考えなど全くない。自分の力を岡村さんの言うとおりに出したのがよかった」必勝を期して小細工をし、それに自ら落ち込んだ鈴木と、ワキ役らしく軽い気持ちで投げ抜いた宮本。二人の演技者の心の持ち方が勝敗を分けたように思える。
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山下律夫

2017-07-09 14:34:24 | 日記
1969年

巨人はすんでのところで四年ぶりの不名誉な記録を残すところだった。七回まで長島の2四球だけ。しかも、山下を予想しての五番以下に三人並べた左打者にまったく快音が出ず、長島を二塁に進めることもできなかった。これでは川上監督でなくても、手の打ちようがあるまい。荒川コーチは「ノーヒット・ノーランも仕方がない」と一時はあきらめたそうだ。八回二死で、川上監督は代打に金田を起用した。おそらく三万六千人の観客の大半を占めるだろう巨人ファンへ、せめてものサービスだったのかもしれない。ところが、これが巨人唯一のヒットになったのだから皮肉な話である。「ああ、ヒットだな」山下はワン・バウンドで頭上を越えていく打球を見ながら、思ったそうだ。「がっくりしなかったといったらウソになるでしょう。でも完投が目標だったから・・・。なかなか出来る記録じゃないですからね」と少しも無念さを表情に出さない。ストレート、カーブ、シュート、すべて満足できる出来。とくにコントロールのよさが、巨人打線をキリキリ舞いさせたピッチングをささえていたようだ。ことしの大洋について、長島は「投手がいいね。とくに山下」と山下の名を一番にあげていたし、この日の巨人も山下の先発を予想して、対策も十分練っていたはずである。だが「高橋スコアラーもいっていたが、あれだけ威力のあるタマをコーナーいっぱいに決められたら、打てないよ。まあ一年に一度や二度はこんなこともあるだろう」荒川コーチも完全にお手上げだったようだ。マークし、対策を立て、試合中にエンジンを組んでも、絶好調の投手を攻略するのはむずかしかった。しかし、荒川コーチは「江夏や安仁屋みたいにしようがないという感じじゃないよ。いまに20安打も浴びせて、打ち込んでみせる。苦手とか、こわい存在じゃない。きょうだってベンチで指示するまで、だれもバントをしようとしなかった。こんどは一塁側バントでゆさぶるよ」と山下攻略に新たな意欲をもやしている。一方の山下は「なんとなく自信があるんです。点をとられる気がしませんね」と巨人への自信をすっかり深めたが、くふうを重ねた巨人打線と山下の次の対決が見ものである。
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小谷正勝

2017-07-09 13:32:47 | 日記
1972年

「いやな風だなあ。あれっ、あんな当たりでもはいっちゃうんだから。こりゃ、注意せんといかんな」。試合前、ネット裏で打撃練習を見ていた巨人牧野コーチは、こうつぶやいた。右翼から左翼へ向けて10㍍近い風が吹き抜け、時折り雨がまじるというこの日のコンディション。事実、多少つまった当たりでも、レフトへ飛んだ打球はスタンドに飛び込んでいた。関本、小谷という両先発投手が、この風を計算に入れたピッチングをしたのは当然。ただ、小谷のそれは、きわめて徹底したものであり、関本のはやや中途はんぱだった。この差が結果的には勝負に現れることになった。小谷が右打者には内角を捨てて、外角一本やり、左打者にはその逆で勝負しよう、と決めたのは、一回柴田に打たれたとき。ふつうなら中堅フライになるはずの柴田の打球が風に流され、左中間を抜けたからだ。ベンチの青田コーチも、この回1点とられたあと、小谷に「風の影響が思ったよりある。それに巨人の練習を見ていた感じでは、外角球を引っぱれる打者はいない。内角には絶対投げるな」と指示している。この小谷のピッチングに巨人は、まんまとはまった。当然、外角球をさからわずに右へ打つべきなのに、やたらと引っぱるバッティング。病みあがりの小谷が、松島と代わるまで右方向へ飛んだ打球は3本。二回の吉田、四回の末次はうまく右へ飛ばして安打としている。これ以外は土井のライト・フライ1本だけ。おそらくレフトに打てばホームランになるという誘惑もあったのだろう。「小谷は、いつもだと近めから斜めにはいるカーブがいいんだが、きょうは風を考えて、真ん中から外にスライダーを使っていた。うちの選手は、みんなそれを引っぱったので打てなかった」。福田コーチは、小谷のピッチングをほめると同時に、味方打線に工夫のなかったことを指摘している。一方の関本も「風のことは十分考えて投げた」という。だが、小谷のように内角攻めを完全に捨てきれなかった。三回、松原に1-2から内角のシュートを左翼ポールぎわに打ち込まれ、六回にはシピンに内角から真ん中にはいるスライダーを、これまた左翼ポールの根元にとどめの本塁打を浴びた。松原の一打はつまっていたし、シピンのもふつうなら平凡な左飛という当たり。それを風がスタンドまで運んでしまった。「松原さんの好きなスライダーを外角へ投げてからシュートと思ったが、1球早くシュートを投げたのがいけなかった。シピンのは真ん中のスライダー。でも、外角ばかりで内角を攻めないというわけには、なかなかいきませんからねえ」と関本。だが、この日の風を考えれば少なくとも長距離打者に対し、内角球を勝負ダマに使うのは冒険過ぎた。2本のホームランが証明している。
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渋谷幸春

2017-07-05 22:43:56 | 日記
1973年

予定の6イニングをピシャリ押えて一足先にベンチを飛び出した渋谷の足元は、ウキウキはずんでいた。「打たれると思ったけど、よかったよ」。その言葉とはうらはらに、口元からは白い歯がこぼれそうで、ぐっと胸を張った格好はどうだ!見たかいといわんばかりだった。四月十四日の開幕まで一ケ月たらずとなって中日はこの日からいよいよ本番態勢に入り、主力投手の出陣だ。そのしょっぱなに渋谷が指名されたわけだが、散発4安打、三塁を踏ませぬ力投で、見事期待にこたえるピッチングを見せ、本人の自信はもとより、ことしの投手陣全体に明るさを投げかけた。プロの社会は一年一年が勝負。どの選手もキャンプでは「ことしこそ」を合い言葉に心機一転して出直しを図るものだが、その中で渋谷の意気込みは人一倍激しかった。9勝、10勝とトントン拍子にきた渋谷にとって、昨年は6勝5敗と不本意なシーズンだった。不振の原因について渋谷は「体調のいいときに雨で先発が流れ、悪いときに出てペースを崩した。でも、これはいいわけと思われても仕方ないし、やはり体力づくりの失敗でした」と反省する。昨年暮れからキャンプまで渋谷は毎朝六時に起床すると自宅(名古屋市中村区烏森)の周りを黙々と走り込んだ。車の排気ガスをさけて新鮮な空気の元で足腰を鍛えようと考えてのことだが、このときから渋谷のことしのヤル気は始まっていた。キャンプでもとにかく走った。それだけに体調はすでに完調だ。「きょうは変化球のコントロールがどの程度か確かめながら投げた。それにキャンプで新しくマスターしたシンカーの威力をテストした。まあまあでしたね」とニッコリした。外野の右から左へホームラン風が吹きまくり、投手にとっては投げにくいコンディションだった。しかし得意のスライダー、シュートが両サイド低めによくコントロールされた渋谷の投球は全くといっていいほど危なげなかった。シンカーは全部で7球投げたが、そのうち二回コギンスを三振、三回小川を一ゴロ、四回クオルスを一ゴロに仕止めた球は、打者の手元でストンとうまく落ちて練習の成果をはっきりと見せつけた。渋谷はこの日一番うれしかったのは、なんといっても首脳陣の信頼を得たことだろう。近藤ヘッドコーチは「みなさんが見た通りです」とニッコリしながら「球そのものに力が出ているし順調ですね。これでソロバンがはじきやすくなった」と稲葉、松本、星野仙につぐ第四の投手に期待していた渋谷の好投に満足しきっていた。「ことしはいけそうです」最後に渋谷は自信をのぞかせながらいった。スロースターターの渋谷は、過去三年間のオープン戦は1勝も出来ずに6敗とさんざんだった。だが、ことしは意気込みがそのななオープン戦初登板の白星につながった。桜の名所で知られる刈谷球場横の亀城公園の桜はまだつぼみが固かったが、渋谷は早くも八分咲きである。
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フォイタック

2017-07-05 22:10:20 | 日記
アスプロが四十年にアメリカからつれてきたのが、元デトロイト・タイガースのリリーフ投手だったフォイタック。打者の手元でホップする重い速球、カーブ、スライダー、チェンジアップ、ナックルと多彩な変化球をあやつった。とくにナックルは変化が激しくて威力があった。これだけの球威を持ちながらノーコンのため生かすことができなかった。コースへのコントロールはゼロ。速球は高めに流れつねにボールが先行した。ただ王の一本足にナックルが功を奏し6打数無安打の3三振。これが唯一の日本への置き土産となった。現在、デトロイト市で家屋のセールスマンという。
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北村哲治

2017-07-05 21:44:59 | 日記
1972年

竹内が腕をあげ、三沢もがんばった。今シーズンの期待の男が右から左へ吹き抜ける最大風速10㍍の寒風の中でキャンプの仕上がりをみせる好投だった。それはともかく、頼もしかったのは二年生北村の収穫である。伊藤久にかつての力が望めないいま、左は松本一人の投手陣で、なんとか彼につづく者を作り上げるのがドラゴンズの課題である。岐阜の軟式野球から来たまったく無名のサウスポーが初めて一軍のマウンドを踏み初勝利。それも内容豊富だったのだから、近藤コーチはどんなにkうれしかったに違いない。球威はいま一つ、先発でサア来いーというほどではない。でもワンポイントやショートリリーフなら十分使えるものをみせてくれた。それだけで北村の価値はある。北村の面白いのはコントロールだ。あのスローイングからみると体に似ずスケールは小さい。どちらかというと王に強い大洋の平岡のような異色なタイプになりそうだ。同じ左のタイプでも、間柴と比較してみればそれがよくわかる。四年目を迎えながら再三チャンスを与えられているのに、なぜ間柴が1勝もできないのか。それはコントロールがないからだ。ボール、ストライクがはっきりして打者に追い込まれてしまうからである。北村は左投手にしては珍しいほどのコントロールを持っているが、これは生まれながらの天分かもしれない。ストライクに来るコースが低めに決まるのは大変すぐれた武器である。左のこういう人は貴重だ。左投手不在のいま、面白い堀し出し物になりそうである。このコントロールさえあれば、当分は捕手まかせでどんどん投げていってもらいたい。三本柱の一人へーと、三沢の期待を前日に書いた。大きく曲がるのと、小さく鋭いスライダーとを投げられるようになったのを実証してくれた。ただ問題は、近めを攻めたとき、もう一つ速さがほしいと思う。そこにいま一歩の気の弱さを感じた。内角はこの風で、きっとこわかったのだろう。でも、中途半端はいけない。図太く思い切ってほうれーである。これは捕手にも関係はあるが、左打者へのカーブの使い方、ねらうコースをよく研究してほしい。右打者なら失投も見逃してくれるが、左打者には離れるところがストライクゾーンだから、コースをはっきり見られてしまう。長崎の敬遠にスタンドはわいた。「勝たなければ」と与那嶺監督はいい、青田監督も「二度も打たれれば、心理的に尾を引くことを考えると、三沢を傷つけたくない与那嶺の気持ちもよくわかる」といっている。だがここはあくまでオープン、自分の力、相手の腕をテストする機会ではないだろうか。ベンチの親心に甘えていてはいけない。「オレはこうしたい。投げさせてください」とアピールするくらいのファイトが三沢にあったかどうか。それがオープンなのだ。
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迫田七郎

2017-07-05 21:10:26 | 日記
1971年

中川球団担当は二十九日球団事務所に迫田投手を呼び、自由契約選手にすることを申し渡した。これで中日の自由契約選手は二十七日に発表された小泉、佐藤選手らと合わせて七人となった。
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浜田総国

2017-07-05 20:54:54 | 日記
1971年

六日、浜田総国捕手(26)の任意引退が決まった。同選手は三十九年熊本県八代一高から中日入り、ことしで八年生。一軍出場の経験はないが、リードのうまさには定評があった。球団は来季も契約する意向でさる十一月三十日、条件を提示したが、本人の「八年間お世話になりましたが、将来を考えてこのさい転職したい」という意思が強く、この日の話し合いで任意引退が決まった。今後の身のふり方は未定。
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山田勝国

2017-07-02 00:13:46 | 日記
1972年

福岡で生まれ、福岡で育った山田だが、博多なまりはない。自らコスモポリタン野球人と称するように近鉄の九年間を大阪に住まい、そしてことし東京に住むことになった。だが、平和台の位置する福岡城にきて冷たい石組みにふれると手のひらに幼い日々の思い出がかえってくるのだ。カッチンの警固(けご)中学校は平和台球場のレフトの下にある。狭い校庭を抜けると、幼い足でふまれた道がフェンスまで登っている。「学校がひけると、いや、途中で抜け出してまでも野球を見にいったもんです。当時は改装前でフェンスが低かったんです。クスノキに登って、そこがぼくの指定席でしたわ」三十二年前後。三原が率いる野武士の集団・西鉄の黄金時代だ。中西が打席にはいると、カッチンはするするとすべり降りる。フェンスの外でじっと待つカッチンの前に中西のホームランが飛んできたものだ。あこがれの目で白球にサインをねだるカッチンの頭を武骨な手がなでてくれたという。「おかしなもんですね。あんなにあこがれて、ドキドキした人と一緒に野球をやるめぐり合わせになったんですからね」慶長六年に築かれたこの平山城は山田の幼い日のワンパク道場だった。どのクスノキにせみが多く止まるかも知り尽くしていたし、潮見櫓(しおみやぐら)近くではアキアカネがぶんぶん飛んでいたことも知っている。中学までおよそボールとは縁がなかった少年が、ある日突然野球を志した。医師の家系に育った少年は山田家にとって異端児だった。だが話のよくわかる両親はカッチンのゆく道を心よく認めてくれたという。近鉄時代、月に一度の遠征は決まって両親の家(市内若久御畠山)に泊まった。いまごろの季節には必ずフグ刺しが山田を待っていた。二十八日夜、博多入りした山田はそのまま生家へ向かった。新天地ヤクルトでは博多に帰ることはあまりないだろう。ふるさとが遠きにありて思うものならば、これからの山田にとって本当の故郷になるのが博多だ。四年ぐらい前までは福岡城の石ガキにきたない署名が残っていた。幼い手でエンピツ彫りを一心に振るった。山田だった。「もうあまり博多に帰ってくることもないでしょう。そう思ったら、無性にあの石がなつかしくなりましてね」彫り後はうすれて判じがたかった。山田はその石に故郷をかぎたかったのかもしれない。だが中西のあのプリプリしたおしりにも、もう一つの故郷があることを山田は知っている。
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