プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

山本康夫

2017-09-19 23:15:50 | 日記
1960年 箕島高校時代

今年はどちらかといえば守備のチームで、打線は速球には強いが、技巧派投手にもろさがあり、それを改めることに重点をおいている。本格派のエース山本は一・八㍍の長身で左腕から投げおろす速球、ドロップには威力があり、県下有数の投手。毎試合三振を十個以上とっている。一時肩をこわしていたが最近ようやく復調、持ち前の速球を投げられるようになった。夏の大会までには完全に立ち直るという。

山本が大黒柱で、山本が調子を出し、いま一歩試合運びにうま味が出ると夏の予選大会でも一波乱起こしそうだ。


串本をわずか一点におさえた箕島の山本投手は母の遺影の入ったお守りを抱いての登板だった。去る八日の練習中に母親の久子さん(42)が病気で急死、一時はがっくりしたが、せめて大会での雄姿を亡き母にみせたいとの願いから身につけてきたという。ベンチに引きあげた山本投手は「しばしばピンチに見舞われたが、なにくそとがんばった。とにかく第一戦に勝て、母も喜んでくれるでしょう」と流れる汗をふきながら思わずニッコリ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三宅博・中島広喜

2017-09-18 12:30:55 | 日記
1959年

倉敷工・三宅博遊撃手(18)と大田高・中島広喜投手(18)はこのほど阪神に入団が内定した。三宅は昨春の選抜大会に出場したとき、すでにスカウトからマークされていたが、プロは性格に合わないと今夏の予選前に富士鉄広畑に入社することをきめていた。その後阪神、東映、広島、阪急が強硬に交渉をつづけたため、富士鉄広畑の話は白紙にもどし、倉敷工の小沢監督(元阪神)の線で阪神入りとなったもの。中島は昨秋地元で三十六イニング無失点を記録してから注目され西鉄、阪急、広島、南海、中日、阪神、近鉄などが熱心に勧誘していた。

阪神・河西スカウトの話 「三宅は国体があったので本人への交渉はさけて学校に申し込んでいた。本人は最初から阪神をのぞんでいたので、契約はまだしていないが入団は間違いないだろう。中島は夏の大会終了後、話がとんとん拍子に進んでいたが、学校側が不祥事件(島根県予選決勝)で大社高が放棄試合をしたこと)の処分がきまるまで、ハデな行動はさけたいという自重の態度を示してたので、話がのびていた。中島もまだ契約はしていないが、入団してくれるだろう」

中島広喜 選手権大会では倉敷工に十安打の十点をとられ一回戦で姿を消したが、10三振を奪っている。上手から外角低目の速球とドロップを武器とする本格派投手。将来性を高くかわれ好投手にかぞえられていた。1㍍75、69㌔、右投右打。

三宅博 昨春の選抜大会以来、春夏連続四度甲子園大会出場。今夏は大田高戦(一回戦)で三打数二安打、二回戦で東北高に負けたが、四打数一安打、通算七打数三安打で四割二分八厘。巨人・広岡ばりの軽快な守備で選手権では№1内野手の折紙を付けられた。アメリカ遠征の全日本にはもれたが、スケールの大きいプロ向きの選手長打力はないがシュアな打撃をしている。1㍍70、65㌔、右投右打。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

椎木孝彰

2017-09-18 11:56:18 | 日記
1966年

九回表、杉下監督が打った手は、ことごとく裏目にでた。この試合で一番孤独を感じたのは杉下監督だったにちがいない。九回表一死から長島が中前安打した。ゆっくりベンチからでてきた杉下監督は、捕手の辻佳を呼んで石川の調子を打診してからマウンドに歩みより、投手交代を筒井主審に告げた。このとき右翼ラッキー・ゾーン内の阪神ブルペンでは安部と左の椎木が投げていたが、だれもがリリーフは安部と思ったことだろう。ところが谷村一塁審判は左腕をぐるぐる回して投手椎木と合い図した。プロ入り四年目で公式戦に一度も投げたことがない椎木(和歌山大成高出)しかも打者王だからスタンドはこの交代に大きくどよめいた。1球、2球ボール。ベンチの最前列でからだをのりだし、祈るようなまなざしで見つめていた杉下監督は、ガックリ首をたれた。「投手は初球が勝負だ。それが高めに浮いた。いかんと思ったね」試合後語る杉下監督。王への初球ボールが、試合の明暗を分けたとなると、なぜ初登板の椎木を大事な場面に使わねばならなかったのだろうか。「キャッチャーが実に遠く見えました。王の顔さえ覚えていません」というほど上がっていた椎木を、あえて王にぶつけたのは「椎木がコントロールのいいことと、王が当たっていないこと」(杉下監督の話)が理由だった。それで王四球で継投の歯車がくるった。あわててリリーフ太田を送ったが、塩原に一塁背後へ渋いヒットを落とされた。いったんくるった歯車はどこまでいってもかみあわない。安部に継いだところへ吉田勝、島田のタイムリーがつづいた。「杉下監督があの場面で若手をつないできた気持ちはわかる。ただ守る方にとってこわいのは継投の切れ目ができることだ」と川上監督はいっているが、切れ目とは椎木ー王四球ということなのだろう。投手出身の杉下監督が若い投手の心理状態を計算に入れなかったのはうかつだったかもしれない。だが、村山、バッキー、権藤を使えない阪神投手陣ー。監督の悲哀をしみじみと思わせた試合だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山崎善平

2017-09-17 17:57:54 | 日記
1957年

中日山崎善平外野手はこのほど同球団を退き、名古屋市愛知マツダ株式会社に就職が決定した。また夏目順三投手も山崎外野手とともに同社に入社した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊川昭二郎

2017-09-17 11:44:03 | 日記
1962年

野球の選手にしては珍しく色が白くて、一見やさ男に見えるが、グローブを持ってグラウンドに立てば、出足の速さとフィールディングの的確

さでは九州高校野球のピカ一的存在だった。鎮西高校一年のときから野球部にはいりこの三年間は遊撃オンリーに勤めあげてきただけに、守備の堅さは群を抜いている。打撃も二年まで甘さが指摘されていたが、三年にはいると打率もぐんと伸び、二、三年の全国高校予選は3割4分8厘とかなりよい当たりを見せている。プロ入りしてもっとも心配されるのは、1㍍73の身長と65㌔の体重が、プロ選手として小さすぎはしないかということ。同校中原野球部監督は「将来は阪神の吉田遊撃手のような選手になってもらいたい」と、期待をかけている。そして「体力をカバーするのは、からだの動きしかない」と練習ではいつもダッシュの連続だった。ベースを一周するのに一年のときは16秒かかたが、いまでは14秒5で回るほどまでなった。菊川選手がプロ入りできたのも、この守備の堅さが買われたことはもちろんだ。だが、本人はもとより、関係者がもうひとつ心配しているのは、打撃がどこまで伸びるかという問題。中原監督は「打てないプロ選手ほど魅力のないものはない」というが、もっともな話。平本同校野球部長も「高校で3割以上を打っていてもプロ入りする選手はみなそれぐらいは打っているのだからたいしてたよりにはならん」という。「菊川選手は、守備を買われてプロ入りしたとはいえ、これから打撃も並行して伸ばしてもらいたい」と回りの人たちは激励する。本人も「吉田さんを手本にして、守備はもちろん、打撃もコツンと当てて行くタイプの選手になりたい」と、将来を夢みている。熊本市には、川上巨人監督を輩出した熊本工業など高校球界の名門校があるが、菊川選手のいる鎮西高は野球部が発足したのが、戦後二十二年。しかもここ数年前までは、熊本市においてすらもCクラスのチームでしかなかった。したがってプロ球界には、先輩らしい先輩がおらず、この点菊川選手は心細そうだが「自分だけをたよりに全力を尽くすだけ。鎮西野球部の伝統はこれから私たちが築いて行く」と、力強く語るあたり、後輩思いの一面がよくあらわれている。菊川選手は三年になると、一年先輩の岡田選手(阪急二軍)のあとを受けてキャプテンにおされた。ふだんは冗談がうまく部員をいつも笑わせるが、いざ練習となると白球に生きるそのままにガラリと人が変わると後輩たちはいう。タフな菊川キャプテンのもとで練習する部員たちは、ついて行くだけでほとんどがアゴを出し、平本部長は「菊川君は下級生からいちばんコワがられていたようだ。それで彼がいるとチームはいつもピシッとしまりができていた」と名キャップぶりをほめる。鎮西高野球チームは、さいきん熊本県内でもAクラスにのしあがってきたが、昨年もことしも全国高校野球ではクジ運に恵まれず苦杯をなめている。三十五年には中九州大会で大分県代表高田高と第一回戦で顔が合い、門岡投手(現在中日)にしてやられ、三十七年には同じ中九州大会で大分商に延長戦で敗れている。菊川選手にとって高校球児の夢・甲子園の土は踏めながったことが、なによりの心の残りなのだ。だが、予選における名守備ぶりは球団スカウトの目を引かずにはいられなかった。「大会が終わると近鉄はじめ四つの球団から話があった」と中原監督はいっている。菊川選手は、はじめ大学に進む予定だったが、家庭の事情で進学を断念せざるえなくなり、菊川選手を見込んで通いつめた近鉄の熱意に引かれて球団入りが決まった。体力のハンディを動きの速さでどれだけ克服できるか、また心配される打撃をどこまで伸ばしきるかが、菊川選手のプロ生活のすべてを決めるカギなのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤公博

2017-09-17 10:57:34 | 日記
1961年

エース米田が出遅れている阪急投手陣で目をひいている一人が、ことしノンプロ東洋高圧北海道から入団した佐藤公博(24)だ。早くも新人王の呼び声がかかっている佐藤は、ペナント・レースでも活躍するだろうか。

「こんなにいいとはおもわなかった」キャンプで佐藤にほれこんだコーチ陣は二十六日の大洋三回戦で好投した佐藤に大よろこび。戸倉監督などは「どこといって欠点はない。フォームもできているし、速球ののび、カーブの切れも申し分ない。コントロールだってあれだけやれれば十分。スタートからローテーションにいれられるだろう」と大変な期待のかけようだ。身長1㍍75、プロ選手としては大きな方ではないが、日本一の大洋を、たとえ2イニングでも無走者に押えただけにホップする球、カーブの切れ味はさすがだ。女房役の岡村捕手に佐藤のピッチングを解剖してもらった。「牧野さんより佐藤さんの方がペナント・レースでは勝ち星をあげそうな気がする。レギュラー・バッティングでバッテリーを組んでおればすぐわかるがストレートが打者の手もとでのびるので、打者はつられてボール一つぐらいストライク・ゾーンからはずれても手を出して凡フライになっている。カーブだっていいし、シュートも小さく落ちるが、投手の生命は球ののび。高いストレートでつれるところに、佐藤さんのすばらしさが証明されていると思う」

佐藤はシンの強い選手だ。こんな話がある。いくらスピード・ボールを投げても、まだ成績をあげても「体が小さいからな」といわれることに発奮した佐藤は毎朝早く起きると四㌔、五㌔のランニングをはじめた。このハード・トレーニングは函館工から高圧にはいっても続いた。身長をのばすのには役に立たなかったが?下半身とくに腰が強くなり新人年活躍はこうして誕生したのだ。キャンプ・インしたころは牧野付きのコーチだった伊勢川コーチも最近は佐藤の指導にいそがしい。「佐藤は巨人の堀本のようにノンプロの経験があるので、適当に息抜きするコツを知っている。体もはたで小さい小さいというが、バランスがとれている。いまはまだ研修期間だから比較的短いイニングしか投げていないが、これから徐々に投球回数をのばしていってスタミナをつければもう大丈夫」最後に佐藤にマイクを向けてみよう。「好投したといっても真剣勝負(ペナント・レース)で勝たない間は大きなことはいえません。米田さんのような速い球を投げること、これがぼくの目標であり、夢です」ボツリと話すが、希望は大きい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩瀬光時

2017-09-17 09:33:15 | 日記
1963年

捕手のミットに小気味よい音をたてるのが岩瀬のスピード・ボールだ。別府キャンプで投球練習にはいってからまだ二日目というのにもうかなりのスピードが出ている。「まだセーブしているんですよ」と岩瀬はテレるが高木捕手は「スピードでは左投手のナンバー・ワンですよ」と太鼓判を押している。ベテランの西尾、中山は左の技巧派だが、岩瀬は正統派、この岩瀬も昨年は人に知られぬ悩みがあった。それは0・3度という近視のことだ。中日球場のネット裏からのスコアボールドのメンバー掲示板がかすかに読みとれるほどだから、普通の人だったらあまり気にならないが、プロ野球選手ではそうもいかない。ウエスタン・リーグの試合で登板したとき捕手のサインの見間違いで一発打ち込まれたこともあったらしい。杉浦新監督がシーズン・オフに岩瀬に要望した第一項目が「度のあったメガネをかけること」だった。だが別府キャンプでピッチングをする岩瀬の顔にはメガネがみえない。それでももうサインは絶対に間違えないという。それはコンタクトレンズをはめたからだ。すでに中日では山中投手がコンタクトレンズをはめているが、岩瀬がその仲間入りしたことはまだ同僚もほとんど知らないほどだ。しかし「もうだいぶ訓練したから苦にならなくなった」そうである。昨年のキャンプについて「一年生だったしすぐストライク・ボールの数をとられたのでストライクを投げるのに精いっぱい。気持ちのうえであまり余裕がなかった」と反省する。反省のできるのはやはり一年間、プロでメシを食べて経験を積んだからにちがいない。それでもウエスタン・リーグでは三勝をあげ二軍のエースにノシ上がったのは昨年の実績。連投の疲れから一時フォームがバラバラになったが、シーズン・オフにシャドー・ピッチングで再びシャープな腕の振りを思い出したそうだ。だから別府キャンプでもフォームについてはコーチ陣からひとことも注文がない。「昨年は投げおろしで投げたつもりでボールが回転し横になっていたことがあった。もっとも自分では視力が悪かったので張り合いもなかったがもう大丈夫です」どちらかというと、おとなしい性質だが、それだけに、もうだいじょうぶという強いことばはよほど自信がないといえぬことだ。ペッパーゲームのとき加藤コーチの相手役に指名された右に左に打球を追うのも岩瀬だ。これは機敏性を養うための特殊訓練だが、それだけ岩瀬の力量が買われていることになる。杉浦監督も「キャンプで岩瀬を鍛えて早く一軍にあげたい」と期待をかけている。まだ全力投球には間があるが岩瀬の快速球はことしの中日の推奨株、こんなことを岩瀬にいうと、彼はほおを赤らめるほど純真な青年だが「コースぎりぎりのコントロールをつける」という目標に毎日一生懸命取り組んでいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平尾邦彦

2017-09-17 09:04:25 | 日記
1962年

このほど久留米商の平尾邦彦(17)投手=右投げ=を獲得、近く正式契約を行うことになった。同投手は身長1㍍75、体重65㌔、下手投げで、武器は沈むシュートだが、カーブは甘い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本雄作

2017-09-17 08:51:56 | 日記
1962年

北原代表と島岡明大野球部監督の最後の話し合いも終わり別部捷夫外野手(22)=鳴門高-明大=の入団が今、明日中に正式発表される。また、松本雄作外野手(22)=福岡工高ー明大農学部四年=の獲得にも成功し、近く入団が発表される。松本外野手は身長178㌢、76㌔、三十三年春の甲子園大会に五番打者として出場、三十四年、明大入学、ことし春の六大学リーグ、早明二、三回戦には先発メンバーとして右翼を守っている。事情があって今夏野球部をやめたが、長打力をみこんだ国鉄が入団交渉をすぐはじめ、韓国遠征前の十一月上旬にすでに練習生として合宿入りし、練習に励んでいる。練習をみた飯田コーチも松本の力のあるバッティングをほめている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉田定敬・長南恒夫

2017-09-16 20:44:26 | 日記
1963年

まだ二年目の若手投手がメガトン打線のスターたちをスイスイと片づけるのはくすぐったいおもしろさがある。吉田が森に満塁ホーマーを浴びた1個の失投以外は、この右と左のコンビで大洋重量打線をほんろう、「どうしてあれが打てないのか?」と三原監督の気げんをわるくしたほどだ。吉田はドロップが鋭くスピードもあって四回までは被安打3、うち2個は内野安打というなかなかのでき。吉田をここまで伸ばしてきた多田コーチは「上半身のフォームを変えてからスピードが元にもどった。大分での近鉄戦でも二回投げさせたが若手のなかではもっとも有望」とネット裏から熱心に見つめていた。救援した長南は投げおろす低めの内角球がズバリと決まった。五回で被安打2、自責点0は吉田以上で多田コーチもひそかに期待している左腕のひとりという。満塁ホーマーを打たれて降板を命じられた吉田を長南が「惜しかったな」となぐさめるあたり仲もいい。二年生コンビが、ふたりとも出来については「まだまだですよ」とひかえめ。尾崎、安藤の調子がも一歩の現在、ふたりの好投が東映投手陣に二本の光を投げかけたことは事実だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栗本光明

2017-09-16 20:24:00 | 日記
1960年

昨年のノンプロの王者・熊谷組も栗本の前には走者を三塁に進めるのが精いっぱいだった。熊谷組が三塁をふんだのは14回でわずかに二度(二、七回)それも二死からだ。「疲れた。まだスタミナに自信がないから」といいながらも栗本はケロリとした顔をしている。何しろ一昨年の選抜京都大会では日本新薬を相手に24回2/3を投げたことがある。昨秋の産業対抗では東レ滋賀に補強され、熊谷組戦に登板、8-3で勝っている。「去年の秋にくらべたらまだ腰の切れが悪くなってスピードがない。だから後半はおもにカーブを外角に集めるピッチングでいった。これにシュートをまぜたのが成功した。熊谷はバットがまだ振り切れない感じでした」プロからマークされている投手の一人だが「全部、監督さんにおまかせしてあります」と煙幕を張って答えない。入社八年目、いちばん古い選手になった。上京一週間前に流感で寝こみ、目方がいっぺんに2㌔近くも減ってしまったそうだ。「フライ級投手ですよ。でもチームではボクがいちばん古いんだし、ばりばり投げなければ」と最後に持ち前の強気をのぞかせた。ポツリ、ポツリと小雨が降り出したベンチ前で話つづける栗本に後ろからナインがそっとジャンパーをかけたやった。熊谷キラー栗本は、倉レの一枚看板だ。福山工出身、1㍍74、55㌔、右投右打、背番号16。倉敷レイヨン岡山工場営繕課勤務。二十五歳。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田信隆

2017-09-15 00:12:41 | 日記
1962年

西鉄ライオンズは十二日、池田信隆投手(18)=宮崎市日向学院=の入団を発表した。同投手は身長1㍍76、体重70㌔、右投げ右打ち。速球とカーブがすぐれており、体格は筋肉質でがっちりしている。川崎西鉄常務、城島渉外課長らが二年前からマークしていた選手で巨人からも誘われていた。十三日から西鉄のトレーニングに参加する。日向学院からの西鉄入りは桑原、斎藤についで三人目。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島田卓光

2017-09-12 23:51:21 | 日記
1962年

中日ドラゴンズでは二十七日、土浦一高の島田卓光投手(18)=右投げ右打ち、178㌢、80㌔=の入団を正式発表した。同投手は速球に定評があり、打撃もすぐれている。またこの日、竹屋投手が契約を更改し、これで更改者は八人。なお櫛笥厚正外野手は自由契約選手となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小玉英昭

2017-09-12 21:20:39 | 日記
1962年

南海では六日小玉英昭投手(18)=明星高、1㍍75、73㌔、左投左打=の入団を発表した。制球に難があるが、南海には貴重な左投手ということで契約をかわしたもの。背番号74。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関根知雄

2017-09-12 21:00:00 | 日記
1962年

ノンプロ日本ビールの関根知雄遊撃手(18)=1㍍73、68㌔、右投げ右打ち、銚子商出=は大洋、阪急両球団から誘われていたが、このほど大洋入団が決定、一両日中に入団発表となる予定。関根遊撃手は銚子商時代はリードオフマンとして活躍、一昨年夏の甲子園で活躍して注目された。昨春日本ビール入社後は強打の遊撃手としてノンプロの花形となり、昨夏の都市対抗でホーマーを放ったのをはじめ、昨年の公式戦で計6ホーマーを記録している。昨年末日本ビール野球部が休部してから阪急が積極的に誘い、契約金五百万円、月給六万円の条件を提示したが、当人は最初から在京球団を望み、大洋が射止めたもの。阪急ではことしはじめまで同選手の入団を期待していたが、関根のかわりに山口二塁手(立大中退)を獲得している。

関根選手の話 阪急は断った。大洋入りは二十九日か三十日ごろ発表の予定だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする