4月1日エイプリルフールを狙ったようにスタートしたNHK連続テレビ小説『あまちゃん』はどうでしょうね。鬼才・宮藤官九郎さんが、どう考えてもアウェイな国営放送の、それもBSでもよるドラでもない地上波の朝ドラに参戦と聞いて、全国のTV放送関係者及び演劇関係者の皆さんが、とりあえず第1話は一斉にチャンネル合わせたのではないでしょうか。
……その前に、同枠前番組『純と愛』を“なかったこと”にするわけにはいきませんな。何だったんだ、あの畳み方は。振り回されながらも追尾してきた辛抱強い視聴者の大半は、愛(いとし)くん(風間俊介さん)が奇跡的に目醒めて純(夏菜さん)と抱き合い「まほうのくにの魔法はこれで使い切ってもいい、サザンアイランドは神様をあてにしないで、私たちが汗かいて建て直そうね」「まほうのくにじゃなく、純と愛のくにですね」とかなんとか言うベタな結末を、こんなベタないよねぇとニヤニヤしながらも一抹期待していたはずです。愛が目覚めさえすれば、ここまでの苛立たしいすったもんだや、さっぱり問題解決になってない着地の繰り返しも、ギリギリ滑り込み埋め合わせがつくのではないかと。
まさか海に向かって純が今後の抱負をポエムのように叫んだ後、愛の手が微妙な動きをして、さてこれは目覚めたのでしょうか目覚めではないのでしょうか?でカット、毎話流れたOPのイラストアニメーションに戻って終了とは。埋め合わせどころか深く広く墓穴を掘り広げたのみ。
しかも本編終了後のアイキャッチ『まほうのくに』が、修理なった例のジュークボックスの隣に、純がひとりで立つ絵だったので、余計救いがなくなりました。2ショットでなくても、愛が生存して、できれば起きて活動している気配がなんらか画面に映り込んでいたら、ずいぶんと後味のいい視聴後感になったはずです。
「お約束や予定調和を排した、いままでになく目の離せない朝ドラ」「一生懸命に目標に向かい努力していてもカラ回りになってしまう主人公の気持ちが痛いほどわかる、応援せずにいられない」、果ては「世の中の仕組みに馴れ合ってぬくぬく順調に暮らしている人には良さがわからないドラマ」と何やら裸の王様みたいな言辞を尽くして必死に擁護してきた向きにも、さすがにこの結末で「継続視聴してきてよかった」と心から言える人はいないでしょう。
“後味がいい”とか“先の展開や結末を予測する楽しみ”、“登場人物の、画面やセリフで説明されない過去・背景や、退場後の人生を想像補完する楽しみ”など、およそ「こういうことがあるから連続ドラマは楽しい、やめられない」要素をことごとくぶっちぎって床に叩きつけ粉砕したような作品でした。
何であれ、確立したもの、カタチの定まったものは、いずれ一度は破壊されゼロに戻されて再生されなければならない運命を背負っていますが、“話が連続する”ダイナミズムを十分にそなえた、長尺多話数の“連続ドラマ”がほとんど全滅している昨今、あえて朝ドラといういちばん“視聴者の受け容れハードルが低い”枠で、嫌がらせのように半年かけてこの手の実験をやる必要があったのかどうか。
しかし、やるなら昨今は朝ドラ枠でしかできないし、朝ドラでやるからこそ意義もあったのだろうとは思います。夜半の、視聴率一桁パーセント程度のマニアしか見ない枠では、実験してもしなくても確たる結果が見えません。
心の中で誰とも知れない仮想敵をこしらえて「チャレンジしてるじゃない、上等じゃない」「相手になってやんよ」と歯を食いしばって降りずに見てきた少数派も、なんとなーくこの時間は昔からNHKなんだよねーと惰性でチャンネルかえずに来た大多数(たぶん)のご家庭にも、それなりの記憶の刻印は残したところで、この作品のミッションは完了なのだろうと思います。この上、心温まる後味よさや、「あの人をもっと見ていたかった」と思う特定人物へのシンパシー、懐かしさなど欲するのは無駄、と言うよりお門違いというものでしょう。
………咀嚼していたら『あまちゃん』に行く時間がなくなってしまった。とりあえず、オッフェンバック『天国と地獄』みたいな、ふんがらふんがらしたほどのよいやかましさのOP曲がツボです。サントラCDが出たら起床タイマーに設定決定。
1話2話は杉本哲太さんの無骨なハイテンションが場面を牽引しました。しかしまぁ、先月まで日曜夕方18:45~のBSプレミアムで2006年本放送の『柳生十兵衛七番勝負 島原の乱』を再放送していて、杉本さんは小心なくせに野心だけある曲者の公家の大納言役を実に嬉々と楽しそうに演じておられましたが、なんとも使いでのある俳優さんになったものです。
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