NHK『だんだん』、高齢家族は本筋の追尾はあらかたあきらめたようです。「○○(←職業)になりたい」「やってみたけど○○はワタシには向いてない、△△を目指そうかな」「やっぱり○○やってみたい」てな、いまどきの若い子のゆらゆらアンビシャス志望遍歴に本気で付き合って、一緒になってやきもきしたり共感したりしろと高齢組に求めるほうが土台無理。
そもそも高齢組の両親は全員明治時代後半生まれで、彼らも親たちの信奉した明治の価値観で育てられていますから、「百姓の子は百姓、漁師の子は漁師」「商家の子は商売を継ぎ、女の子は同レベルの商家に嫁ぐ」「男の子なら父親、女の子なら母親が生きてきたように生き、子ができれば子にも自分のように生きよと教えるのが真っ当な人生」と、いまだに脳内の何処かに刷り込まれているため、山のようにある人生行路選択肢の中から、当たりも外れも自己責任で選ばなければならない現代の、特に女の子の自由なるがゆえの悩みなど想像できなくて当たり前なのです。
代わって彼らの興味を目下独占しているのが、真喜子さん(石田ひかりさん)に求婚中の若手IT社長・澤田役、平岳大さん。
何が注目って、お父さんの平幹二朗さんに似てるのなんの。
澤田が画面に登場するやいなや、アズスーンアズ、歌手も祇園も介護士もどうでもよくなって、「親父に似てるねえ」「本当にそっくりだ」という感想で茶の間が埋め尽くされます。
しかも幹二朗さんの前夫人で岳大さんのお母さんは佐久間良子さんというのも既知ですから、「似てる」談義も2乗。
確かに、ここ2~3年の岳大さんは、そうしょっちゅうではないけれどもお顔を拝見する機会があるたびに、どんどんめきめきぐんぐんとお父上に似てきていますね。三白眼でにか~と白い歯出して笑うときの顔なんか、モノマネしてんのかと思うくらい。俳優として出始めた頃はなんか暗ーい目つきでどよんとしているだけみたいな役どころが多かったのが、この『だんだん』では結構いろんな顔を見せるキャラだし、両親譲りの役者資質が開花してきたことで、いや増しに父上似に見えるのかも。
以前もここで書いたことがあるのですが、“親、もしくは祖父母に似ている(もしくは似ていない)”という視点・興じ方を提供するだけで、二世・三世タレントさんというのはじゅうぶんTVの中での商品価値があるのだなあと、高齢者たちを見ているとつくづく思います。たいして親しくもない近隣住民、疎遠一方の遠隔地の親戚と何かの機会に同席しても、「親と子」「子と孫」「兄姉と弟妹」の類いの写真一枚はさめば、一時間でも二時間でも盛り上がっていられるのは高齢者の特権ではないでしょうか。
子、孫なんだから、あるいは兄弟姉妹、甥姪なんだから似るのは当たり前だし、一見似てないとしてもそれまたよくあることで、それ単体では何も感激感動の源泉にはならないはずなのに、なぜこんなにきゃあきゃあわいわい興奮するのか。
生命・形質の連続性、継承性ということに、加齢とともに執着がつのるからかもしれない。
芸能界はともかく、政界においてはとかく二世・三世議員の多さは弊害のほうが指摘されますが、権力の世襲化は確かに時代に逆行する、良くないことだけど、全廃するってこともできないのじゃないですかねえ。「お父さんに似てる」だけでこんだけテンション上がる層が分厚く存在するんだもの。政治家も投票もらってはじめてなれる人気稼業の側面がありますから、「似てる」で起きたテンションアップを好感度に平行移動させて、まんまと当選してしまおう、させてしまおうとのもくろみが生まれても不思議はないし、違法でもない。
逆に考えれば、子が親に似ている、祖父母に似ている、兄弟姉妹だから似ているという当然の現象に、「だから何か?」という反応しか出てこないうちは、人間はまだ老齢ではなく、晩年でもない、と考えていいかもしれません。
…あ、月河は、競走馬の競走能力・毛色体型の父譲り母譲りに関しては、積極的に感動しますよ。
ウチでも非高齢家族は、“似てる似てる祭り”の高齢組を尻目に、岳大さんの澤田社長について「石田ひかり(=真喜子=花雪さん姉さん)よりコイツ、吉田栄作(=忠さん)が目あてなんじゃないか」「(忠を)座敷に同席させて(花雪の)舞を見せてる場面、女に惚れ惚れというより、心穏やかでなく前の女房を見ている、忠のほうに関心ありありって目つきだった」「ほとんどヨダレ垂らさんばかりだった」と感想を述べておりました。
もちろんお父上が斯界でも有名なアッチ系…というか、“両方系”の人であることを踏まえての考察。て言うか妄想。非高齢組も、“性向の継承”はひそかに大好きなようで。
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