イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

帰れソレトトントへ

2017-04-27 01:06:11 | 世相

 『ひよっこ』が始まってから改めて知ったのですが、オリジナル脚本の岡田惠和さん(惠和と書いて”よしかず”さんなんですね。これも今作で初めて知りました。ずっと”しげかず”さんだと思っていたので。何でだろう)は、月河とほぼ同年代なんですな。もっとずっと若いと思っていました。朝ドラ脚本イコール長丁場の体力勝負、だから若くなきゃ無理だと決めてかかっていたからかな。

 ともあれこれで話が早い。同年代なら、脚本家さんが幼稚園の頃見たものはだいだい月河も幼稚園児として見ているし、たとえば小学校3年生のときこんなニュースが大人たちの間で騒ぎになっていたという記憶が岡田さんにあれば、月河も概ね小学校低中学年の頃大人たちの同じ騒ぎを小耳にはさんでいたはずです。『ひよっこ』は昭和39年初秋からドラマが始まっていますが、昭和39年という年がどんな年だったかの記憶も、脚本家さんと月河でそんなに差は無いと思います。

 この年といえばドラマでも取り上げられたようにまずは東京オリンピックに尽きるでしょうね。奥茨城よりもっとはるかに東京から遠い地域に住んでいた月河も、雑誌の特集ページで参加各国紹介地図やグラビアで何となく「おりんぴっくってのがあるんだ~」と、ワクワクともそわそわともイライラとも(よく意味がわかんなかったので)つかない感覚を持っていたのは覚えています。それ関係の媒体で当時の月河がいちばんお気に入りだったのは各国の国旗を見開き2ページにずらっと並べたどこかの雑誌で、クレヨンでチラシの裏にマネして描きまくっていたそうです。「”ぽーらんど”と”もなこ”のコッキ、にてるね~」なんて言ってたとか。赤白天地逆なだけだし。自分で描くのがムリだと思うこみいったデザインのやつは、親戚のおじさんや年上の従兄弟に「これかいてー」とせがんで、随所で「セイロン!?どこだそれ」「なんだこの三角つないだのは!?ネパール!?」と嵐を巻き起こしていたらしいです。

 あと、小学館の学年誌の巻末に”保護者のお父さんお母さんに読んでもらう記事ページ”が必ず毎号あったのですが、そこにあの三波春夫さんで有名な『東京五輪音頭』の、「こうやって踊ろう」「踊って見せてお子さんに教えてあげよう」という主旨の振り付け連続写真が載っていたのも覚えています。小学館じゃなかったかもしれない。そこらへんこの年頃の記憶のつねでウロなのですが、とにかく子供向けじゃなく、大人向けの、と言うか親向けの、親だけが読む、通常ならグラビアも漫画もないページに載ってたの。結構細かいコマ割りで。一時期『明星』とかに新曲のたびに載ってたピンク・レディーの振り付け分解写真みたいの。あれ見て、灰皿かなんか文鎮代わりにして見開き開いて一生懸命踊って覚えてたお父さんお母さん、彼らに手ほどき受けて教わった子供たち、多いのかな。ソレトトントネ。それはそれでまた微笑ましい、戻りたくても(戻りたくなくても)戻れない昭和の一断面ではあります。

 ちなみに月河の実家両親はふたりとも、お祭りの盆踊りを始め”踊り”と付くものをいっさい受け付けない人たちだったので、幼い日の月河も親から五輪音頭を教わる事はありませんでした。地元東京だと「幼稚園で習って皆で踊った」という同年代もいるようです。雑誌にTVにラジオ、すでにマスメディアの時代になっていたとは言え、東京とそれ以外との体温差、距離感は五輪をきっかけにますます開いて行ったと言えるかもしれません。

 ところで、前のエントリで月河が書いたのと同じ趣旨の事を、先週、宗男叔父さん(峯田和伸さん)が奥茨城聖火リレーの回で言ってくれましたね。

 「すっげーなみね子ら、かっこいいなー、日本の新しい世代の幕開けだっぺや、これ、な!」・・昭和40年3月高校卒業見込みの”みね子(有村架純さん)”は、くどいですが昭和21年4月2日から22年4月1日までの間に生まれた子たちで成る学年。つまり”生まれた時にはもう戦争中でなかった””だけ”が集まった、最初の、皮切りの学年なのです。

(ついでにまたくどく付け加えれば、本当の意味での”団塊世代”は、この時点で高2か高1として同じ校舎にいる、もしくはこの年の春に中卒で就職してすでに働いている子たちが主力となります)

 「戦争に行って帰ってきてから(人が)変わった」と兄の実さん(=みね子たち3人きょうだいのお父ちゃん)にも言われている宗男さんとしては、やはり自然に世の中のいろんなことを”戦争の前か、後か”で分けて考えずにはいられない。ワンカットだけ背中の大きな戦傷痕らしきものが映りましたが、国内のまま終戦を迎えた人でも、大半の日本人がそういう思考回路を植え付けられたことでしょう。彼らにとっては”まるごと戦後生まれ”の”みね子ら”こそが、まっさらで、無傷で、眩いばかりの希望の象徴だったのではないかと想像できます。

 存命ならば90歳代に足を踏み入れていると思われる宗男叔父さん。2年ぶり来日中のポール・マッカートニー(74歳)の公演には行ったかな。杖ついたりして。

 みね子が、昭和39年を幼稚園児としてではなく高校3年生として過ごしている分、脚本の岡田さんにとってはたとえば『おひさま』のような”史料と取材でしか知りようがない時代”を舞台に書くより微妙に難しくて骨が折れるのではないかと思います。”オリンピック”というモチーフひとつとっても、頑是ない幼稚園児の記憶や皮膚感覚と、卒業を控え進路に迷い家族の事情に心騒ぐ高校生のそれとでは大幅に違いがあり、間を埋めるために想像力と取材力にかなりターボかけなければならない。トランプ大統領がマスメディアを叩くときによく言う”alternative fact”(もう一つの真実)じゃありませんが、”自分も覚えている時代の、別の側面””同じものを見ても自分は感じなかった、別の感じ方”を、みね子を書く事で日々発見していく作業かもしれません。

 フィクションを作るのが作家の仕事ですが、作家が”自分”を直截にフィクションに吐き出すと、概ね、と言うかほぼ例外なくスベります。その意味では今作は岡田さんにとって、良作にできる条件が揃っている。戦後生まれ皮切り世代のみね子が、ひと回り下世代の岡田さんにどう造形され、どう成長し、どう泣き笑いどんな人生を手にするのか。見守るとしましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 39(サンキュー)昭和 | トップ | それがきみの日々 »

コメントを投稿

世相」カテゴリの最新記事