海の向こうでアラン・ドロンさんが脳梗塞で手術後療養中、なんて報が入って、83歳じゃもうさすがにね―『太陽がいっぱい』ってより「体調がいっぱいいっぱい」だよねとか、何日も間を置かずにピーター・フォンダさん死去79歳、あらら、オムニバス映画『世にも怪奇な物語』つながりで?そういえば姉さんのジェーン・フォンダさんてまだ存命だっけ?『世に怪』第3話のテレンス・スタンプさんは?等と、不要不急な事を気にしているうちに一週二週と過ぎてしまいました。
気になったらすぐ調べて、気にならなくなるまでここで書いてしまうという、10年少し前まではできていたことができなくなってそれが当たり前になっている今日この頃。
(ちなみにあとのお二方は81歳、80歳でバリご健在です)(←バリ島に住んでいるという意味じゃなくて)(←当たり前田)
そろそろ、久々にまとめてみたくなりました“嫌いな言葉・読みたくない聞きたくない&使いたくない言葉シリーズ・令和第一弾”。
①「寄り添う」:言い換えたほうがいい。「カネは出さない汗もかかない、共感するだけ」「共感するとクチで言うだけ」
大きな天災や殺傷事件が起きると「被災(or被害)者に寄り添って・・」「遺族の方々に寄り添って・・」、社会保障政策の話題になると決まって「障碍者に寄り添って」「難病患者さんに寄り添って」「支える家族に寄り添って」・・・寄り添われるのは大体、“辛い目に遭った・現に遭っている人”、強者と弱者で言えば弱者と決まっていますが、耳で聞いても、活字で読んでも気味が悪い。身の毛がよだつ。
好意も頼り甲斐も感じていない誰かしらが近距離に勝手に来て、その体温や息遣いが感じられるような生理的な気持ち悪さがあるだけじゃなく、“別の場所からわざわざやって来て、わざわざ近くに立つ”という、暗黙の恩着せが臭う。
或る人の苦痛や苦悩は、いくら共感だの同情だの言っても、そっくり肩代わりして、自分が痛んで、その人をゼロにラクにしてあげることはできない。昔からある言葉で普通に「(誰某の)身になって」考える、「(誰某の)立場になって」アイディアをつのる、策を練る、カネを集める、のほうがずっと実働感があるし頼り甲斐も相談し甲斐もあるのに。
だいぶ前になりますがこのブログのこの“嫌いな言葉”シリーズ(シリーズなのか)で書いた「(生徒とor我が子とor現実と)向き合う」の、“真っ向取っ組み合い対決刃傷流血沙汰を避けたい腰の引け方”ともどこか似た、自分を安全地帯ラクチンゾーンに置いて物を言う図々しさが鼻につく言葉です「寄り添う」。
②「居場所」:被虐待児童、いじめ被害生徒、登校拒否生徒、ニート・引きこもり、ひとり親、独居高齢者等“孤立”と見なされる境遇の人への方策、指南として「居場所を見つける」「居場所を与える」とハンコで捺した様に言われるが、居“場所”なんて、人に見つけてもらわなくても誰にでも、どこにもあるから。廊下でも公園でも物置でも、居ることができるだけでいいならそこらじゅうにある。
必要なのは場所じゃない。人として敬われ厚遇され大切にされること。子供ならチヤホヤ、蝶よ花よと愛しがられること。他のどの人よりも自分は優れ、尊く、価値があると思わせてくれること。なんならそう錯覚させてくれること。
そうしてあげるにはカネがかかるから、カネ無しにそうしようと思ったら人に汗かいてもらわなきゃならなくて、人に汗かかせるにはやっぱりカネが要るから、「イバショを見つけてあげる」と、花や流水をかたどった打ち物の干菓子のような、気取った言い回しをする。生クリーム、ナマ果物たっぷりのじゅわじゅわなケーキならカネがかかるから。
①もそうですが、“本気でやるならカネを出さないといけない”“カネをかけずに状況を好転させることは不可能”という生々しい現実をマスキングする魂胆があると、こういう言葉づかいが湧いてくる。政も官も民間も“自分のフトコロは痛めたくない”人ばっかりだから、この手の干菓子言葉はあっという間にテレビでもラジオでも活字媒体でも使われるようになる。
③「働き方」:ご存じ「働き方“改革”」ですっかり耳になじんでしまいましたが、これも言い換えたほうがいい「働かせ方」「雇い方」「こき使い方」改革と。
働く側、時間と労働を提供して対価を受け取る側が先に動いて“改革”が成ったことはない。改革できるのはいつも、人を雇って経済を回し利潤を得て賃金を払う側のみ。労働提供側が状況を揺るがすことができるのは、昔懐かしい大規模組織労組による争議=ストライキで経済活動をストップさせることだけ。
「働き方改革」という言葉を考え出して普通に使い流通させる人たちの脳内は、いまだ昭和の大規模スト時代の幻影に支配されているのでしょう。
④「(私は)~~~と思っていて、~」:最近のテレビ・ラジオのコメンテーター、評論家言葉。どっちかというとワンフレーズ・ワンセンテンスが長い、女性の発言者が専ら言うかなと思ったら、男の大学教授やネット媒体出身作家・編集者も最近こういう話し方をよくしてますね。切らない。「~~~だと思うんですよ。だから~・・」と、前段と後段を切って、接続詞でつなぐことで因果関係を明確にしようとしない。
言いたいことは「だから~」以下のほうが主要で、「~~と思っていて」はその前提というか原因。原因があるから、主に言いたいこと=結果、結論がある。
「~~と思っていて、」と、切らないで結果に行かれてしまうと、その“思っている”前提・原因部分は、この話者が勝手に思って前提にしているだけなのにもかかわらず“聞いている人、同席している人全員が同意して受け入れている共通公的前提”であるかのような図々しい論法に聞こえる。
あ゛ーーうまく表現できなくてもどかしい。でも本当にここ2年ぐらいで増えたよ、これ式の話法。小耳にはさまるというか飛び込んでくるたび「・・勝手に思ってろ」って、“結果・結論”部分を聞き切る気が失せる。国際政治の三浦瑠麗さんとか女優で農業プロの高木美保さんとか、見た目きれいめが売りの女性だけじゃなくて、社会学者で芥川賞ベテラン候補の古市憲寿さん、共同通信社太田昌克さん、尾木ママこと教育評論家尾木直樹さんなど、男性でもどっちかというとエモーションこすって来る系の男性コメンテーターがやたら言うから。んで、大体「~~と思っていて、~」を使うときには一人称言わないのね。「この“ワタシ”に決まってんだろ」という、静かでかつ揺るがない自己愛がにじみ出る。
まともに長時間話を聞いたことがありませんが、山本太郎さんなんか言ってそう。党首討論など出てきたら確かめよう。
最近見ないし情報もないけど、小室圭さんも言ってそうだな。でも訊かれて答える以外原稿・下書き無しで筋道の長い話するイメージ湧かないからなあ。
圭氏の母上なら・・って、聞きたくないし話させたくないか誰も。
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