★野球と言うスポーツは、戦時中は流石に敵国のスポーツだったからか、小学校のころにはグローブもバットもみたことも触ったこともなかったように思う。
それが戦後、アメリカのスポーツでもあったからか、われわれの年代で野球をやったことのない人などいないくらいの盛り上がりであった。
子供たちはみな三角ベースの野球など考案したりして少人数でも野球を楽しんでいたのである。
神戸一中はサッカーも強かったが、野球もそこそこ強かった。
甲子園の春の選抜には明石高校とともに出場したりもした。
そんな野球部に私も入部したのだが、
私たちのクラスは旧制中学校最後の年次で中学校の時は2年になっても、3年になっても最下級生で後輩など誰もいなかった補欠生活だったのである。
それは高校1年生まで続いて、4年間運動部の最下級生を経験したのである。
この4年間は、いい経験になっている。辛抱することを覚えたし、一番下積みの人たちへの思いやりが自然に芽生えるようになった。
★学区制で明石高校に移ったのだが、ここはまだ『名門明石』が文字通り通用する伝統校で、
私が1年のころは後慶応に進み朝日スポーツ賞に輝いた山本治さんと、後関大―日生―阪神タイガースに進んだ大津淳さんのバッテリーで、本当に強かった。
二人とも超高校級と言われていたが、まさにその通りだった。
『名門明石』は、戦前の甲子園の中京―明石の25回戦から言われるのだが、戦後昭和25年ころまでは、当時の先輩たちが復員されてきて、学校の練習にもずっと顔を出されていた。
楠本、中田さんは戦死されていたが、横内、峰本、深瀬、嘉藤さんなど、よくお世話になったし、
25回戦当時の野球部長をされていた竹山九一先生には、精神的な薫陶をずっと受けて育ったのである。
明石高校は当時兵庫県下では確かに強豪であった。
在学3年間、夏の大会の予選ではいずれもベスト4には残り、2年のときには優勝して夏の甲子園を経験もしたのだが、
正直3年間であまり技術的な指導を受けたことはない。ほとんどが『精神的なこと』だったような気がする。
今と違って地方校などとのレベルの格差は確かにあって、あまり負けた経験がなかったようにも思う。
野球はピッチャーが良かったら、何とかなるスポーツである。
2年先輩の山本治さんは、本当に素晴らしかったし、
私たちと同期の溝端圭一郎もそんなに大きくもないのに、野球をやらせたら抜群なのである。
夏の予選で灘校相手にパーフェクトゲームもやったりしたし、社会人では神戸製鋼だったが兵庫県のどこが出ても補強選手で選ばれて毎年後楽園の都市対抗に出場していた。
1試合に2点も取られなかったら、大体野球は勝つことになっているのである。
そんなピッチャに恵まれて、チームとして強かったのである。
★私は、人生運が良かったと思っているが、私の野球人生もそんな幸運に恵まれて、今となってはエラそうに甲子園に出たなどとうそぶいているのである。
大学は神戸商大でかっては強かった時期もあったようだが、私が入部したころはそうでもなかったので、1年からレギュラーで出ることができた。
ポジションはショートだった。そんなに上手くもなかったが、そんなに下手でもなかった、そんなレベルである。
大学時代は輪をかけて野球に打ち込んでいて、、勉強は一切していない。
当時は近大が強くて、頑張っても2位が精一杯であった。
リーグ戦が甲子園球場であったので、ずっと甲子園で試合ができたのは幸運であった。
阪神の小山投手がタイガースに入団したころで、2軍で練習していた。小山さんは高砂高校で学年は1年下である。同じ地区だし何度か高校時代に試合したようだ。同期でなんでも良く覚えているのがいろいろ言うのだが、私は記憶にない。
今では、名球界の大選手だがそのころは別に有名でもなかったので、『小山がタイガースにいる』と不思議に思ったほどである。
★大学を卒業する昭和31年は不景気で、大会社への入社は難しかった。
私はいずれにしてもコネでしか入社できなかったのだが、川崎航空機の社長の砂野仁さんが、『今年はきついから来年に』と仰るので、
1年卒業を延ばして、野球部の監督をしていた。
このとき入部してきたのが、小山修身くんでいいピッチャーだった。秋のリーグ戦で50数イニング連続無失点記録を作り、つい先ごろまで学生野球記録だったのである。
点を取られないのだから、負けないのである。ひょっとしたら近大に勝って優勝などと思ったがダメだった。
★中学校以降の11年間、私の学生生活=野球部生活のような、そんな学生時代だったのだが、
社会人になってからも、野球の関係でいろいろお世話にもなったのである。
然し明石の25回戦当時の先輩たちは、みんなお亡くなりになったし、われわれの高校同期ですら、半分はいなくなってしまった。
沖縄が夏を制して夢のようである。
昭和33年首里高校が甲子園に沖縄からやってきたときのことよく覚えている。
最近の高校野球のレベルをみていると、別のスポーツを見ているようである。
もし今高校生だったら、あんなプレーができるかな?と思ってしまうのである。
私たちのころは、バットは勿論木だったし、ヘルメットも被ったことはない、そんな時代である。
阪神の吉田義男さんと同期、長嶋茂雄さんは2年下、野村監督も下、そんな年寄りなのである。
それが戦後、アメリカのスポーツでもあったからか、われわれの年代で野球をやったことのない人などいないくらいの盛り上がりであった。
子供たちはみな三角ベースの野球など考案したりして少人数でも野球を楽しんでいたのである。
神戸一中はサッカーも強かったが、野球もそこそこ強かった。
甲子園の春の選抜には明石高校とともに出場したりもした。
そんな野球部に私も入部したのだが、
私たちのクラスは旧制中学校最後の年次で中学校の時は2年になっても、3年になっても最下級生で後輩など誰もいなかった補欠生活だったのである。
それは高校1年生まで続いて、4年間運動部の最下級生を経験したのである。
この4年間は、いい経験になっている。辛抱することを覚えたし、一番下積みの人たちへの思いやりが自然に芽生えるようになった。
★学区制で明石高校に移ったのだが、ここはまだ『名門明石』が文字通り通用する伝統校で、
私が1年のころは後慶応に進み朝日スポーツ賞に輝いた山本治さんと、後関大―日生―阪神タイガースに進んだ大津淳さんのバッテリーで、本当に強かった。
二人とも超高校級と言われていたが、まさにその通りだった。
『名門明石』は、戦前の甲子園の中京―明石の25回戦から言われるのだが、戦後昭和25年ころまでは、当時の先輩たちが復員されてきて、学校の練習にもずっと顔を出されていた。
楠本、中田さんは戦死されていたが、横内、峰本、深瀬、嘉藤さんなど、よくお世話になったし、
25回戦当時の野球部長をされていた竹山九一先生には、精神的な薫陶をずっと受けて育ったのである。
明石高校は当時兵庫県下では確かに強豪であった。
在学3年間、夏の大会の予選ではいずれもベスト4には残り、2年のときには優勝して夏の甲子園を経験もしたのだが、
正直3年間であまり技術的な指導を受けたことはない。ほとんどが『精神的なこと』だったような気がする。
今と違って地方校などとのレベルの格差は確かにあって、あまり負けた経験がなかったようにも思う。
野球はピッチャーが良かったら、何とかなるスポーツである。
2年先輩の山本治さんは、本当に素晴らしかったし、
私たちと同期の溝端圭一郎もそんなに大きくもないのに、野球をやらせたら抜群なのである。
夏の予選で灘校相手にパーフェクトゲームもやったりしたし、社会人では神戸製鋼だったが兵庫県のどこが出ても補強選手で選ばれて毎年後楽園の都市対抗に出場していた。
1試合に2点も取られなかったら、大体野球は勝つことになっているのである。
そんなピッチャに恵まれて、チームとして強かったのである。
★私は、人生運が良かったと思っているが、私の野球人生もそんな幸運に恵まれて、今となってはエラそうに甲子園に出たなどとうそぶいているのである。
大学は神戸商大でかっては強かった時期もあったようだが、私が入部したころはそうでもなかったので、1年からレギュラーで出ることができた。
ポジションはショートだった。そんなに上手くもなかったが、そんなに下手でもなかった、そんなレベルである。
大学時代は輪をかけて野球に打ち込んでいて、、勉強は一切していない。
当時は近大が強くて、頑張っても2位が精一杯であった。
リーグ戦が甲子園球場であったので、ずっと甲子園で試合ができたのは幸運であった。
阪神の小山投手がタイガースに入団したころで、2軍で練習していた。小山さんは高砂高校で学年は1年下である。同じ地区だし何度か高校時代に試合したようだ。同期でなんでも良く覚えているのがいろいろ言うのだが、私は記憶にない。
今では、名球界の大選手だがそのころは別に有名でもなかったので、『小山がタイガースにいる』と不思議に思ったほどである。
★大学を卒業する昭和31年は不景気で、大会社への入社は難しかった。
私はいずれにしてもコネでしか入社できなかったのだが、川崎航空機の社長の砂野仁さんが、『今年はきついから来年に』と仰るので、
1年卒業を延ばして、野球部の監督をしていた。
このとき入部してきたのが、小山修身くんでいいピッチャーだった。秋のリーグ戦で50数イニング連続無失点記録を作り、つい先ごろまで学生野球記録だったのである。
点を取られないのだから、負けないのである。ひょっとしたら近大に勝って優勝などと思ったがダメだった。
★中学校以降の11年間、私の学生生活=野球部生活のような、そんな学生時代だったのだが、
社会人になってからも、野球の関係でいろいろお世話にもなったのである。
然し明石の25回戦当時の先輩たちは、みんなお亡くなりになったし、われわれの高校同期ですら、半分はいなくなってしまった。
沖縄が夏を制して夢のようである。
昭和33年首里高校が甲子園に沖縄からやってきたときのことよく覚えている。
最近の高校野球のレベルをみていると、別のスポーツを見ているようである。
もし今高校生だったら、あんなプレーができるかな?と思ってしまうのである。
私たちのころは、バットは勿論木だったし、ヘルメットも被ったことはない、そんな時代である。
阪神の吉田義男さんと同期、長嶋茂雄さんは2年下、野村監督も下、そんな年寄りなのである。