雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

尖閣、ビデオ流出問題に想う

2010-11-08 11:14:09 | 発想$感想

★この問題は一体何だったのだろうか?

連日ニュースで政府の対応などマスコミは、詳しくというよりオモシロおかしく取り上げている。
特にテレビは、『視聴率を稼ぐには』もってこいの話題である。

確かに、いろんな問題が、包括されている問題ではある。
野党にとっても、マスコミにとっても『オイシイ話題』であるのだとは思うが、
これは、国の主権の問題だと思うし、それが侵害された場合の対応はどうあるべきかという基本的な態度の問題なのである。

●それを海保はちゃんと自分たちの責任で、ちゃんと果たしたのに、

●その報告を受けた、政府がその対応を間違ったのは明らかである。


★いろいろなことが言われ、あらぬ方向に、事態は流れているが、もっとも基本的な『政府の対応の間違い』を政府は素直に認めて後、その後のすべての対応を行わない限り、国民の理解は得られないのではないだろうか?

Yahooの意識調査でも、63%の人たちがビデオの流出を歓迎したりさらに20%の人たちが、やむをえないと言っている。
意識調査で問われたら、こんな答えになるのだろうが、こんな明らかな違法行為に拍手を送る態度も、決していいとは思わないのだが、
それ以前の政府の判断と、取った対応が『なっていない』事は間違いない。

これは外交のテクニックなどの問題ではなくて、もっと本質的な問題なのである。



国民は、内閣支持率の方でも、この問題の対応にNO と言っているのだから、
菅さんも、特に当面の責任者であったと思う仙石さんも、素直に非を認めることはできないのだろうか?
明らかに間違った場合は、正々堂々と謝ればいいのである
それほど『何かになりたい』 『権力にしがみつきたい』ばっかりで、『国をどうしたい』などという国家観みたいなものは、今の政治家は持ち合わせていないのだろうか?
若しそうだとしたら、政治家になどなってはいけない人が、政治家になっているのである。

今は野党である自民党も、この問題を政局にするのではなくて、
日本の国はどうあるべきか。
国民に訴え、国民を正しい方向に引っ張る態度が欲しいと思うのである。

琉球新聞が、尖閣ビデオ流出 海保激励の声も「罪問われるのおかしい」と言っているが、
このように言わざるを得ないのは、何か一本、芯が抜け落ちてしまっているように思う。


★ロッテと中日、最初は大味な日本シリーズであったが、最後は、熱戦が続いた。
ロッテファンや、中日ファンのあの熱狂的な応援ぶりを観ていると、
是非政治家の人たちは、『日本国のファン』を造って欲しいものである。

日本の国も、日本の国民も、元々みんないいものを持っているのである。
少々平和ボケして、『日本の国のファン』になることを政治が、教育が忘れさせてしまっている。

決して戦前の軍国主義に戻れなどと言っているのではない。
少なくとも、『自分の国が好きだ』と言い、それを『守り育てよう』と思う国民を育てて欲しい。

個人の幸せ、個人の権利主張とともに、『公』や『国』に対する想いが抜け落ちないように、お願いしたいものである。

そんなことを考える契機として、大きな事件であったと思う。


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昭和33年、新入社員2年目、青春時代

2010-11-08 06:04:15 | 自分史
★前年度の4月に入社してから1年間は試用期間だったそうである。
この年の3月31日に、初めて本雇用としての採用通知を貰って、職級という級の通知を貰った。

仕事の方は財産管理でその償却計算や、机や椅子、社用自転車の修理などが主なものであったのだが、
前年の秋からは工具器具備品と車輛運搬具の担当となり、その財産台帳もないようなずさんな管理状況がどうしても気になって、
別に指示されたわけでもないのに、勝手に台帳を作ろうと思い立って現場廻りを始めたりして、結構忙しかったのである。
間違いなく財産課で一番多くいろいろとこなしていて、とても見習いの試用期間とは、自分でも不思議に思った。

『少々さぼって適当にやらぬと、みんな仕事を背負わされるぞ』と言ってくれる先輩もいたが、お構いなしにいろいろ一生懸命やっていた。
一番、手間がかかったのが、木製の椅子の修理で、半月に1回トラックにいっぱいほどの数の椅子の修理があった。
どう考えても、金は掛るし直しても直ぐ壊れるし手間だったので、当時発売間もない鋼製のネコスという銘柄の椅子に順次代えて行く方がいいと、ネコスからの売り込みもあって、そう思っていた。

当時から健康問題に熱心だった砂野仁さん(副社長)に個人的なことで呼ばれた時、
『背もたれも動いて、健康にもいいですよ』などと話をしたら、
ホントにそれが実現して、4月の時点からネコスの椅子採用が決まったのである。
砂野さんのコネでの入社だし、砂野さんとは中学に入学する前からの『おじちゃんとボク』の関係の時代もあって、本音で話が出来たのがよかった。



★前年の昭和32年から、新人採用は一挙に多くなっているのだが、
この年には、大学卒だけでも技術屋さんを中心に60名もの新規採用があった。

たった1年の違いだが、32年と33年は、随分とイメージが違うようにも思う。
昭和の生まれで言うと、『昭和ひと桁とふた桁』の違いなのである。
33年の年次には、あまり戦前臭さみたいなのがなくて、何となくスマートなのである。
後、川重の社長も務めた田崎さんや、ZIのエンジン設計を担当した稲村さんなどは、この33年次の入社なのである。

レースなども一緒に仲間としてやった田崎さんがよく冗談で言っていた。
『昭和ひと桁は、早飯で、ダンスがダメで、英語に弱い』と、確かに、昭和一桁の先輩たちは全くその通りであった。
もっと言えば、女性に全然ダメなのである。

それに比べると、33年からは、むしろ『戦後』で育っているのである。
当時の川崎航空機ですら、木製の椅子からスチールへと換えようとする、そんな時代であった。



★すべての椅子が一挙に変わるほどの予算はないのは当然のことで、どこからどのように配るのか?。
具体的にどのように配ったのかは忘れてしまったが、配分先の決定なども上の人が決めないので、ぜんぶ自分の裁量で決めることができた。
そんなことでいろいろと関係のあった、各現場の財産管理担当者の人たちからは、結構目を掛けて頂いたのである。
いろんな相談もあったし、1年の新人以上に扱って頂いたのは幸せであった。

机も新しく購入するものはすべてスチール製にしたし、 高い修理代のかかるものは、修理をせずに新しいものに換えた。
結構大きな額であった修理代の予算はゼロに近くなったのである。
さらに言えば、新しいものは経費購入だったので財産物件計上の必要もなく、台帳も償却計算もなしで大いに助かったのである。

それでも決算期の旧い財産物件の償却計算の量は半端ではなくて、手動のタイガ―計算機をずっと回し続けていた。
この年の終りころには、償却計算の機械化が出来ないかなどナショナル会計器などの展示会を観に行ったりしている。

会社に異動があることも周囲で何回か経験した。
この年には新人が入社して、旧い人たちが移籍していった。
そのたびごとに、仕事が増えていったが、それはあまり気にもならなかった。
『財産課は地味でオモシロくない』などと言われていたが、いろいろ動けたし、交渉事もいっぱいあって、むしろ企画や管理に行った同期の連中よりはずっとオモシロイと思っていた。



★当時はまだ25歳の若さであった。
10年間ほどやっていた野球は、硬球から軟式に変わって、会社のクラブチームでやっていた。
別に、技量が上がったわけではないのだろうが、間違いなくチームの中心選手となって、野球人生の中では一番打てたし、確かこのチームでは盗塁で刺された事は一度もなかったと思う。
そんなことで、土日も野球で忙しかった上に、会社のチームだけではなくて、内外ゴムが明石高のOBたちを中心に集めたチームにも雇われて、県で優勝したりした。
野球で言うなら軟式ではあったが結構面白かった。

会社の各課でも、各部対抗のソフトボールの試合などもあって、野球では大いに顔だった。
当時はサッカーなどはほとんどなくて、世の中スポーツと言えば=野球という時代だったのである。

当時は給料もボーナスも考えられぬほど安かった。
初任給は、12000円だったが、支払いは月2回に分割されていた。
年末に貰った冬のボーナスは、前年の32年が17400円、33年の2年目で、18200円だった。
なかなか、大変な時代だったのである。


★この年の11月27日に、同年代の皇太子に美智子妃が決まっている。

そんな年であった。
まさか、会社で社内結婚になるなどとは、思ってもいなかったが、
財産課のすぐ隣の勤労の給与掛にいた家内と付き合いだしたのも、この年である。
5月に初めて映画に誘って、踊りに行ったり、夏淡路の洲本に泳ぎに行ったりして、秋には結婚しようと思った。
何事でも、ハマってしまう性格だが、この時期には完全に家内にハマってしまったのである。

その後、肺結核で入院などしたので、結婚したのはずっと後だが、この年にそれは決めていた。
人の繋がりは、ひょんなご縁だといつも思うが、財産課に配属されていなかったら、多分会わなかったと思うし、
神戸高校卒業の後輩だと聞いて余計に身近に感じたのは、間違いない。

若し青春時代、というのがあったとするなら、私の青春時代は、この年から始まっている。



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