★何事にもハマると熱中する、そんな性格は若い時も今も、全然変わっていない。
そういう意味では人間そんなに成長などしたりはしないのである。給料が上がったり職位が上がったりするものだから成長したような気がするだけなのかも知れない。
『社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない。 (本田宗一郎) 』
ホントにこんなこと言ったのかどうか、昨日ツイッターのどこかで見た。確かに職位が上がったから、経験がつめたから人間が急に偉くなったりはしないのである。 50年前の日記を読み返してみて、この時点に仮に今立っていても同じようなことを判断し、同じような道を歩いたであろうと思ったりする。
入社3年目、会社の生活にも少し慣れて、いろんなことが起こっているが、
大きく二つの事に『熱中している。
一つは、家内との恋愛
もう一つは、償却計算の機械化を中心とする財産管理システムである。
★付き合いだして2年目に入っている。
性格的に隠したりはしなかったので、周囲の人たちはみんな解っていた。恋愛というレベルは初めての経験だったと思う。当たり前の話だが今のテレビ用語で言えば『熱愛』の部類だったと思う。
いろんな事情があったり、自分もまだ体に空洞がある状況だったので、結婚を表面で決めていたわけではないが、気持ちの中では結婚することが当然だと思っていた。日記を読み返してみるとよくデ―トしているものである。
お互いハマってしまっていて、当時はこんなに熱心なのに、50年経った今の冷静さはどうしたことかと思う。そういう意味では、女性より男の方が純真なのかも知れない。
とにかく熱中して楽しい時代であったことは間違いない。
今の時代では考えられないのかも知れぬが、当時はまだ結婚相手を紹介する風習は残っていて、コネで入れて頂いた当時の砂野副社長から、社長室によばれてどこかの医者の娘さんだとかいろいろ言われたのが、一番困ってしまった。
まだ結婚を決めていたわけではないが、お断りした。義理がたい方だったから、故伯父との関係もあって面倒見るならとことんということだったのだろうと思う。
★仕事の財産管理の方も3年目に入って、これは新人だったが間違いなく課の中枢で動いていた。
部長から直接、『事務の機械化』という命題を、4月の期の初めに頂いて、具体的にあちこちの会計器などを調べたり、柄にもなく図書館から本を借りて事務機械化を研究したりしている。
当時のナショナルとか、バロスの計算機の担当者がしきりと出入りするようになった。ナショナル会計機で当時300~400万もする高価なものだったから、売り込み側も必死だったのだと思う。
大阪のナショナル会計機に行ったら、取締役営業部長が直接説明されたり、常務取締役が挨拶に出てこられたりした。3年目の新人社員だったが、全然気遅れなどしなかったと日記に書いている。こんなところも生来の性格で偉い人に会ってビビったとか緊張などしたことは、あまり経験がない。 偉い人に会った経験もないのかも知れない。
本田宗一郎さんとは、何度も同じ会議で同席して言葉を交わすチャンスはあったのだが、一度も話したことはない。これは間違いなくビビっていたのだと思う。
★話がそれたが、
私の1年後輩で、大河内君が管理にいて、彼は機械化はIBMでやるべきだと言うのがずっと持論であった。
9月までは国内の計算機の研究をやっていたのだが、10月8日にIBM室の藤村係長に説明を受けて、一度に気が変わってしまった。
俄然、IBMの方がいいのである。当時まだ日本にはIBMなどはなかったのだが、川崎航空機は米空軍のジェットエンジンのオーバーホールをしていた関係で、空軍関係は全てIBM処理だったのである。
ナショナル会計機などではちょっと難しい償却不足などや償却済み物件の例外処理もできるし、今まで空軍以外の業務に使ったことはないが、余裕があるので財産の償却『計算ぐらいなら、無料でやってあげると仰るのである。
10月8日に初めて説明を聞いて、10月12日には『IBMでやることに決めた』と日記に書いている。会計機とIBMの比較答申書などを書き出しているのである。
★IBMでやると決めたらIBMに乗せられるように、周辺の状況の整備をしなければならない。
IBMと言っても50年も前のIBMだから、まだパンチカードシステムの時代で、カードの桁数にも110桁だったか制限があり、コード番号一つとるのも1桁でも大きな違いなのである。
償却物件の名前もすべて整理統合して、きっちり決める必要がある。
例えば机ではダメなのである。 片袖机か両袖か、鋼製か木製か。 分けて管理する必要があるなら分けて、何も分ける必要がなければ机でもいいのである。 テーブルと机は違うのか。応接テーブルとは分ける必要があるのかないのか。
まあそんな話なのだが、いい加減ではダメなのである。
すべての工具器具備品の名前を分類し、それに基づいたコード一覧表を造る作業は、簡単なようで前例がなく大変だったのである。
さらに、明石の工場だけでなく、本社も岐阜工場も合わせて全社統一のコード体系を造ろうとしたのである。まだ岐阜工場と明石が会社としても統合されたばかりで給与体系すら細部はまだ異なっていた時代である。大変な作業であったが、岐阜製作所も本社も含めて、最終的には明石案で統一されたのである。やりかけてほぼ1年翌年まで掛ったが、新人としては一大事業であった。
この二つの事柄への熱中度は翌年へも引き継がれていったのである。
★昭和34年は一般にはこんな年であった。
1月15日には南極で犬2匹、生存のニュース。
阪神タイガースに明石の先輩の大津淳さんがはいり、ベスト10に顔を出したりした。
9月15日には、ソ連が月にロケットを飛ばしている。
日本選手権は、巨人―南海、藤田、杉浦、長嶋がまだ若いころだが、杉浦力投で南海の4連勝で終わっている。
私ごとだが、養成工の国語の先生をやらされている。やってみて往生した。 英語や数学の方がよほど、ごまかしが効いて教えやすいと思う。
国語教師の免許などあるわけではないので、『昔の言葉を文語という』と言ったら、すかさず『---でござる』というのも文語ですか?と質問されて困った。
年末のボーナスの手取りが22000円だった。
★写真は、kwakkyさんのブログからお借りしました。
★ The Good Times Tumblr 会員さんのon time のブログ集です。