★ 阪神大震災20周年である。
1995年、未だ現役国内市場を担当していた時期である。
その当日の日記を探してみた。
自宅は、今の家、三木市緑が丘だった。
このように書いている。
この日のこと、もう少し詳しく説明すると、
一瞬、地震ではナイと思った。 どこかに飛行機でも落ちたのか、爆発でもあったのか、所謂 『普通の地震とは明らかに異なる揺れ』だったのである。
停電になってしまったが、家は特に何もなく、家具なども倒れなかったし、被害らしいもの何もなかった。
停電で情報はラジオだけで、それも大した情報もなく、周囲の状況は全く解らなかったが、このあたりは特に被害らしきものはなかったので、
いつもの通り、犬の散歩に行って、そのあと明石の会社に車で当然のように出社した。
ただ、信号が停電で点灯していなかったぐらいのことで、明石までの道路も大丈夫であった。
家を出るときに、家内に頼んだのは、当時熱帯魚を水槽で飼っていて、停電になったので、『水温が下がったらお湯を足してくれ』と頼んだのである。
一番の心配ごとが、その程度のこと だったのである。
出社したが、何人かは出ていたが、出社していない人も多かった。
明石は、三木よりはひどかったようで、事務所の中は散乱したりしていて、一番の被害は倉庫のバイクが倒れたぐらいのことだったのである。
川重の明石工場は出社している人は少なかったが、工場の方も大したことはなかったのである。
当時の事業本部長、販社の社長だった高橋鉄郎さんに報告をしようと電話をしたのが、9時過ぎだったと思う。
第一声、『お前、どこにいるんだ?』 『会社です』 と言うと、『大変なことになってるぞ!』 と仰るのである。
高橋さんの自宅は、芦屋の六甲山のすぐ下あたりだから、一番ひどかった地帯のすぐ上なのである。
確か、10時ごろにテレビが見れるようになって、すさまじい状況が写しだされて、私の阪神大震災はそこから始まったようなものである。
火災がひどくて、終日燃え続けていたのである。
★地震での想い出と言えば、
娘婿の神戸の自宅は倒壊したのだが、幸いにも怪我はなかったのである。
川崎重工関係者も現役は1人の死者も出なかったのだが、すでに引退されていたお世話になった大西元副社長が自宅で亡くなられたりした。
兵庫県警に二輪車を寄贈しようとの発案があったので、何十台だったか寄付すると県に電話したら『申請書を出してくれ』と言われるのである。
そんな悠長なことではと、明石の署長さんに話したら、『私が処理する』と言って頂いて、明石署に差し上げたのである。
殆どのメイン道路が通行禁止で、裏道は大渋滞、 兵庫県の黄色になってもどんどん通る悪い慣習は、この地震の渋滞でとても普通には信号が守れなかったそんなことからではないかと思う。
この二輪車の寄贈で、県警本部長から感謝状を頂いたのだが、
それを受け取りに神戸の街まで出て、三ノ宮あたりの状況を見てホントに唖然とした。ビルが斜めに倒れていたりして、平衡感覚がおかしくなって、真っすぐに歩けないのである。
三木は、神戸から距離はそんなに離れてはいないのだが、六甲山の裏あたりは殆ど影響はなかった。
車通勤だったので電車が走らなかったのは特に問題はなかったのだが、飛行機で東京に出張しようとすると、三田周りで伊丹に出るか、岡山空港に行かねばならない時期が大分続いたように思う。
スゴイ地震であったことは間違いないのだが、個人的には大きな被害もなくて幸運であった。
★この地震があってから、三木には広大な防災センターのE-ディフェンスや、防災総合公園のビーンズドームなどの施設が出来たりした。。
E-ディフェンスは 地震に対する建物の強度測定など、しょっちゅうやられているし、
ビーンズドームは平時は屋内テニスコートだが、災害時には、救援物資の集積場として使われるのである。
東日本大震災の時も、ここに救援物資が集められて、テニスコート何面かが物資で埋まっていた。
アレから、もう20年なのである。
(テニスコートに立ってる方、新潟県三条市の国定市長さん、これは私が撮った写真である。 ビーンズドームで写真検索したら現れたのである。)