雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 18

2020-07-21 06:30:25 | 私の生き方、考え方&意見

★ この時代はいろんなオモシロいことも多いのだが、
 当時は私はカメラを持っていなくて、写真が殆どないのである。
 
 将来、こんな時代が来ることが解っていたら、間違いなくカメラは使ったのだが、
 当時は、『カメラなどで写さなくても、この目で確り見ればいい』などと、
 エラそうなことを思っていて、海外などもいろんなところに行っているのだが、
 そんな写真が全くないのは残念なのである。

 この時代のことを想い出すのは、日記を見ると記録は残っているので、
 その当時、どんな風に思っていたのか、日記を切り取って紹介してみたい。


★これは当時のヤマハオートセンターの杉浦斎さんが、89年1月に
 明石に来られた時のことを書いている。

 今は『レッドバロン』になっているのだが、杉浦さんお元気なのだろうか?
 歳は私の方が上である。
 業界では『うるさ型』で知られていて、杉浦さんと『さしで』長時間話された方など、
 そんなに多いとは思わないが、私は結構何度もお話をさして頂いている。


  


 この時も、朝から晩まで二人きりで話しているのである。
 それも殆ど『仕事の話』から脱線しないところが素晴らしい。
 一言で言うと『猛烈に熱心』なのである。

 議論はかみ合わないことの方が多くて、激しい応酬になることが多いのだが、
 厳しく文句を言われるのは常に、杉浦さんの方で、
 私が『ヤマハオートセンター』に文句を言うことは少ないのである。


  今は『レッドバロン』 このようなホームページに、
 このように紹介されている。
 


  

  




★一番最初に杉浦さんにお会いしたのは、
 ヤマハを辞めて『ヤマハオートセンター』を岡崎でスタートされた未だ1店の頃で、
 カワサキの特約店制度に特約店として加入されたころである。

 そんな頃からのお付き合いだったが、当時1店だけの頃も、
 横に安全運転コースを持ち、認証工場の資格も取っておられて、
 『カワサキの特約店』などと言っても認証工場の資格のないところも多い。
 と厳しく指摘されて、『確かに』その時分はそうだったのである。
 大阪に戻って堺の伊藤モータースに『認証を』と言ったのは、
 杉浦さんにそのように言われたからなのである。

 確かに、言われることは正論が多くて、それが厳しいので、
 普通の人は話をするのを『嫌がる』方が多いのだが、
 私は『杉浦さんとの話』は、やられることも多いのだが、結構楽しんでいた。

 杉浦さんも、流石に『言い過ぎた』と思われるのか、
 最初にお会いした時は、すぐウイスキーか何かお酒が家に届いたし、

 我が家には『杉浦さんからの贈り物』それも結構立派なものが並んでいる。


 これも杉浦さんからの贈り物である。

 
 
 

 こちらも確か、そうである。
 まだ、このほかにもいろいろある。

 結構、何度も話しているということなのである。







★『7万台、450億円の売上高』を目標にしてたこの時代も、
 カワサキモータースジャパンとヤマハオートセンターは
 その売上高を競っていたりして、
 杉浦さんは『カワサキに負けないように』と言われていて、

 当時も、ちょっとだけだが、ヤマハオートセンターの方が売上高で多かったように
 記憶している。

 なかなか、スケールの大きい『世界一のオートバイ屋』さんになったと思う。

 私自身は、杉浦さんだけでなく、
 業界で『うるさい』と言われてた方とは、何故か親密なのである。
 船場の岡田博さんとは、ホントに身近な存在だったし、
 船場さんのお弟子さんのような『伊藤彰』さんとも昵懇なのである。

 現役時代には、こんな方たちと
 いろいろと意見を戦わしたのが懐かしい。

 杉浦さんとは、この日記を見ると
 昼は菊水の鮨、夜は金龍閣と『明石では最高の接待をする』と記録があるが、
 多分間違いなく二人だけである。
 そして、その後岡崎まで帰られたはずである。

 ホントに杉浦さん、今もご健在で頑張っておられるのだろうか?
 大きくされているので、『後を引き受ける方』が大変だと思ったりする。
 私にとっては『いい想い出』なのである。

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする