★ この時代はいろんなオモシロいことも多いのだが、
当時は私はカメラを持っていなくて、写真が殆どないのである。
将来、こんな時代が来ることが解っていたら、間違いなくカメラは使ったのだが、
当時は、『カメラなどで写さなくても、この目で確り見ればいい』などと、
エラそうなことを思っていて、海外などもいろんなところに行っているのだが、
そんな写真が全くないのは残念なのである。
この時代のことを想い出すのは、日記を見ると記録は残っているので、
その当時、どんな風に思っていたのか、日記を切り取って紹介してみたい。
★これは当時のヤマハオートセンターの杉浦斎さんが、89年1月に
明石に来られた時のことを書いている。
今は『レッドバロン』になっているのだが、杉浦さんお元気なのだろうか?
歳は私の方が上である。
業界では『うるさ型』で知られていて、杉浦さんと『さしで』長時間話された方など、
そんなに多いとは思わないが、私は結構何度もお話をさして頂いている。
この時も、朝から晩まで二人きりで話しているのである。
それも殆ど『仕事の話』から脱線しないところが素晴らしい。
一言で言うと『猛烈に熱心』なのである。
議論はかみ合わないことの方が多くて、激しい応酬になることが多いのだが、
厳しく文句を言われるのは常に、杉浦さんの方で、
私が『ヤマハオートセンター』に文句を言うことは少ないのである。
今は『レッドバロン』 このようなホームページに、
このように紹介されている。
★一番最初に杉浦さんにお会いしたのは、
ヤマハを辞めて『ヤマハオートセンター』を岡崎でスタートされた未だ1店の頃で、
カワサキの特約店制度に特約店として加入されたころである。
そんな頃からのお付き合いだったが、当時1店だけの頃も、
横に安全運転コースを持ち、認証工場の資格も取っておられて、
『カワサキの特約店』などと言っても認証工場の資格のないところも多い。
と厳しく指摘されて、『確かに』その時分はそうだったのである。
大阪に戻って堺の伊藤モータースに『認証を』と言ったのは、
杉浦さんにそのように言われたからなのである。
確かに、言われることは正論が多くて、それが厳しいので、
普通の人は話をするのを『嫌がる』方が多いのだが、
私は『杉浦さんとの話』は、やられることも多いのだが、結構楽しんでいた。
杉浦さんも、流石に『言い過ぎた』と思われるのか、
最初にお会いした時は、すぐウイスキーか何かお酒が家に届いたし、
我が家には『杉浦さんからの贈り物』それも結構立派なものが並んでいる。
これも杉浦さんからの贈り物である。
こちらも確か、そうである。
まだ、このほかにもいろいろある。
結構、何度も話しているということなのである。
★『7万台、450億円の売上高』を目標にしてたこの時代も、
カワサキモータースジャパンとヤマハオートセンターは
その売上高を競っていたりして、
杉浦さんは『カワサキに負けないように』と言われていて、
当時も、ちょっとだけだが、ヤマハオートセンターの方が売上高で多かったように
記憶している。
なかなか、スケールの大きい『世界一のオートバイ屋』さんになったと思う。
私自身は、杉浦さんだけでなく、
業界で『うるさい』と言われてた方とは、何故か親密なのである。
船場の岡田博さんとは、ホントに身近な存在だったし、
船場さんのお弟子さんのような『伊藤彰』さんとも昵懇なのである。
現役時代には、こんな方たちと
いろいろと意見を戦わしたのが懐かしい。
杉浦さんとは、この日記を見ると
昼は菊水の鮨、夜は金龍閣と『明石では最高の接待をする』と記録があるが、
多分間違いなく二人だけである。
そして、その後岡崎まで帰られたはずである。
ホントに杉浦さん、今もご健在で頑張っておられるのだろうか?
大きくされているので、『後を引き受ける方』が大変だと思ったりする。
私にとっては『いい想い出』なのである。