雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

タイプロジェクトー3 昔話ー37

2007-03-04 06:30:25 | カワサキ単車の昔話
タイプロジェクト-3

豪華川崎GTO青春物語と題する小池君の自分史だが、その中心は1979年9月に発表され10月に全国一斉に発売された、

「Kawasaki GTO Luxurious Sports」 (2ストローク、110cc、15ps/8500rpm、5速)である。

豪華川崎とは、社名Glory Kawasaki~の中国語表示であることは、はじめて知った。
GTOはその名に恥じぬ、名車としてタイの市場を席捲し、今までカワサキを見ることの無かったバンコックでも大人気となるのである。
それまで年間6400台であったものが、79年には11,200台、80年以降は20,000台ベースとなった。

台数だけでなく、委託販売が買い取り方式に変わり、前金が入るなど信じられないことが起こり、資金ショート気味であった経営が営業外でプラスになるなど、合弁事業そのものを確固としたものにした。

こんな点がGTOがもたらした最大の効果であったろう。
更に、インドネシアでも好評を博しCKD事業そのものを支えたのである。
CKDで完成車として先進国では販売されなかったために一般に知られていないが、カワサキの中でも屈指のヒット商品であった。

販売とは「モノを金に変える」ということと、当時ずっと言い続けてきた見本みたいな快挙であった。

小池君が自分史を「豪華川崎GTO物語」と名づける気持ちはよく解る。


こんなCKDビジネスの初期、いろんなことで苦労を共にした仲間たちも、いろんなこともあって今はカワサキと繋がっていない人も多いが、想い出だけは昔のままの形で残っている。

小池君の自分史を読んでいても、それがはっきりと読み取れる。

私自身も、バンコックなど延べ2ヶ月以上の滞在になるのだが、有名な寺も朝市もあの運河さえも知らない。
ホントに何をしていたのか、仕事に熱中していたのは事実だが、観光に行くそんな余裕が、あの頃は無かったのかも知れない。

何年か後オーストラリアからの帰りに、一度だけバンコックを訪れて、馬さんたちと旧交を温めた時はじめて大きな川の横に立つホテルに泊まって、「川があったのだ」と不思議な想いをしたのをよく覚えている。

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6 コメント

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チャンバー (harada)
2007-03-04 08:57:11
この記事を読んで昔工場がタイ向けのチャンバーでいっぱいだったのを思い出します。
国内のサーキットでも入門用としてマシンを用意し、試乗会をしていましたね。
テストライダーの耐久性評価は高かったと思います。

全日本選手権が開催されるサーキットも有名な温泉地が多いのにゆっくりすることがありません。
改めて観光で訪れてみたいと思うことが多いです。
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Unknown (rfuruya1)
2007-03-04 09:37:28
レースもシーズン間近で忙しそうですね。
若いときは、忙しいのがいいのかも知れません。
ご健闘を。
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懐かしい人々~ (コイケ ヒロノブ)
2007-03-09 22:35:03
3月に入って、やっとのこと「雑感日記」に辿り着き、楽しませて頂いています。関係者にも紹介中です。

<関さんのこと>
・確か?独身寮「松ノ木寮」(丸の内線・新高円寺)におられましたね。とすれば、「アノ関さん」ですね。美男子だったこと、お顔もよく覚えています。当寮には、カワ販では、宮本、南さんが、IKSでは青木さんらがおられましたね。

<久保田憲作君のこと>
・単車輸出部(協立ビルと世界貿易センター)で長らく一緒でした。松ノ木寮では隣り同士で、よく飲んでいました。
・彼との一番の思い出は、サッカー=メキシコ五輪のアジア代表決定戦(1967年・国立)を一緒に観戦したことです。雨中の熾烈極まる韓国戦でした。釜本・杉山・横山らを擁する日本は、本大会で歴史に残る「銅牌」でした。

<ライダーの皆さん>
・E.デグナーさん=FISCOで大怪我の後、神戸の病院に搬送されてきましたが、この折、技術部や輸出部のメンバーが4交代で「お世話」にあたりました。私もドイツ語辞書を片手に徹夜しました。傍らには、凹んで穴があいたヘルメットがあったのを覚えています。

・藤井敏雄さん=何故か私は、英国から搬送されてきた彼の棺の受取りに携わり、最早、旅客航空券でなく、貨物扱いによる帰国だったことにショックを覚えました。
 彼は「八王子・高尾墓苑」に眠っておられるようです。

・安良岡健さん=1968年のシンガポールGPに、A7-Rで参戦。日本からは、田村一郎監督、堤利雄さん(メカ)、それに私(在バンコク)のチームでした。他メーカーでは、本橋、長谷川さんらが好走されていました。
その後、東京で日商岩井の佐々木和夫さんと共に、健さん
との交流が続いていました。

<弊著:自分史「豪華川崎GTO青春物語」>
・タイのチャンさん(元・豪華川崎社)に、日本語は読めないのですが、1冊送付しておきました。

長くなりました。失礼します。コイケ
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Unknown (rfuruya1)
2007-03-10 08:35:33
関君、「くぼけん」のことなど本当に懐かしいですね。
いろんなこと、思い出して楽しいのと、整理にもなります。
一番いいのは毎日決まってすることが、出来ることだと思います。

小池君もブログやりませんか。10分もあれば、手続きだけは出来ます。
後は、メールするのと変わりません。

私は、市場調査も兼ねて、いま三つのブログをやっています。
勿論主力はgooですが。
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40年近く (kshop)
2007-03-11 12:02:34
 小池さん
お久ぶりです。思い出して頂けました?
39年位前の事ですが。

久保田さんはラグビーをやっておられたと思います。
が、日韓のサッカー試合を観戦されたのですか。
今では大騒ぎする大イベントになっていますが、当時はどんな雰囲気だったのか気になります。

 古谷さん
久保田さんに教えを頂いただけで、何もお返しをしておりませんでした、先日のお話で弔辞を読まれお送りして頂いたとのこと、少し胸にあったものが融けたようです。勝手な自分の気持ちを話してしまいました。
返信する
Unknown (rfuruya1)
2007-03-11 15:31:24
小池君もご存知だったのですね。

会社の中で一緒にいても本当に一緒に仕事をする機会は意外に少ないと思っています。

小池、久保田両君ともそんな数少ない一緒に仕事が出来た仲間と思っています。

久保田はラグビーでした。亡くなる前はミュールという新製品の開拓に熱っぽく取り組んでいたのですが。
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