★先日Facebookにアップした「カワサキの昔話」のブログに、
今はめちゃ有名人のToshi Nishiyama さんから
58年前に丸野山高原で開催されたMCFAJ全日本モトクロスでの、
ノービス125優勝のこんな写真が送られてきた。
「第19回全日本モトクロス(MCFAJ)丸野山ノービス125ccクラス優勝の写真が出てきました。18歳の時で58年くらい前です。」
とご本人のコメント付きである。
西山 俊樹さんがまだ18歳の頃なのだが、
当時は日本のモトクロス界ではMCFAJ全盛期で、その初代事務局長をされてたのが西山秀一さんで、俊樹さんのお父さんである。
当時私は西山秀一さんはよく存じ上げていて、その息子さんがモトクロスをされるということは知っていた。
この写真は、西山俊樹さんなのだと思うが、
お父さんの西山秀一さんにそっくりである。
旧い旧い話である。
当時は二輪関係の雑誌もオートバイ誌とモーターサイクリスト誌の二誌しかない時代で、MCFAJはモーターサイクリスト誌と密接な関係があったそんな時代だった。
★ 昭和39年(1964)春に富士の裾野の朝霧高原で行われたMCFAJの全日本でカワサキの山本隆が初めて優勝をしたのだが、
その年の秋のMCFAJ全日本が伊豆半島の丸野山高原で行われ、カワサキはその時も山本隆が全日本2度目の優勝をしているのである。
これは60年も前の話だから、前述の西山俊樹さんの優勝はそれから2年後のことなのだろう。
★これが丸野山高原で行われたMCFAJの初めての全日本で、
その時のことを亡くなってしまったが、
山本隆クンがご自身のブログでこんな風に書いている。
・・・その翌年昭和39年(1964)の春は、晴れてカワサキワークスの一員としてMCFAJ第10回全日本MX選手権朝霧高原に颯爽とカムバックしました。カワサキワークスは125cc一機種しかなくそれを使ってオープンクラスの2レース参加である。
そのオープンクラスで、全日本参加二度目にして奇跡的と言おうか荒井市次さんを抜いて優勝を成し遂げたのです。
その後のレース活動への影響が計り知れないほど私にとってもカワサキにとっても記念すべき優勝であったと思います。
その年の秋の全日本MX丸野山高原(伊豆)では125メーカー選手権で久保、荒井、三吉のMX御三家を抜いて優勝しました、マシンは125ツインエンジンでした!
そこで私の秘蔵の写真を公開致します。
その大会にカワサキのヘリコプターKH-4でミス修善寺が飛来大会会長の新井広武氏に花束贈呈のスナップです。
そのオープンクラスで、全日本参加二度目にして奇跡的と言おうか荒井市次さんを抜いて優勝を成し遂げたのです。
その後のレース活動への影響が計り知れないほど私にとってもカワサキにとっても記念すべき優勝であったと思います。
その年の秋の全日本MX丸野山高原(伊豆)では125メーカー選手権で久保、荒井、三吉のMX御三家を抜いて優勝しました、マシンは125ツインエンジンでした!
そこで私の秘蔵の写真を公開致します。
その大会にカワサキのヘリコプターKH-4でミス修善寺が飛来大会会長の新井広武氏に花束贈呈のスナップです。
★これがその時の写真だが、当時広告宣伝課は航空機事業部が下取りをしたヘリコプターを持っていて、
あちこちのレース場にヘリコプターを持って行ってたのある。
そんなことで各社のライダーたちに「ヘリに乗せて」と頼まれたりしたので、私は他社のライダーたちとも懇意になったりしたのである。
これは、当時の久保(スズキ)荒井(ヤマハ)の両雄を抑えて
カワサキの山本隆、堂々の優勝の写真である。
右はカワサキの梅津次郎なのだが、左は誰なのか解らない
★この丸野山のMCFAJ全日本モトクロスは、
私にとって、いろんなことのあった想い出深い会場なのである。
この年の5月に4輪の免許を取ったばかりで、行くときは明石から延々車で現場に行ったのだが、その時初めて車の長距離運転を経験したのである。
そして帰りは東京に出て、1964年10月1日に開業した新幹線に初めて乗って戻ってきた。
この年が東京オリンピックのあった年で同じ時期に開催されていた。
「戦後の復興から高度経済成長に移行していた日本にとって、先進国への仲間入りを世界に告げる好機となった」と言われた、
「日本の発展の始まりの時期」だったのである。