★ マッハⅢ と言われたH1が世に出たのは1964年のことで、
カワサキで「2ストロークのエンジン設計は松本」と言われていた松本博之さんの作である。
★ 125B8をはじめ、数々の2ストロークエンジンを開発した松本博之さんだが、
あまり知られてはいないがCKDで東南アジアに出荷された開発コード740、GTOのエンジンも松本さんの開発で、
CKDなので部品出荷のため台数記録がないのだが、
カワサキの二輪車で間違いなく最大の台数を世に送り出した大ヒット車なのである。
私は企画やマーケッテング分野が専門で、機種の開発などには関係していなかったのだが、このGTOの開発については私が色濃く関係したので、そんな昔話をご披露してみたい。
★ 1978年、東南アジアのCKD新市場進出のため市場開発室を組織して、タイでの合弁会社をスタートさせるなどやっていた時代のことで、
営業としては、どうしてもCKD市場にあった「専用の機種」が欲しかった時期である。
78年2月3日の私の日記の記述をそのままご紹介してみたい。
「夕方から技術部の会議に呼ばれる。大槻部長以下課長以上全員が揃っていた。方針が明確でない限り、技術部としては開発はやらないと大槻さんにまくしたてられたが、大槻さんとはレース時代からのお付き合いで気心もよく解っていたので、営業代表としてねばって言い分を通してもらった。」と書いてある。
このときのことは、本当によく覚えているのだが、
125ccなどの小排気量には大槻部長はあまり関心が無かったのだが、私がひつこくねばるものだから、
『私がやりましょう』と「助け舟」を出してくれたのが、松本さんだったのである。
カワサキにとって初めての「CKD専用機種、開発コード740」,
カワサキにとって初めての「CKD専用機種、開発コード740」,
110ccGTOは、CKD専用車であるために一般には余りよく知られていないが、
歴史に残る大ヒット商品となり、この機種でカワサキのCKD事業は軌道に乗ったと言っていいのである。
この時、松本さんに私が頼んだ『開発コンセプト』は、
唯一、メーターで『最高速120㎞』を確実に出せることだったのだが、これが実現できてGTOは大ヒット商品になったのである。
兎に角、あの時代の東南アジアで一番速かったのがGTOなのである。
タイでの販売台数は当時、6400台/年だったのだが、
タイでの販売台数は当時、6400台/年だったのだが、
11000台、20000台と一挙に増加し、インドネシアでも好調に売れてCKD進出を軌道に乗せたのである。
★ カワサキの二輪関係者でネットのWiki に載ってるのは松本博之さんだけで、こんな記述が載っている。
「現在のカワサキの草創期を支えた歴代モデルを設計した。
カワサキで最初に設計された2サイクルエンジンKB-1から開発に関わり、カワサキの事業存亡をかけたモデルB8のエンジンから車体までを設計。
B8のヒットによってカワサキはオートバイ事業撤退を回避した。
その後もA1、H1、H2 等歴代の2サイクルモデルの設計を指揮した他、オフ車F21M、KT250、カワサキで最高の販売数を誇ったGTO110やAR & AV50その他、4サイクルエンジンにも関与した。 」
ここにもGTOの記述が、ほんの少しだけ書かれている。
この隠れた大ヒット商品のエンジン開発者が松本博之さんだったのである。
『松本さん、あの時は助け舟を出して頂いて、本当に有難うございました』
カワサキの単車のスタート時期からの開発者としての松本博之さんだが、もうこの世にはおられない。
私としては一度もお礼を言う機会もなく過ぎてしまったのである。
ところで、松本さんの奥様はまだご健在なのだろうか?
松本さんの奥さんの『大ちゃん』は私の入社当時隣の課にいて、
大人気者だったのだが、いろいろとお世話になったのである。
松本さんに何のお礼も申し上げていないので、
せめてこのブログの最後に末筆ながら『有難うございました』と書いておきたいのである。