雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

1945年8月15日正午

2014-08-16 08:22:43 | 自分史

昨日、Facebook のノートに 『1945年8月15日正午』 と言う69年前のことを書いたら、沢山のコメントを頂いた。

逆にコメントの方からご紹介する。

  

  •  角野 學 終戦の日の思いが伝わるお話です。私は1947年生まれですが今の時代に感謝です。 
  •  
    鶴田 竜二 古谷さん、貴重なお話をありがとうございます。
    戦争を知らない世代の私にとって凄く興味深い話です。
    私の祖父は当時国鉄員でした。ビルマで泰緬鉄道を建設するために現地に行き過酷な作業だった為、怪我をし、それがもとで破傷風となり亡くなったそうです。享年33歳だそうです。
  • 古谷錬太郎 鶴田さん、こんにちは。ビルマは大変だったようです。私の母方の伯父もビルマで病で亡くなりました。戦後69年も経って当時の戦時中のことや戦後のことをご存じの方も少なくなっています。私は川航空機にご縁があって入りましたが、もし明石に川航がなかったら明石に爆撃などはなかったと思いますし、その爆撃で叔父、叔母が亡くなったりしています。
    戦争は、いろんな不幸を産みましたし、生活が一変したりはしましたが、そんな貴重な経験が出来たことで、その後の人生も変わったと思っています。いい方向で捉えることにしています。
    カワサキに入ったお陰で、今お付き合いのある人たちとも、鶴田さんとも会えました。
     
  • 井上 博之 明石の空襲では大勢の人が明石公園に逃げ込みました。私の伯父・伯母もその中に居たのですが、防空壕が満員でそのまま櫨谷のほうに逃げた直後、防空壕に爆弾が直撃して中に非難されておられた方は全員なくなられたそうです。
    川重には私の母が勤労動員で働いていましたが、終戦後焼け野原になった明石の雨の夕方にはあちこちで鬼火が見えたと言っていました。
    当時のことは伯父・伯母も母もあまり語りたがりませんでしたね。それだけ悲惨な状況だったのだろうなぁと今更にして思います
  •  古谷錬太郎 井上さん、明石のご出身ですか?私も戦時中はソウルにいましたので空襲のことは知りませんが、伯父や伯母の話ではそれは大変な事だったようです。伯父の家は公園の外堀に面していたのですが、あの堀が公園に避難した人の死骸でいっぱいだったそうです。みんな公園に爆弾が落ちるなどとは思いもしてなくて、伯父の家も神戸の人たちの荷物をいっぱい預かってたそうです。終戦後帰国して見た明石公園は木々がみんな焼けてしまって何もないような状況でしたが、松は復活しませんでしたが、樫などの広葉樹は生き返って今のような状況になりました。アレから70年ですから・・・
  •  
    鶴田 竜二 古谷さん、ありがとうございます。
    ビルマからタイを結ぶ泰緬鉄道は私が調べただけでも本当に大変だったみたいです。本来完成までに5年はかかると言われていたのが、わずか約1年4ヶ月で完成させたみたいです。それだけに工事の過酷さが余計に予測されます。
    雨期の中ドロドロになりながらジャングルを切り開いたり、コレラやマラリアが蔓延し多くの方がお亡くなりになられたみたいです。
    ・・・もっと見
     
  •  
    松本 巌 ソウルは環境良かったのですね…亡父の居た満州では終戦直前にソ連兵の乱入が有り友達が銃撃されて即死だったと…女子供無差別に殺されたそうで最近までそんなバカな話…と信じられませんでしたが実際に非戦闘員の殺戮は有ったらしいです…
    最近嫁用にTriumphのBonnevilleを買ったのをきっかけに大脱走を観たのですが…捕虜になったら脱走して敵を攪乱するのが軍人の務めと…
    一方帝国軍人は捕らわれて辱しめを受ける位なら自決せよと厳しく洗脳されていたと…この武士道精神が災いして捕虜を蹂躙し国際法に背いたので敵国の日本人に対する敵意が増してしまったのでしょう…そのお蔭で外地に居た日本人がシベリアに抑留されたり酷い目に遭ったのではないか…このように聴かされた記憶が有ります。
     
  • 古谷錬太郎 松本さん、こんにちは。ソウルはアメリカ軍でしたから、特には何もありませんでした。同じ種類の動物で殺しあったりするのは人間だけですね。そう言う意味では動物の方が賢いようにも思います。こんなこと言うと人間は動物ではナイと怒られそうですが・・・・  
  • 岩本 和久 軍の警察をやっていた父の叔父が、終戦時に満州にいましたが、ソビエト軍に捕えられて、シベリア抑留となりました。だんだん奥地まで行き、最後はタシケントまで行って、そこで強制労働させられました。仲間がたくさん亡くなり、抑留期間はなんと4年にも及びました。やっとの思いで帰ってきて、生きて行くために祖母がやっていたおかき屋を手伝いはじめたのが弊社の歴史の創生期です。黎明期は父が18歳で継いだ頃ですが、当時の食糧事情はひどく、サツマイモばかり食べてたとか。父の知人も神戸方面で三菱の工場で、極秘裏にロケットエン
  • ピュア ドルフィン貴重な体験談ですね!(ノ゜ο゜)ノ オオォォォ- T8年生まれの祖父が戦争に行ってたので現地の話はよく聞きましたが、三木市のことはきかなかったです。T9年生まれの祖母は、祖父の留守を守っていたというのは聞きましたが、三木市にも焼夷弾が落ちていたのですね

 

1945年8月15日正午

 

    

 

1945年8月15日正午、 朝鮮京城(今のソウル)の城東中学の1年生でした。 炎天下の校庭で直立不動で天皇陛下の玉音放送を聞きました。よく聞こえませんでしたが、『戦争が終わった』ことだけは解りました。

当時の朝鮮は日本でしたが、戦時中は空襲もなく、食料事情などもよくて、何の不自由もない生活でした。

 

その年の12月に、1人1000円だけを持って、文字どおり『着の身着のまま』で、日本に引き揚げてきてからが、本当に戦争の影響を経験したと言えるでしょう。明石のまちは焼け野原でした。伯父の家のあった上の丸あたりは、爆弾の落ちた後の逆三角形の大きな穴がいっぱいでしたし、無数の焼夷弾が地面に突き刺さっていました。

 

翌年の4月に中学校の1年生に再入学し、今の伊川谷から明石駅まで歩き、電車に乗って灘から学校まで地獄坂を毎日歩いて通う、考えられないような通学でした。中学2年生の時に、天皇陛下の神戸行幸があったのですが、神戸にはホテルがなくて、天皇陛下は神戸一中の3階の教室を改装した部屋に泊まられました。そんなこともあって、私のクラスは、天皇陛下の天覧授業を受けたりしました。

 

天皇陛下がなぜ神戸一中に泊まられたのか? 当時のGHQがそれを調べて、『英才教育をする学校』と言うことで、所謂『学区制』検討の端緒になったとも聞きますが、その真偽はよく解りません。高校3年生の時に『学区制』が施行されて、特に神戸一中は厳しくて、生徒だけではなく学区外から通う先生にも適用されました。私はそれで、明石高校に転校したのですが、同級生の多くと先生たちが『灘高校』に移ったのです。このころから急激に灘高校は優秀な進学校になりました。

 

当時の食糧難は半端なものではありませんでした。米などは殆ど口にすることは出来ず、いもやなんば粉のパンなどでしたが、なぜか今のサツマイモやトウモロコシとは全然違っていたような気がします。特に『なんば粉のパン』はまずくて、その後も『トウモロコシ』の印象はよくなかったのですが、多分今のトウモロコシではなくて動物の食料にするトウモロコシだったのだと思います。

 

こんな戦後の困窮は、1950年朝鮮戦争が勃発し、戦争景気で急激に日本の復活が始まる時期まで続きます。当時はずっと野球部で野球をしていたのですが、夏の予選の前の合宿の楽しみは、米の飯が食えることでした

 

そんな苦しい時代を経て、日本は素晴らしい発展をしたと思います。

 そんな日本の姿を見ながら69年、こんなに極端な時代の変化とともに生きられたことは非常によかったと思っています。

 そのスタートが69年前の8月15日正午だったのです。

 

     

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今年のお盆の天気

2014-08-15 06:37:52 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★ 世の中『お盆休み』です。

どこに行っても人がいっぱい。

カンカン照りで暑くて、花火大会などがその代表するイメージなのですが、今年はあちこちで花火大会の中止が伝えられました。

夏の甲子園も、開幕が2日も順延されたりして、ちょっと異常です。

 

アメリカから孫二人が夏休みで遊びに来ているのですが、この雨ではちょっとノ―プランです。

急にその雨足も強くなりました。

 

 

多分、雨音が聞こえると思います

 

 

★ この後1週間の週間予報です。

 

 

この調子だと、今年の夏は異変だと言えそうです。

暑さ知らずで、過ごせるのかも知れません。

同じ兵庫県ですが、今甲子園は全然降っていません。

 

 

最近は何でもよく解ります。

間違いなく、今甲子園は降っていません。

この雨雲は今後、どこへ移動するのでしょうか?

 

 

★1日明けて、今。 今朝も雨が降っています

 

 

 

 そして、午後からも雨の予想、。

梅雨には、雨あまり降らなかったのに、まるで梅雨が戻ってきたような夏の天気です。

 

少なくとも、私はこんな真夏の天気、初めての経験のような気がします

 

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万引き犯の顔写真公開中止

2014-08-14 06:38:06 | 発想$感想

「万引き犯よ、返さないと顔写真公開」

 

    

 

25万円の玩具を万引きされた古書店「まんだらけ」が、「返さなければ犯人の顔写真を公開する」と警告していた問題は、13日警視庁の要請でホームページでの顔写真の公開を取りやめたようである。

世の中に、カメラがいっぱいだし、どこの店舗も万引き対策には熱心なようだが、それでも本屋さんなどでは万引きの被害が絶えないようである。

「返さなければ犯人の顔写真を公開する」 と言うことは返せば、なかったことにすると言うことなのだろうか?

犯人の身内とみられる女性から「午後8時までに返せばいいのだろうか」という内容の電話があったと言う記事も載っていた。

 

これは『やり過ぎ』と言う批判もあったようだが、Yahooの意識調査では、

 

   

 

 『妥当だと思う』と言う答えが大勢を占めている

素直に考えたら『妥当だ』と思うと言うのは『妥当』な気がするのだが、警察は捜査に支障があると、その中止を求めたようである。

 

 

★確かに、これはいろいろな問題が含まれていて、

間違いなく万引きと言う犯罪が行われたのに、『返せばなかったことにする』と言うことがどうなのか?

警察などの公の機関があるのに、被害当事者が勝手に写真公開すると言うのも問題なのかも知れぬ。

ただ、万引きの行われる数は、大変なもので、何もせずに警察に連絡してみても、警察が直ぐ動いてくれる保証もないし、多分放置されるだけだろう

今回の件は、『今後は証拠も十分あるので、警察の方々のお力を信じてお任せしてまいります』としているが、これだけ世間で騒がれたから、警察もちゃんと動いてくれるのだろう。

 『警視庁中野署は「捜査に支障が出る」として公開しないよう申し入れていた。』とあるが、具体的にどんな支障が出るのだろう。

 

    

 

 こんなデータ―もあったが、実際にはもっと多いのだろう。

この事件果たしてどんな結果になるのだろうか?

 

 

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Team Green 監督重本修次郎くんのこと

2014-08-13 05:42:05 | 7万台の挑戦の時代

★1990年代 カワサキの長いレースの中でも、

Team Green の実績が燦然と輝いた時期のTeam Green 監督重本修次郎くんがこの8日に亡くなったという悲しい知らせを受けた。

 

 昨日重本くんの訃報を聞いてFBにこんな動画をアップした。

 

 

 

★1990年代当時のカワサキは、『7万台への挑戦、 新しいカワサキのイメージ創造』に向かってグループ全体が邁進していた時期である。

その主たる役割を担ってくれたのが、Team Green を中心とするレース活動であり、イメージ創造活動を担う広報活動だったのである。

そしてそれらを纏めて『遊び半分ではいい遊びは出来ない』と遊びのソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』が当時のカワサキグループのトータル活動を支えてきたのである。

 

7万台の目標がほぼ達成されようとする時期に、川重工の幹部職員250名を前に、国内グループ活動状況の話をしたのは、企画部門でも、営業部門でない3つの部門の責任者、KSSの南常務レース担当の重本部長広報担当の小林課長と私の4人で担当し、打ち合わせなど一切なしのぶっつけ本番での喋りだった。

その中の重本くんが話した一部をご紹介してみたい。  

当時のカワサキのレース活動の基本コンセプトが語られている。

それは非常に高い目標であったと同時に、レースの世界でカワサキが輝いていた時代でもあったのである。

 

           

             

 

               

 

                

 

  ここで重本くんが述べているように、

単にレースに勝つと言うだけではなく、広い視点でのレースの位置づけが出来ていたと思うし、その実績でもカワサキのレースの歴史の中で、非常に大きな実績を残しているのである。

 

     

重さんは、生前ゴルフはまさにシングルだった。

彼にゴルフを勧めて、初めてラウンドしたのが、SPA直入のすぐ近くのコースだったのである。

教え子に直ぐ抜かれてしまった。

 

       

 

生前の写真を探したが、こんなZ1会でのレース関係者との小さな写真しか見つけられなかった。

最近、なぜ顔を出さないのか? 病気だとも聞いていなかったので、突然の訃報は驚きなのである。

今年からTeam Green は、ファクトリ―のような感じに生まれ変わったが、

重本監督時代、野村くんが支え、技術担当としては、今のマイスターの森田優治くんの3本柱で、本当に確りとした活動だった

その実績からも、その時代Team Green 関係で育った塚本、宗和、鶴田、北川、梁くんやサテライトの月木では多田くんや岩城一さん、BEET強かったし

      

 

 こんなサテライトチームを含んだ活動で、それは20年後の今にも生きているように思う。

 

当時の国内の責任者の私が、メーカーの幹部職員への報告会のレポーターとして選んだ3人は、当時のカワサキオートバイ販売グループの核だったのである。

重本くんにも、本当にいろいろと援けて貰った。

まさか私より先に逝ってしまうとは思いもしなかった

安らかにお眠りください。 心からのご冥福をお祈りいたします。

 

 

 重本修次郎氏  御逝去の弔電   
        2014.8.13
    
 あごひげの似会う重さん、あなたの訃報の入手が遅れ、告別式に参列できず    
ほんとに申し訳ありません。    
 重さんは仕事でもゴルフでも大先輩で、良く教えてもらいました。 Z-1会コンペ    
では数回優勝され、ベスグロの常連でした。あの小さな身体で、何であんなにボールが    
飛ぶんだろうと不思議でなりませんでした。 ほんとに練習の賜物だったのですね。    
人一倍練習されていたのですね。    
 また、川柳や木工細工もお上手で、ほんとに多芸多才で、人生を謳歌されたと思います。    
町内会の仕事が一段落したら、またZ-1会に復帰してもらえるものと信じていましたのに    
残念でなりません。 御冥福をお祈り致します。    
 ご遺族の皆様 どうぞご自愛下さいませ。    
                                     Z-1会一同    

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アメリカからやってきた孫

2014-08-12 06:37:00 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★アメリカから8月7日に孫、門野真也はやってきた。

早いもので、もう5日が過ぎようとしている。

男の子ばかり4人の孫だが、小さい時から何となく一番長い時間を真也と過ごしている。

 

この5日間動画に撮ってあるのでどんな感じだったのか?

撮ってた動画をこのブログ用に 今朝もう一度短く編集し直したので、ちょっと覗いてみてください。

 

 

アメリカから1日遅れで伊丹に着いた。

このひと月だけでも、ニューヨークに行き、アイルランドに行って、直ぐまた日本にやってきた。

飛行機は慣れてるのだが、どうも飛行機運は悪くて、よく遅れたりする。今回も1日予定よりは遅れた到着だった。

 

 22日までの滞在だが、 今はサッカーがちょっとの間だけ、シーズンオフで、9月からは新しいシーズンがスタートする。

勉強道具は持ってきていないが、サッカーのトレーニングだけは欠かさず続けるようである

早速家で筋トレをやってたし、毎日1時間ぐらい朝ランニングをやっている。

ビックリするほど真面目である。

サッカーのレベルも毎日の努力で維持してるのだろう。

 

 この年代は、髪型や服装に関心があるのか?

長男はそうでもないのだが、次男の真也は来るなりアタマのカットに行った。

そして、ユニクロに行くのが希望の一つである。

ユニクロでもあれやこれやと熱心に探していた。

おばあちゃんは、孫に優しい、孫のための金は惜しくナイ感じである。

 

近くの協同学苑のグランドにサッカーをしに行った。

流石にウマいものである。

子どののころ、ここでリフティング5回が出来なかった同じ男の子とは思えない。

 

 台風11号が三木を直撃した。

台風などとは縁のないカリフォルニアに住んでいるので、日本の台風を経験するのもまたいいものである。

ただ、被害が出たりしたら、大変だが、何とか風も大丈夫で通り過ぎた。

緩やかな勾配がある団地だから、水が溜まったりは決してしないので安心である。

 

 

台風一過、

昨日はひる飯を『ごちそう村』で食い、近くのジョウシンで 何か買って貰っていた。

そしてアメリカにはナイ100円ショップで買い物。

さらにコンビニに行って何かを買い、返ってからまた酒屋に飲み物を買いに行っていた。

よくまあ、買うモノがあるものである。

 

こんな買いものの間にも、アメリカのトモダチから電話が入る。

勿論英語なのだが、英語を喋ってるのを聞かれるのが照れくさいのか? 人のいないところを探して歩いていた。

 

★今日、明日は、神戸の実家に行ったり、日本の友達とあったりする予定である。

そして、13日からは兄貴も鎌倉からやってきて、賑やかになる。

焼き肉を食いに行ったり、温泉に行ったりする予定も残っている。

15日の夜は、三木の人に フットサルに誘われたりしている。

 

22日までもあっという間に過ぎるのだろう。

もうすぐ、大学だから、大学生になったら、おじん、おばんに付き合っている暇もなくなるだろう。

そう言う意味では、あと1週間、貴重な1週間ではある

 

 

 

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あさご青春物語

2014-08-11 16:35:37 | 発想$感想

 

Facebook に『あさご青春物語』 というページが、ごく最近創られました。

 

 

 

 

私自身、そんなにちゃんと解っているわけではありません。

一緒に『いい朝の来るまち』朝来のまちづくりを、カッコよくやろうと言う仲間たちが取り組んでいるので、『いいね』と思っているのです。

何となく、『カッコいいな』と思っています。

 

こんな風に説明されています。

 

    

 

 

きっかけは、2014年夏のJR「青春18きっぷ」のポスターに、竹田城跡が採用されたことでした。

JR播但線の始発、キハ41形のオレンジ色のボディーと、朝もやの竹田城跡とのコントラスト。

私たちが普段、何気なく目にする風景の美しさを、一枚のポスターが教えてくれたのです。

竹田城跡に物語があるように、このまちに住む人、訪れる人にも物語があります

過去から現在までの時の流れの中で守られ、育まれてきた何気ない風景。

その中に溶け込む、さまざまな世代の日常や旅の物語にスポットをあて、写真とともに紹介するのが、この「あさご青春物語」です。

 

 

「放課後 君と」は、地元、兵庫県立生野高校に通う生徒の下校中のひと時を

「伝えたいこと」は、アラサー世代、ちょっと気弱な彼の、彼女に込めた思いを

「あの頃との再会」は、60代夫婦の、忘れかけていたものを思い出す旅を

それぞれの世代の小さな物語を、竹田駅、生野駅周辺の何気ない街なかの景色とともに切り取ったカタログ「あさご青春物語」。
この冊子をぜひ手に取って、駅からまちを歩いてみてください。そのなかで、何気ない風景の宝探しを楽しんでいただければ、幸いです。

「天空の城」「日本のマチュピチュ」とも呼ばれる兵庫県朝来市の竹田城跡には、今や全国から数多くのお客様に来ていただけるようになりました。

一方で朝来市には生野銀山をはじめとする産業遺産や鉱山町、城下町の町並み、古代遺跡など、全国に誇れる豊富な観光資源があります。

この朝来市の日常の風景を切り取った冊子をきっかけとして、来ていただいた皆様にもっともっと朝来市のよさを知っていただければと願っています。

 

 



 

 

 

 

こんな朝来の18のスポットを紹介するのだと思います。

スタートは8月13日からですが、その予告編のようなものです。

いずれにしても、何となくカッコよくて、

 

とても市役所の人たちが創ったとは思えないのですが、

これを創り上げた人たちは、こんな人たちを中心とする、朝来市役所の職員さんなのです。

 

 

 

7月30日に、そんな素晴らしいメンバーと雑談して、

『いい朝が来るまち』 朝来市のいいまちづくり 『新しいイメージの創造』が出来たらいいなと思っているのです。

 

『いいな』と思われる方、ぜひ『いいね』してあげて下さい。


https://www.facebook.com/asagostory?fref=nf

 

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自然災害 と 私

2014-08-11 05:52:47 | 私の生き方、考え方&意見

★我ながら長く生きたものだと思う。

80年もの自分の人生を振り返ってみて、不思議なほど自分の意思でどうこうするよりは、周囲の人たちや周囲の環境の示す方向なりに生きてきた。

中学1年生で終戦になって、世の中の大きな動きの中で朝鮮から引き揚げてきたが、それ以降の自分の行く道はみんな周囲の人が創ってくれたような気がする。

自分で何になりたいとか、思ったことはホントにナイ

 

●神戸一中に入学したのは、伯父の友人だった砂野仁さんが『そこに行け』と言われたからだと思う。

●高校を明石にかわったのは、学区制が施行されて仕方がなかったのである。

●高校でそのまま就職するはずが、父が正月に亡くなって、伯父がもう金が不要になったから大学に行けと言われて大学に行った。

●就職は、砂野仁さんが川航に来いと仰るので、そう決めていたのだが、卒業年次の昭和31年は不景気で、今年は採用が少ないから来年まで待てと、言われて1年間野球部の監督をしていた。

●川航に入ってからも、異動先など一度も希望など言ったことはない。アレをやれ、ここに行けと言われる通り40年間を過ごした。

 

そんななかで、家を三木に建てたのも、別に三木を知っていたわけでも、何でもなくて、仙台にいたころ明石に出張してきたら、取引先にいた人がダイワハウスに移っていて、三木に宅地造成をしているから、その土地を買ってくれと言うのである

どうせどこかに土地を買って家でも建てねば思っていたので、その出張中に土地を買うことを決めたのである

三木など一切知らなかったが、その人いわく、間違いなく良くなるからと言うので、別に誰にも相談せず決めてしまったのである。

 

★今日はそんなことを書くつもりではなくて、80年生きてきた中での『自然災害』との関係を書こうかとスタートしたのである。

私が、人生で経験した『自然災害』と言えば、明石に住んでいたころの『台風』が一番なのである。

一番というより、それ以外に自然災害に出会っていないのである

明石にいた30歳までの15年間、あの頃は毎年のように『台風と直面』して生きてきた

このころは殆ど関西に台風は来なくなってしまったが、あの頃は本当によくやってきた。

 

その中でも大変だったのが、1950年9月3日に徳島から淡路を通り、神戸垂水に上陸した『ジェーン台風である。

この台風を京都に行く電車の中で、大阪を過ぎた『東淀川』あたりで4時間ほど、一番ひどい真っただ中で経験したのである。

当時は明石高校の野球部だったのだが、その何年か前に明石は優勝候補の筆頭だったのに、明石が雨でこれは中止と判断して行かなかったら、西宮は晴れていて不戦敗で予選敗退したことがあって、それ以来どんなことがあっても試合地までは行くというのが伝統だったのである。

10時に徳島に上陸と言う状況なのに、明石から京都に向かったら、東淀川あたりで電車は止まって動けなくなってしまったのである。

直ぐ前にあった消防署の建物が風を含んで倒壊するのを目の前で見たスゴイ台風であった。

それ以降も、明石には毎年のように台風は来て、その対策に大変だったし、瓦か何かが飛んできて窓ガラスを割ってそのかけらで手首を切ったりしたこともあった。

近所の家の屋根が吹き飛んだりしたこともあって、台風にはあまりいい思い出がないのである

 

それ以降、仙台に移り、高槻、と移り住んだが、『自然災害』には無縁で過ごせた。

そのあと三木に移り住んだのだが、『三木が安全』と言うようなことは一切考えたりはしていないのだが、

人生の半分、40年をお世話になっている三木に来てからは、全く『自然災害』とは無縁なのである。

あの阪神大震災の時も、神戸の隣町の三木は、揺れはしたがなんの問題もなかったのである

 

そんなことで、明石で台風対策で苦労した母は、亡くなるまで『三木はいいとこや』が口癖だったのである。

地形が盆地みたいになっていて、昨日の11号も風は何の問題もなかった。

それ以上になだらかな丘陵地なので、雨は幾ら降っても水が溜まったりすることは考えられないのである。

今回の台風も、テレビで見ていても、『水害』は大変である。

そんな心配がないのがいい。

 

 

 

 

 

そして、昨日は三木に来て40年、初めて『台風11号』が三木を直撃したのである。

昨日も雨は結構降って、NHKのニュースでも三木の名前が出たりもしたのだが、『水害』は全然アタマになかった。

テレビであちこちの水害状況を見るにつけ、安全な場所に住む幸せを感じている。

 

★40年も住んで、間違いなく三木で一生を終えることになるのだろう。

その土地が安全で安心だと言うことは、非常にいい。

この土地を、自分で選んだ訳ではなくて、言われる通りにしたわけなのだが『いい土地』を選んでくれたとお礼を言わねばならないのかも知れない

まあ、こんなのは、みんな人生の巡り合わせみたいなものだから、

自然に、周囲の人たちの言う通りに、素直に生きていくのがいいのかな と今でもそんなスタンスで生きている。

 

 

 

 

 

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台風11号の予報と実況

2014-08-10 05:38:12 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★台風11号の進路予想を見ると、兵庫県三木市は間違いなく直撃の進路である。

その予報と実績を追っかけてみたい。

 

●まず、1日前 8月9日の昼ごろの予報である。

 

 

   

 

 大型の台風だと言うし、これは覚悟をしておかないとと思って、

特にこの地区はなだらかな斜面だから、水は流れてしまって溜まる恐れは皆無だから、

問題は風なのである

その天気予報が、最近は郵便番号ごとに表示されたりする。その状況では、最大風速は13メートルとある。

ホントだろうか?

 

  

 

●1日明けて、今8月10日、朝5時少し前である。

ニュースによると、四国に上陸直前である。

雨は降っていないし、風もない嵐の前の静けさである

 

NHKのニュースと、今現在の様子を動画で撮ってみた

 

兵庫県三木市の今後の台風予想である

やはり最大風速は13メートル

ちょっと遅れて昼あたりがピークのようだが、この後、何時間ごとに短い動画の実況状況をてってみたい

 

 

 

 

●午前8時の状況。

少し風は出てきたが、雨はこれも少し降っているという状況である。

この段階では、動画は普通に撮れた。

 

 

 

●午前10時半から11時ごろの状態

雨は10時半ごろが一番赤色に近い雨雲だったが、このあたりは30~40ミリのあたりで済んだ。

  

 

家の過ぎ近く、今度新しく可能になった250メートル単位では、我が家の周辺は、

 

   

こんな感じである・

 

 

動画ではこんな状況

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孫 門野真也

2014-08-09 05:05:55 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

    

 ★アメリカから孫の真也がやってきた。

 

    

 

 高校3年生、4年ぶりの日本。

もうアメリカ生活が10年にもなるので、半分アメリカ人みたいな発想である。

 

  

 サッカーで今トップ下をやっている。こんなベストイレブンに選ばれたとご機嫌である。

シーズンは終わったとこだが、今シーズン20得点で得点王争い全米5位か6位に入ったらしい。

 

その得点シーンを集めた動画である。

すべてが自分のゴールでPKは一つもないと威張っていたが・・・  小学生の頃兄貴と二人がPKを外して負けったことがあったりしてPK嫌いなのかも知れない。

 

 

    

 

 これは先週、アイルランドでのMilk Cup スペイン代表との試合、アメリカ代表に日本人がら入れて貰っている。

 

 

★そんな孫、門野真也が1日遅れでやってきた

アメリカからのフライトが遅れて、成田―伊丹の最終便に間にあわず、1日鎌倉の息子宅に泊めて貰っての三木入りなのである。

久しぶりに、息子のところに居候している兄の力也とも会えてかえってよかったと思う 。

伊丹空港での様子である。

 

 

今回は22日までの三木逗留だが、勉強道具などは一切持ってきていない。

完全な夏休みで、すしを食いたい、焼き肉、温泉に行こう、ユニクロにも。と予定を聞いたら食うことと遊ぶことばかりである

そんな彼だが、このシーズンオフもトレーニングだけは欠かさずやるらしい

こんなストレッチや筋トレをやって、朝5時半に起きて1時間ほど走ってきていた

 

結構たくましいのだが、

10年前日本にいたころは、ただのこんなデブ。 サッカーなどリフテングもロクに出来なかったのに・・・

今は、二人とも、サッカーでは相当のレベルのチームにいて、

アメリカ人のような発想で、スペインとドイツが希望のようである。

次男の方は、高校でスペイン語を習っていて、少しは喋れるようだから、本気でそんなこと思っているらしい

          

 これが確しか6年ほど前に、三木に二人で遊びに来たころである。次男の方は体形も変わって、本格的にサッカーをやり出したころである。

息子が、鎌倉から遊びに来て、サッカーのコーチをしていた。

 

 

そして、夜はカブトムシを採りに行って、一度にこんなに採ってきた。

  

          

 

カブトムシや、魚が好きで、私が一番連れ歩いて、面倒見た時間の長い孫である。

今回も、その味が忘れられずに、夜はカブトムシを採りに行こうと言っている

 

 

 

★昨日の午後、場所も同じ協同学苑のグランドにサッカーの練習をするというので、付き合った。

 

動画を撮ってきたが、 これは流石である

自然体で、バランスがよく力が入っていないところがいい。

 

特に、センスがあったり、運動神経が抜群でもないのに、ここまで来たのは

生来のまじめな性格と、やりかけたらめちゃめちゃ練習することである。

 

10年前の真也と、2年前の真也もよく知っているだけに、あと何年かするとホントに何とかなるのかもしれない。

大学はお陰さまで 名門 University of California, Berkeley にサッカーで入学が決まっている。

そのあとの真也を見れるほど、長生きが出来るだろうか?

 

 

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慰安婦問題

2014-08-08 05:46:56 | 発想$感想

 ★ 慰安婦問題での橋下徹さんの発言である。

いつものことながら、『ズケズケ』と言われていて気分がいい。

関心のおありの方は、確りとお読みになるべき問題だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな記事が載っていたが、ホントにどのように言われたのか、いろいろ調べてみた。

実際の取材と新聞記事とは随分と異なることが多いのである

たまたま、橋下さんの問題になった『慰安婦問題発言』の時は、実況放送を聞いていたのだが、元々話題は『慰安婦問題ではなかったのである。』

それが記者の例えの質問の中に『慰安婦問題』があって、ちょっと答えたら言葉じりを捉えられてあんな記事になってしまったのである。

 

でも、人が喋ったことを正確に記事にするのはなかなかムツカシイのである。

この件も、産経新聞はこのように伝えている

 

出来る限り、正確を期すべくご紹介してみる。

 

まず、これは産経新聞の記事でこのように書かれている。

 

朝日新聞が掲載した同紙の慰安婦報道の検証記事をめぐり、橋下徹大阪市長は6日、「(誤報から)32年間、過ちを認めなかった朝日新聞が白旗をあげたが、言い訳じみている」と批判した。「朝日新聞の罪は大きすぎる。ここで収束させてはダメだ」とも述べ、朝日自らが慰安婦報道が国際社会に与えた影響などについてさらに検証していくべきだとする見解を示した。

国連を焚きつけた“国賊”ひどさ…32年後やっと削除 朝日は過去に何度も取り上げた自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治氏の「慰安婦を強制連行した」との証言について虚偽と認め、記事を取り消した

橋下氏は国連人権委員会に提出され、慰安婦を「性奴隷」と認定した「クマラスワミ報告」が吉田証言を引用していることを指摘。「朝日の報道によって国連の人権委員会がたきつけられた」と指弾した。

 また吉田証言を報じて32年が経過した今年になって、朝日が「強制連行」があったとしていた韓国の済州島で再調査していたことについては「やっと取材するなんて、ひどすぎる。どこまで日本を侮辱し続けるのか」と憤った。

 

 ここからは、橋下さんが話した内容だがこの通りなのかどうかはは解らない。 省略などされているところもあるのだろう。

 

産経新聞が頑張ったからじゃないですか。あの方、本名なんですかね。あの阿比留瑠比さん。もうあの方の力なんでしょうね。まぁ、あれだけしつこくしつこく、事実に基づいて報道してああいう風になれば、朝日新聞も、もう逃げられなくなったんじゃないですか

 この間の名古屋の記者会見で、結いの党との合流の時の あの記者会見で結いの党と維新の会の安全保障の問題で「どこが不一致なのか指摘してくださいよ」と僕が記者の皆さんに言ったら誰も答えられなくて。そんな不甲斐ない記者よりも、ああいう阿比留瑠比さんみたいな記者が集まってきてくれた方が、政治家としてもしゃきっとするんじゃないでしょうかね。これは産経新聞の、阿比留さんの力が大きかったと思いますよ。

ただちょっと言わせてもらったら、これまでね、この慰安婦問題についてはいろんな政治家とか、いろんな週刊誌がいろいろ言ってたけれども、国民的なね、大きなそういう議論の広がりにならなかったところを、少しでも僕が発言したことがきっかけとなったんであれば、それはもう僕は政治家冥利に尽きますよ

 32年間、朝日新聞がかたくなに過ちを認めなかったことをね、ここまで産経が頑張ってくれた。産経が頑張ることによって週刊誌も頑張りはじめて、いろんな雑誌も頑張り始めた。もう最後、朝日新聞、白旗揚げたわけですし

これまでのコメンテーターね、いいことしか言わない、きれい事しか言わないコメンテーター。個人名を出させてもらったら、僕にかなりどぎつい批判をしてきたあの大谷昭宏氏ですよ。何ていうかですね強制連行っていうものはなかった。虚偽だったと、これではっきりしたんじゃないでしょうかね。

ただね、今度間違ってはならないのが、産経新聞をはじめね、保守政治家、保守を気取る政治家が気を付けなきゃいけないのは、これをもって鬼の首を取ったようにね、日本を正当化したら、これは完全に誤ります

だから、これ産経新聞の正論なんかでも、稲田朋美さん、今の行革大臣ですか、あの方はかつていわゆる公娼制度があった、そういうことを持ち出して、慰安婦って問題、これは合法だったんだと堂々と産経新聞の正論で言ってましたけども、急に今、口を閉ざしてしまったけれども、僕が世界からも国内からもあれだけ批判を受けて急に稲田大臣は「橋下発言は女性蔑視発言だ」なんてことを言い出して、だんまりを決め込んでますけどもね。これは絶対にやっちゃいけないですね。間違っちゃいけない。

 個人の評論家とか、個人がね、いわゆる売春というものについていろいろ合法化論を唱えるのはいいのかも分かりませんけども、国家運営の責任者が、世界スタンダードで考えたときに、これを堂々と合法化論というものを唱えるのは、絶対に世界的にみても、世界の潮流からみてもこれは誤ってしまう

=(2)「読売や産経も報じてた、と朝日の言い訳こそ矛盾…」に続く

 

などとある。

このほかにもいろいろあって、朝日新聞の最近のロジックは無茶苦茶だと例を上げて反論している。

このあたりが、橋下徹さんが他の政治家と違うところで、弁護士らしくどこまでも、堂々と持論を展開して、大きなものとでも戦う姿勢があるのがいい。

朝日新聞も本件については、言い訳などせずに、土下座してでも謝る姿勢を示した方がいいと思う。

 

朝日新聞のね、あの記事はまぁ、本当に言い訳に満ちた記事というか。僕ね、やっぱり朝日は取材はね、しっかりしている新聞だと思うんですよ。それぞれの記者もよく勉強しているし。でもね、ロジックが最近もうむちゃくちゃ場当たり的なロジックで全部自分のところへ跳ね返ってくる

 僕があの記事を読んでいて一番不快に思ったのはね、結局、読売新聞や産経新聞も、他紙も同じように報じてたじゃないかと最後に付け加えてるわけですよ。あれは情けなかったですね。なぜかって言えばね、僕が慰安婦問題の発言をしたときにね、米軍やイギリス軍、ドイツ軍フランス軍、韓国軍だっていわゆる女性を利用していたという話をしたときにね、「なに正当化してんだ」と。「他国がやったからといって自分たちがいいといえるのか」と、これをさんざん言ってきたのが朝日新聞ですよ。

 だから「ガラパゴス的な議論にしてはいけない」というのはその通りだけれども、何も国内だけで、日本人がやってきたことは正しかったんだとか、間違ってないんだとか、そんな議論じゃないんですよ。

これはもう、世界標準として考えて、日本がやってきたことはどこまでを反省して、どこからはきちんと反論すべきなのかってことを、しっかり考える。もう次のステップはそこですよ。だから今回、この問題ね、ここで収束させちゃだめですよ

 一つは、国連人権委員会の報告書をもっともっと検証してもらって、吉田清治氏の文献が国連人権委員会のクマラスワミ報告書の第2章でどんどん引用されて、これが元になって、日本は性奴隷を使ったってなっているわけです。もし日本が性奴隷を使ったという評価なんであれば、これ日本だけじゃなくて世界各国です。

 第二点は、これは、日韓関係をこじらせたのは朝日新聞の記事なんです。なぜかといえば、通常の戦争犯罪であれば平和条約ですべて解消するというが原則ですよ。ルールです。通常の戦争犯罪とか戦争責任については平和条約で解消する。

朝日はどうなんですか。重大ですよこれ。本当に。32年間、それはね、間違ったらすぐ謝らないと。それは。これは大問題。で、今になって、あれびっくりしたけど、2014年の3月か4月にやっと取材に行ったんですか、あれ。記事に載ってたけどもね、あれはひどすぎると思いますよ。

 だから何を論点として何を騒いで、日本の、なんていうのかな。どこまで日本を、侮辱し続けるのかっていうかね、それで気持ちいいと思っているのかどうなのか分からないけども、これはね、罪大き過ぎると思いますよ。32年間、ずっとこの問題をこうやって報じて、やっとこれ、ここに来て逃げられなくなったから認めることになったんだろうけど。

 最後のあれなんて、もっと記者が怒んないと。あんな情けないことを、最後ね。「読売でもこう書いていた。産経新聞でもこう書いてた」なんて、あれを書いたことによって台無しですよ。

結局あれ、他紙もやってたから、だから私もしようがないでしょって、まさに僕を批判してた、自分を正当化している論拠じゃないですか。

 

まだまだ続くのかも知れぬが、

これぐらい詳しく読めば、大体橋下さんがどんな人なのかよく解る

今の政治家には、いない貴重な人材だと思っている。 

本件は、日本は世界に向けて、何らかの対応を取らねばならないのかもしれない。 

と思っていたら今朝の新聞に橋下さんがそう言っている。

 

朝日は国際版を世界にまけ

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/topics/west_affairs-16806-t1.htm

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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マーケティングマインド 雑感

2014-08-07 04:51:09 | 私の生き方、考え方&意見

★『マーケティングマインド』 と検索していたら以下のような文章に出会った。


マーケティングマインドとは、企業活動のあらゆる局面においてマーケティング発想を重視するということです。

商品開発からその売り方、コミュニケーションのあり方など、マーケティングのあらゆるシーンにおいて、お客様の視点、市場からの発想を優先させることなのです。そして何よりも大切なのは、このマーケティングマインドを企業目標として掲げることではなく、日常の現場レベルで実践することです。

企業目標としてマーケティングマインドを謳っていても、いざ現場レベルや担当者レベルになると、途端に作り手や売り手の論理が優先されるケースが多くなりがちだからです。

と書かれてある。

 

確かにその通りなのかも知れぬが、

マーケッテング戦略を立てようと言うスタンス』になることと、『マーケッテングマインドを持つ』ことはコレは別次元の話で、前者は出来ても、後者はなかなか実現しない。

マーケッテングマインド、これは、所詮は性格の問題で、『マーケッテングマインドを持ちましょう』と言うようなセミナーなどもあるようだが、

好奇心』のない人に『マーケッテングマインド』を持てということが無理なのかなと思っている。

 

 

★『マーケッテングマインド』を持ってる人が、別にエライわけでもなくて、ただ単に『好奇心のかたまり』のような『奇人、変人』の部類なのだと思う。

私自身は、間違いなく『好奇心』だけは人並み外れたものを持っていて、いろんなことを具体的に調べて納得しないと、どうも落ち着かないのである。

 

 

    

 

マーケッテングマインドで画像検索したら、こんな画面が現れたが、講義を受けても無理だろう。  ただ、『仕組み』への挑戦は賛成である。

 

   

 

 『 好奇心』で検索したらこんな画面が出てきたが、大体こんなことで検索までする人は少ないだろうが、もしあなたはされるのなら、それは見込みありだと思う。

 

 

★話は変わるが、Facebook のシステムの中に『いいね』のシステムがある。

私は、この『いいね』には特別の関心を持って、いろいろとチェックしている。

Facebook は確実に個人の意思で、投稿されたり『いいね』をクリックされたりするので、人を視るには格好の仕組みの一つだと思っている。

FBにも沢山のトモダチがいるのだが、いろんな『いいね』の押し方があるものだと思っている。

 

●FBの扱い方を視ていると、 登録しているだけの人から、めちゃ熱心な人まで非常に幅広い。

●大体、『いいね』とは、見ましたよと言うことなのか? ホントにその内容に,共感しているのか?

●一番最初に『いいね』を押す人は、どんな方なのか?一番先に『いいね』を押すのはちょっと勇気も要るのだろう。

●『いいね』の数が多いのは、中味は意外に単純な方がいい。多分中味が大したことではないので、『いいね』を推し易いのだと思う。

意見じみたものを書くと、『いいね』を押す人の数は激減するが、どんな意見にどんな人が反応しているのか? これはなかなかオモシロい。

 

 

私自身はどちらかと言うと、関心のあるサイトや記事は、きっちりと読む方である。

 

http://doda.jp/contents/mirai/report/001.html

 

この記事など相当に長いが、ちょっと興味があったので最後まで読んでみた

そんな中から、他の人が知らないいろんなことが解り、それによって、その後の記事の読み方が変わったりするのである。

今朝はFBに載っていた木村圭介さんの『朝来市議会だより46号』を読んだりした。他では解らぬことが解ったりした。

 

★企業など組織体の運営で『マ-ケッテング機能』は必須の条件であろうが、そこに働く人にすべて『マーケッテングマインドを持て』と言っても無理なような気がする。

いろんな人がいるのだから、それぞれの性格や特徴を生かして、いい部分を伸ばす方が、『全員にマーケッテングマインドを持て』と言うよりは得策のような気がする。

 

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今年で還暦を迎えたもの

2014-08-06 05:37:40 | 発想$感想

★先週の日曜日の『たかじんのそこまで言って委員会』は 『今年で還暦を迎えたものの特集』だった。

60年前と言えば昭和29年、私自身は大学3回生だったから、世の中のことはちゃんと判断出来て当たり前なのに、

この番組に取り上げられた問題は、結構ニュース性の高いものなのに、ホントのところ一切覚えていないのである

 

如何に遊び呆けたり、野球ばかりに熱心だったかということなのだろう。

どんな問題が先週の番組であったのかと、思いだそうとすると今度はなかなか思い出せないので、これはまた『認知症』の始まりかもしれない。

然し、現在は便利な世の中である

『たかじんのそこまで行って委員会』だけでは、そのホームページしか現れないのだが、

たかじんのそこまで行って委員会  8月3日』 と検索して見ると、ずらりとYou Tube が現れて、番組自体をもう一度見ることも出来るのである

 

  

 

この番組は、東京で流れないからかどうか、

この各You Tube もみんな何万回も見られている。それだけの需要があると言うことか?

東京で、この番組ご覧になったことのない方、このブログのリンクからでも、ご覧になることが出来ます。

 https://www.google.co.jp/#q=%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A7%E8%A8%80%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%80%80%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%93%E6%97%A5

 

 

★このブログで書こうとしたことは、そんなことではなくて、

60年前のことを幾らかでも関係づけて解っている ということは、結構大変なことで、少なくとも65歳以上でナイとそれは不可能なのである

それぞれ議論された議題の中味もさることながら、それぞれに対して、自分の意見でも言ってみるかと思って書きだしたのである。

意見と言うよりも、感想とか想い出みたいなものである

 

『自衛隊』

これが出来て、60年らしい。

この中では自衛隊や、それに関連して憲法などが論じられているが、自衛隊は朝鮮戦争勃発で、アメリカの都合で警察予備隊などが創られて、その流れの中で出来たらしい

その朝鮮戦争については、非常に鮮明に覚えている。

高校2年生の夏の予選の前、1950年6月25日、西宮球場で広島の盈進高校との練習試合をやってる最中に突如場内放送で『朝鮮で戦争が勃発しました』と言うアナウンスがされたのでよく覚えているが、『戦争が起こったこと』などあまり関心がなかった。

当時は明石も結構強くて、その夏には甲子園にもでているのだが、この日は後国鉄スワローズに行った箱田のいた盈進や、四国の巨人に行った藤田 元司のいたた西条北などとの練習試合で戦争どころではなかったのである。

朝鮮戦争で覚えているのは、もう殆ど釜山の直ぐヨコまで攻め込まれたのだが仁川上陸から一転攻勢に転じてその後休戦になったのである。それが今の自衛隊に繋がっているのである。

いい悪いは、別にして、この朝鮮戦争から日本は一気に好景気になって復興して行ったのは間違いない。1950年までは戦後の食料難で米も食えなかったが、大学3年の頃は、日本は様変わりしていたのである。

60年経った今は、全然違った次元での議論になっているのである。

 

 

『農協』

農協が出来て、60年らしい。先述したとおり、もうその頃には戦後のひどい食料難の時代は過ぎていた。

日本の農業政策をどのように舵取りするのか、考えられた時代なのだと思う。

大学3回生だが、農協ののの字もアタマにはなかったと思う。

60年経って、今の農協問題は一言で行って、組織が肥大化し過ぎている。農業問題よりは組織問題だとか、その運営は資金運用で保たれている半ば巨大銀行のような組織である。

再考しなければ、イケナイ時期に来ていることは間違いない。

大体、『守ろう』と言う議員先生方の本音は農業問題ではなくて、自分の身分であるような気がしてならない。

 

『公営競馬』

JRA が出来たのが60年前のことだと言う。

賭けごとは好きではないし、やらないので、競馬も競馬場にも行ったことがナイ。テレビで見ている限りは競輪などよりはカッコよくてなかなかいいような気もする。

馬と言う生きものが主人公なのがいい。三木には、確かJRAも絡んでいる『三木ホースランドパーク』もあるのだが、馬を見ているだけでもなかなかいい。

そんなJRAが出来たのが60年前だと言うが、競輪は間違いなくもっと前からスタートしているのである。

私の高校時代住んでいた明石公園の直ぐ東側だったのだが、高校時代にその外堀が半分埋められて競輪場になったのである。家の塀を乗り越えたら競輪場に入れたりしたので、高校生の頃競輪の券は買ったことがあって一瞬儲かったりもしたのだが、JRAより早かったとは知らなかった

調べてみたら

自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として自転車競技法が1948年(昭和23年)8月に成立。同年11月20日、地方の財政健全化と経済情勢全般の健全化、自転車産業の振興を掲げ、国体会場でもあった小倉競輪場において第1回の競輪競走が開催され、ここに競輪が誕生した

こんな記述があるが、明石競輪場が出来たのは、私の高校時代多分1951年ごろだと思う。それにしても競馬より早いのは意外である。

 

『原発』

これもそんな早い時期からスタートしたとは、意外だった。

原子力発電をどうするかは、私は、『いつ止めるかは別にして、止めるべきだとは思う』 のだが、テレビの議論の中で、日本が原発を止めたら、北朝鮮や中国がこの分野に進出し、それが各国に輸出されて、テロ集団にと言うような、この番組らしい議論もあった。

でも、福島の事故一つも、無難に解決できないような装置があちこちに出来るのはどう考えても不安である。

こんなに進んだ世の中なのだから、エネルギーは原発しかないと決めつけてしまうのはよくないと思っている。

 

★他にも色々あたのかも知れぬが、

60年という年月は、過ぎてしまえば一瞬だが、逆に60年もすると世の中も変わるものである

この変わり方は、今後もっとその速度を上げるに違いない

 

60年前は、私は大学生だった。そしてこれらの問題には殆ど関心を示さなかった。

60年経って、今二人の孫が大学生である。

果たして彼らは現在の問題に、関心があるのだろうか?

間違いなくワールドカップには感心はあるのだろうが、TPPや今のJA問題などへの関心は如何なものなのだろう。

 

 

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日本一小さい花火大会 と ビァガ―電

2014-08-05 06:58:12 | みっきぃふるさとふれあい公園

★いよいよ今週末になりました。

 

 『ふれっぴーみき七夕まつり』が、 美嚢 川の直ぐヨコで開催されます。

 その催しの中のひとつに、『ミニ花火大会』 もあるのですが、

 

       

 

 

美濃川をバックに打ちあげられる 

●『日本一小さい花火大会』を

●旧玉置邸と言う最高の立地から、

●ビールを飲みながら、ご覧になりませんか?

 

ビアガー電!!』  と銘打ってこんな協働イベントを開催しようとしているのは、

『粟生線の未来を考える市民の会』  なのです。

 

ビールをお飲みになりたい方は、

車ではなくて、

どうぞ神戸電鉄に乗ってお越しくださいと言うコンセプトなのです。

その最高の場所を、『粟生線の未来を考える市民の会』 が提供しようというのです。

 

 

 

 

 

 

先日の世話人会でも、いろいろ検討されました。

世話人代表を山本篤先生、そして板東さんや小牧さんが支えています。

山本医院や、e-音楽みき は       NPO The Good Times の団体会員なので、私もスタート以来、主として広報関係でお手伝いをしています。

 

      

 

粟生線の未来を考える市民の会』には50名以上の会員さんがおられますし、

 

 

 

 

今回のイベントの中心メンバーの一人の井上章二さんも、

 

 

お店を出してくれる『きっとウマく行く輪』の陸井さんや深津さんたちも、みんなNPO The Good Times で繋がっているのです。

 

 

  

 

そういう『ゆるーい繋がり』が、一つのイベントで、何となく自然に協働する。

みんながそれぞれにグッドタイムな、いい時を過ごせる、そんな仕組みに何となくなってきたなと思っています。

 

 ビアガー電!!』  

 今週末は、三木に来てビール飲みながら、特等席で『日本一小さい花火大会』を楽しみませんか!!

 

 

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Kawasaki X-11

2014-08-04 06:37:03 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのスポーツ4輪、X11のことについては、

 『ヴィンテージな走り、荒井市次、山本隆』

 『カワサキ単車の昔話―55』

そして

 『カワサキの4輪スポーツ車X-11』 

 

と今までにも何回も取り上げてはいるのだが、そのカッコいい写真がなくて文章だけだったのである。

 

 

★一昨日多田くんが、突然、Facebookにこんな写真を載せた。

こんなメント入りである。

Kiyokazu Tada
90年初めにカワサキワークス.フォーミュラーマシンX -11。エンジンはZZ -R 1100のフルチューンエンジン搭載、開発ドライバーは元トヨタ.ワークスドライバーの見崎清志。岡山国際サーキットを36秒台で走ります。僕も試乗させて貰いましたが、シートポジションもそのまま、ペダル位地もそのまま、なかなか走り辛い感じでした(*_*;。なれた頃には最終コーナーで大スピン!あわやピットウォールにクラッシュ寸前でした(*´∀`)。でも楽しい走行が出来ました(⌒‐⌒)。

岡山国際サーキットとあるが、当時はTIサーキットで通っていた。

 

 

 

懐かしい想い出いっぱいのマシンである。

どんな経緯でこのマシンの開発が始まったのか?

どんなことがあったのか?

そんなことは今までのブログにいっぱい書いてあるので、今回はその写真が出てきたので、X-11のまとめにしたいと思って書いている。

 

このX-11の開発の時期の技術本部長は同期の藤川哲三さんである。

私は国内の販売担当責任者で、サーキットSPA直入も管轄下だったし、当時スタートしたTIサーキットは、ホンダにおられた千々岩さんが初代社長で、頼まれて会員権を2枚も持っていたりした。

当時の国内市場はZEPHYR時代で、めちゃ調子もよかったし、藤川さんに頼まれて、サーキット走行などいろんな面倒を見ていたのである。

特に当時は未だ技術部のぺいぺいだったが、このエンジンを担当していた山田浩平くんがオモシロくて、そんなことも応援する気になったのである。

そんなことでこのプロジェクトはKAZEやレースやサーキットなどを担当していたソフト会社 ケイ・スポーツ・システムX-11についても担当していたのである。

上の写真にも、渡部達也くん(当時はKSSで、今はNPO The Good Times 副理事長、KAWASAKI Z1 FAN CLUB 代表)の顔も見えたりする。

 

 

 

KSSでは、その発売を目指して、カタログまで創ったのだが・・・

この写真は、多分そのカタログからである。

 

ネットはスゴイなと思うのは、、ネットで画像検索すると、こんな写真が次々に現れたのである

何回か検索すると、現れたり現れなかったりするので、この雑感日記でアップしておけば、これは間違いなく記録されるので

そんな想いもあってブログをアップしているのである

 

昨日、ネットの画像検索に現れた写真である。

 

    

 

    

 

二輪の1100ccのエンジンだから勿論馬力もあったのだろうが、高回転なので音が気持ちよかった。

初めはSPA直入などで走っていたのだがTI サーキットに持ち込む頃には結構仕上がっていて、二輪のライダーたちも乗りたがって多分この日は、多田や宗和も乗ったのだと思う。

星野インパルの金子豊くんに、『星野一義に乗せられないか?』と言ったのだが、

星野はブリジストンとの契約があって、ダンロップのタイヤだからちょっと無理と言うことだった、そんな話もあった、X-11だった

Facebook にシェアしてアップしたら100人を超す方から『いいね』を頂いたし、

開発当事者の山田浩平くん(昨年までのカワサキの技術開発本部長)からコメントを頂いたりした

 

 

 

それにしても、なぜ発売を止めてしまったのか?

その経緯は、全然聞いていないし、アレだけ熱心に応援していたのに、解らないのが不思議である。

 

1台だけ東京の藤木さんが持っていたのだが、FISCOでクラッシュしたと聞いていたのだが、

今、城田モータースにあるとか?  そんな話も、聞くのだが・・・

 

今からでも、もう一度やってもオモシロそうなプロジェクトなのだが、よほどの遊び心がナイと無理なのかも知れない。

まあ、今回は、Kawasaki X-11の記録を写真付きで、何となくネットに残しておこうと思って書いている。

 

★全然次元の違う話だが、

冒頭に紹介したブログ『ヴィンテージな走り、荒井市次、山本隆』 に書いたX-11のことで詳細なコメントなどを頂いて、

いまでも、いろんなレースに顔を出す貴島久裕さんと繋がったりした。

どうやらこのカタログを創った時に、その会社に勤めていたらしい。太一ちゃんのところにもいたんだとか・・・いろんなことで繋がるものである。

貴島さんと繋がったお陰で、今、山本隆くんはMIKI ANNEXPARK でヴィンテージMXを走ることになったりしたのである

そのころ頂いたコメントである。

 

ありがとうございました!! (カンサイオトキチクラブ 高下隆次)2007-04-25 16:48:43遊びに来て頂いて!尚かつ喜んで頂けて!!
本当に良かったです。ホッとしました。
本当はもっと当時のお話しゆっくりお聞きしたかったんですが
なんせ、忙しくて~それに自分も走りたいですから~笑
応対に大変失礼があったと思います。心からお詫び申し上げます。
ただ、乾いた2ストのエキゾーストノートが昔の情景を思い出させてくれませんでしたか?笑
イベント自体はアットホームなゆるい感じでいい大人の運動会になりつつあると思っています。これからもお時間有る時は是非に遊びに来て下さい。またお知らせします。大阪市内に来られる時は一声おかけ下さい。お茶でも一緒にお飲み出来ればと、、、

しかし、山本さん 速かったし格好良かったです~

 
こちらこそ (rfuruya1)
2007-04-25 17:19:26
高下隆次様

こちらこそ、本当に楽しませて頂きました。

荒井、山本の走りは「想定の範囲外」の素晴らしいものでした。
あんなのを見ると、気持ちだけでも、こちらも若返った気がします。

貴島さんにお会いできて、旧い、懐かしい X-11 の話など出ましたので、早速今日、アップしました。

みんなの気持ちが前に出た、いいイベントだと思います。
今後、益々のご活躍を祈念します。

有難うございました。奥様にもよろしく。

          古谷錬太郎
 
古谷さまありがとうございました。 (貴島久裕)
2007-04-30 02:51:37
ことのはじまりは・・・こうでした。
ON ANY SANDA開催の数日前、高下君との電話での会話のこと。。高下君「山本さんや荒井さんも来てもらえます。あ・・それから何やらカワサキに詳しいフルヤさんって人も。。」ワタシ「え?!フルヤって・・錬太郎さんか!?って、あの?・・・高下君、どんな人か知ってるん?!もとカワサキオートバイ販売の社長やで!!シャチョウ!!」ビビッてるのはワタシだけで、高下君「いやぁ、ただブログで知り合いになっただけでー・・」といたって平静(汗)
まあ、世代の違いでしょうか(笑)
かくして古谷様と約15年ぶりの再会とあいなりました。当日のこと、X-11のこと・・至るところにワタシのことを記述いただき、照れくさい限りです。
古谷様のイメージは当時、社長室でスーツ姿ビシッと決めておられた姿でしたので、ON ANY SANDA当日お会いしたラフな格好の古谷様は、ワタシの緊張を解きほぐしてくれました^^
これも勝手なイメージですが、メジャーリーグのウエアに帽子の当日の古谷様に、もとドジャース監督のラソーダ氏を彷彿とさせたのはワタシだけでしょうか。

さて、このブログにもやっとたどり着きました(笑)
なにせON ANY SANDAの前週は水曜日に明石の立脇氏のお店までワークスKXをお借りに奔走し、それを毎晩2時まで3日かけて洗浄、レストア。。2台が仕上がったのは当日、日曜日の午前3時でしたので、そのままお風呂だけ入って今度は積み込みし・・そうこうしてたら午前5時。スズメが鳴き出し、新聞配達のカブの音。。結局、一睡もせず三木に直行。。でした。

もともとワタシもライダーとして第一回の三田柴田牧場より参画していのるですが、徹夜となると既に走る気は失せて、「今日はイベント企画会社の気分でいこう」などと勝手に思い込んで三木に赴いた次第です。
(まったくアド時代の心境でした(笑))
おかげでワタシのような若輩でも古谷様や山本様、荒井様ともお話ができ、かけがえのない一日を過ごすことができました。ワタシにとって、「諸氏とお話しする=財産」だと考えております。非常に光栄です。
まあ、そんなハードスケジュールでなかなかこちらに訪問できず、やっとお伺いできました。
先行して、ワタシの記述があり少々テレておりますが・・(笑)
この機会にまた今後ともよろしくお願いいたします。
 
Unknown (rfuruya1)
2007-04-30 06:13:58
こんにちは。
その節はお世話になりました。
貴島さんとのお話からいろいろと広がり、久しぶりにX-11の開発者の山田君とも電話をしたり、メールが来たりしました。
八太夫さんのことも近いうちにアップしようとと思っています。

昔話も楽しいものです。
高下さんにもお会いになったら、よろしくお伝え下さい。
 
 
こんなイベントのお陰で、山本隆くんとも、ホントに何10年ぶりで再会し、そんなお陰で NPO The Good Times を一緒に創ったり、今はその理事長を引き継いで貰ったりしているのである。

そう言う意味で、 X-11や、 貴島久裕さんは、 今の私の生き方に大きな影響を与えてくれたことになっているのだが・・・・

ご縁と言うのは、不思議なものなのである。

 

でも、多田くんがこんな写真持ってるとは知らなかった

 

この写真、Facebook の表紙に使っている。 ホンダ、ヤマハ、スズキ、BS などkawasaki 以外の親しいトモダチもいっぱいである。

『カワサキの想い出そして未来』の時の写真だが、この写真の一番右に何気なく写っているのが、貴島久裕さんである。

彼、ホントにいろんなところに顔を出すのである。

このイベントも、平井稔男さんが主催して、NPO The Good Times が支えた。

カワサキの二輪の歴史をささえた人たちが、殆どみんな集まってくれた。

そんなきっかけが、X-11であったり、貴島久裕さんだったりするのだと秘かに思っているのである。

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池田賢一さんのこと

2014-08-03 05:35:24 | 発想$感想

★もう何年になるのだろう。

池田賢一さんとの出会いは、NPO The Good Timesに、ホームページを通じて入会された時が最初である。

だから、早い時期からの、NPO The Good Times の会員さんである。

池田さん身体障害者で、車椅子なのだが、それを自分で車に積み込んで、ホントにどこにでも現れるのである。

 

つい最近までは三木の隣町の稲見町におられて、Good Times Plazaにもしょっちゅう現れていたのだが、最近来られないなと思っていたら、宝塚の方に移られたらしいのである。

それがまた、最近私が繋がった、朝来市の馬袋真紀さんのお父さんと関係があると言って、私がトモダチで繋いだら

   

 

 早速今朝の『あさごはんの会』をシェアされて上に、こんなコメントが並んだのである。

 これはひょっとしたら、池田さんのことだからいくかもしれないと私も『行くの?』とコメントしたのである。

 

   

 

そしたら、どうも行かれたようである。

そんな行動力が素晴らしい。

    

池田さんからは私宛に別にメッセージも届いた。

吉原剛史さんにもお会いになったようである。 

スタートしたばかりの『あさごはんの会』=『朝来ファンクラブ』なのだが、

そのコンセプト通り朝来以外の朝来ファンに朝来を盛り上げて欲しいのだが、その先駆けの役割を池田賢一さんが担ってくれた感じもする。

 

 

★池田さん、応援有難うございました。

NPO The Good Times はスタートから障害者の池田賢一さんに沢山の元気を貰っているのです。

 

   

 

これは第1回の有馬泉卿荘でのNPO The Good Times の新年会です。 こんなメンバーが出席しています。

 

   

 

 これは、三木のホースランドパークでの全国障害者馬術大会、一緒にいるのは『きっとウマく行く輪』の深津恭子さん、息子さんの深津類くんは、全国障害者馬術大会3連覇で、世界やオリンピックを目指しているのです。

深津さんを応援している陸井薫さんとNPO The Good Times を繋いでくれたのも池田賢一さんですし、その陸井薫さんたちのイベントにも顔を出してる

池田賢一さんなのです。

 

その陸井薫さんは既に、朝来市のキーパーソン馬袋真紀さんとはトモダチで繋がってるから、不思議なご縁を感じるし、そのお二人と池田賢一さんは繋がっている。

 

 

   

 

 

★ いよいよ5年目を迎えたNPO The Good Times ですが、

第2期は、ちょっと今までと違った形の挑戦をスタートさせることになるでしょう

その一番新しい取り組みが、朝来の『あさごはんの会』からスタートしようとしている、天空の城、竹田城址で有名な朝来市の『まちおこし』

それを『新しい公共』 『朝来の新しいイメージの創造』をNPO The Good Times は提案しようとしています。

 

それに対する朝来市の受け入れ体制と言うか、そのキーパーソンたちの動きは活発です。

そんな動きに、池田賢一さんは、わざわざ足を運んでくれての応援体制なのです。

朝来のキーパーソン馬袋真紀さんと、こんなコメントの応酬が続いています。

 

 

  

池田さん、手伝って頂いて感謝です。

朝来市のメンバー達は、その対応姿勢に熱っぽさを感じています。

どんどん前に進んで、行くのではと、私自体がワクワク感を感じています。

 

近いうちにまたお会い出来る機会があればいいですね。

 

あさごはんの会 今朝の新聞で紹介されています。

 

 

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★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★44万人フォロワーのいる公式ツイッターです。

 English Version です

 

 

 

 

 

 

 

   

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