★昭和39年1月から広告宣伝を担当するようになって、私の会社での仕事の内容も『一変した』と言っていい。
それまでの企画・管理・会議の事務局などと言う普通一般尾の仕事から、レース関係や広告代理店との対応など全く初めての仕事に対応することになったのである。
二輪車そのものがレースやツーリングなど遊びの分野で『イベント』などとも関連が深いものだから、この年以降私の二輪事業担当の中で『イベント』は大きな比率を締めたのである。
性格的に『イベント』は好きだったし、自ら企画し自ら旗を振ることが多かったので現役の間に拘わった『イベント』は数多く『想い出』いっぱいなのである。
ある意味『イベント屋』みたいなところもあって、自分で手掛けると一般のそれらとは『差別化』を図ろうとするものだから、自ずと規模も大きくなり派手で目立つようなものになっていったのである。
この年昭和39年度だけでも、大小いろいろあるのだが
● 6月には日活との映画のタイアップをすることになり、幾つもの映画にカワサキの二輪車を出演させているのである。そんなことで、日活とは親しくなり、当時スターのトップで人気絶頂の浜田光男が明石日活に来たと聞いて、その日に明石工場に来てもらうように交渉し実現したりしたのである。
明石工場にやってきた浜田光男と塚本本部長の対談をセットし、バイクに乗れるというものだから、テストコースで乗せたのだが、『浜田光男が来ている』とニュースが伝わって、発動機事業部の女子のラインが彼を見るために職場を離れてしまって製造ラインが止まってしまったりしたのである。当時の勤労部長の津田さんに怒られたが、そんなことで職場を離れる発動機のラインの長を怒ってほしいと思ったものである。
● この年10月には東京オリンピックだったのだが、その開会式当日はMCFAJの全日本MXが伊豆丸の山であってカワサキが初めて4種目中3種目に優勝するなどしたので、オリンピックには殆ど関心がなかったような熱っぽさなのである。当時は広告宣伝課で中古のヘリコプターを持っていて、各地のレースにはヘリを帯同して、空からレースを見たり撮影したりしていたのである。
● モトクロスレースも、優勝しても新聞記事などにはなりにくいので、毎日広告に働きかけて『スポーツニッポン主催の西日本モトクロス』をスタートさせたりもした。後にも先にも新聞社が主催したモトクロスは『西日本モトクロス』だけである。
第1回が和歌山の紀ノ川で11月9日に開催され草レースレベルだったがカワサキは3種目に優勝し、その結果はスポーツ新聞に大々的に報じられたのである。このレースで初めて星野一義がカワサキでデビューしているのである。この西日本モトクロスシリーズは翌年度までシリーズで開催されて、毎回新聞報道されるものだから加古川モトクロスには当時の最強クラブ城北ライダースもやって来たりしたのである。
★この年の8月のあったのが『源平芸能合戦』で私が中心に動いた最初の『イベント』だったのである。
源平芸能合戦とは当時の人気番組で、いま検索してもWikipedia にこのように現れるのである。
『源平芸能合戦』は、1957年1月9日から1964年10月31日までTBSで放送されていたバラエティ番組である。福助足袋の一社提供。
一般からの出場者たちが歌謡曲・浪曲・物真似・舞踊・奇術などを披露していた視聴者参加型番組。彼らを番組タイトル通りに源氏と平氏に見立て、2チームに分けて競わせていた。
優勝チームにはスポンサーにちなんだ「福助賞」を、応援が特に優れていたチームには「応援賞」を、(優勝の有無に関係なく)特に目立っていた出場者には「個人賞」を贈るなど、チームの勝敗だけにとらわれない様々な賞を設けていた。
本番組には、日本の有力企業や公共団体などがチームを組んで出場していた。変わったところでは、「宇宙旅行協会」×「地下資源開発協会」という団体が出場したこともある。
- 日本航空×日本郵船(放送第1回)
- 日野自動車×プリンス自動車
- 文藝春秋×新潮社
- 富士フイルム×小西六
- 朝日新聞×毎日新聞
ことの始まりは、毎日広告がやってきて、『三洋電機との対戦に出ませんか、タダで1時間番組に出れますよ』というのである。当時の上司の苧野さんに相談すると『出てみるか』と仰るので、出ることにしたのである。
簡単に出ることにしたのだが、これからだ大変だったのである。
4種目の出し物を決めねばならないのだが、当時のコーラスは抜群だったのでコーラスと、手塚部長の剣舞、岐阜のハワイアンバンドとフラダンスまでは何とかなったのだが、あとの一種目がどうにもならないのである。
困り果てて毎日広告に相談すると『吉本興業に頼んでみる』ということになって専門の演出家がやってきて、当時月へのロケットが話題になっていたのを取り上げた『かぐや姫』の物語を創ってくれて、その演技指導なども本格的にやったのである。
『タダで出来る』ということだったが、この費用だけでも大変だったのである。
この『かぐや姫』には本社人事の上路さんなどが出てくれた関係から、当時の本社総務の岩城良三部長も応援頂いたのはいいのだが、『芸人を飼ってるわけではないから芸にに負けても応援は負けられない』と連日の応援の練習で、『その残業代もパンなども出してやれ』と仰ってどんどん大きくなっていくのである。
この応援団の団長格で応援団を纏めてくれたのが元川重社長の田崎雅元さんなのである。それにフラダンスをしてくれた4人の女性を口説いて出演を決めてくれたのも田崎さんである。彼はよほど印象に残っているのか、その後も『芸能源平合戦』の話題は田崎さんとの会話の中には何度も登場するのである。
当日の三洋電機との対戦は、チームレベルの高い接戦で、両チームとも普通には出ない100点以上の高得点が出たのだが『淡路の人形浄瑠璃』などを演じた三洋電機に敗れたのである。
本番前の応援合戦の練習では、練習の成果もあって『圧倒的によかった』と思ったのだが、テレビの画面になると三洋電機の応援席の階段を縦に使って女の子が踊っている画面の方が別に揃っていなくても派手で印象深く、完全に『テレビを熟知』した三洋電機に名を成さしめたのである。
これがこの年の8月の日記の抜粋だが、ご覧になっても解るように、『源平芸能合戦』一色で明け暮れているのである。
初めてのことだったし、イベント主催の当事者とイベント参加者では全然その立場が違うことはこの『源平芸能合戦』で身に沁みって解ったことである。
当日、帰りのバスの中では『疲れ果ててしまって』バスの最後尾で寝てしまっていたのである。
★現役当時、いろんなイベントに拘わったが、『源平芸能合戦』は一番大変だった一番印象に残っているイベントなのである。
岩城良三本部長とも、いろんなことでお世話になったが、一番密接に指示も受け一緒に動いたのはこの『源平芸能合戦』なのである。
連日の応援の練習に残業料を払ったり、出演前日の応援前日には毎日放送から担当者を呼んで、練習を見て貰ったりしたので、毎日放送の担当者も、『こんなことまでした会社は初めて』と驚いていたのである。
さらに『みんなよくやったので全員に記念品を』とボールペンを贈ることにしたのである。『タダでⅠ時間番組に出れる』と気軽に出演を引き受けたのだが・・・・まあ、こんなところも『カワサキらしい』のかも知れない。
私のカワサキでのイベント、第1発目の懐かしい想い出である。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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