ライズ外伝

仕事以外の趣味のコーナーです。
主にお出かけが多いです。
ポタリングしてます。

国王神社ポタリング③

2021-09-21 | 名所



疲れたけどやっと来たといった感じ

想像していたのと少し違う

神社は伊勢神宮の傘下になっていました





平将門とはザックリいえば

朝廷に対抗して関東に独立国を創ろうとしたが

朝敵とされ成敗されてしまった人物


この地で討ちとられ京都で首を晒されたら

首だけが東京の大手町に飛んできたので伝説となる

一説によれば単なる身内争いが大事になっただけともいわれる


公家から見れば敵だけど、武士から見れば英雄

その後、源は鎌倉に幕府を開き、徳川は江戸に幕府を開く

将門は関東の武士政権のパイオニアであった


平安時代は摂関政治で天皇家より藤原家の天下

菅原家が九州に飛ばされ増々藤原の勢力が強まる

腐敗した政治体制から脱却しようと試みるも失敗に終わる

後に平清盛が『平家にあらずんば人にあらず』といわんまで政権を奪いかえしたが滅亡

鎌倉時代に源氏が政権をとったが、そののちの北条は平家

その後、室町は源氏の足利、江戸は徳川は源氏だけど松平の家康は平家系らしい

武士は明治に滅びるも、政治は薩摩と長州が握ってきた


源氏も平家も元々は皇族の出

どちらも天皇家の血筋

天皇系が政権を握ってきたのは間違いではない







森の中を入っていく神聖な感じ

紅葉や新緑が素晴らしそう

鳥居は厳島神社と似たタイプ

参道は長めだが2の鳥居はない

神社自体も細長い地形

風早神社にも似ているかも







灯篭は普通のタイプ

ピントが甘いのは森に近いので光が足りない

絶妙な光加減の境内







狛犬も特に特徴はない

耳が違う感じはする

持ち物もないタイプ







拝殿はかやぶき屋根

彫刻も特になし

神紋は九曜紋






本殿をまわる

レンズをよく拭いたがオーブが出来る

どの角度からも撮りずらい






彫刻があるも関連性がよく分からない

狛犬も小さいのがあった

うす暗いので確認が難しい

(暗いとカメラは明るく撮ろうとする)







他にもいろいろとあるも詳細がわからず



この地で将門が討たれ、娘が建てた神社

一言主神社と医王山延命寺も関連があるらしいが今回は寄れなかった

将門の『胴塚』は『神田山延命院』にある


この辺りは関東平野で海抜15mくらいの地

北東に筑波山が構える


影武者は7人いたと言われる

我孫子と柏にも将門神社があり、佐倉には将門町が存在する

大手町は首塚、神田明神も将門を祭り

将門にゆかりのある神社が北斗7星に配置されている

江戸の町の結界となっている


国王神社は奈良県にもあるが名前だけが同じだけで関連はない






帰る


帰りは県道20号で芽吹大橋まで行き

県道3号で野田の街を通り野田橋で江戸川に出て帰るルート


岩井の繁華街は『あい・モール』とあるが『センターモール』、

岩井モールとバラバラ

将門が都を創ろうとした計画はこの辺か

柏の大津の辺りか市原の方の奈良という地名の大仏の有る所






八坂公園と自然博物館にも寄れなかった

心残りが多い

常総市の方の生誕の地も行ってみたい


古代道も市川・松戸・流山・野田・岩井・結城・宇都宮の

下総国・下野国ルートがあった可能性がでた

鬼怒川が古代から重要な川だったようだ










『稲荷塚古墳』とある

古くからこの地は存在していた証明

利根川は家康の時代になってから銚子に流した人工の川


芽吹大橋を渡り野田市を走る

道が狭くトラックが多い

愛宕神社を過ぎた辺りから雨が降り出した

びしょ濡れで江戸川土手で家まで帰る



トータル80k弱

無事帰宅

おつかれさまでした
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オリパラ聖地ポタリングpart2

2021-08-26 | 名所


今回は新国立競技場方面へ

この夏は天気との闘いでもある

雨も駄目だし猛暑日も駄目だし強風日も駄目

運よく曇りの日に走れました




先ずは両国国技館から

ここはボクシングの会場になっていたのだが

前回見落としていました

すっかり会場の雰囲気はありません



江戸城経由で四谷方面へ


(武道館の坂は帰りに寄る)

四谷駅周辺に人だかり

これは何かあると勘繰る

そうか、ブルーインパルスか

国立競技場はもう隣駅

ここがべスポジかと思いきや





見えたのは右側のビルの方角

あらら

意外とあっけなく通過

移動する




迎賓館前

ここにも人だかり

もしや迎賓館の上空を飛ぶのか?


またしても右の方角から

追って行ったらビルの陰に

ま、この瞬間に立ち会えただけでも幸運かも




明治記念館前まできた

ここから先が警戒厳重

信濃町駅の方からなんとか前に出た




競技場のガードは硬い

関係者以外は近寄れない雰囲気

なんとか正面には行きたい




国立競技場の文字を見るも

金網でガード

バイオハザードのロックダウンの扉みたい



このゲートを通らないと隣のエリアには行けない

ゾンビはこの先には進めない

最終的に新コロナもこうやって街を封鎖するのかもしれない




東京体育館前まできた

千駄ヶ谷駅前だけあって人は多いけど

お巡りさんの数も多い





もしも観客アリだったら

こういう体制ではなかったのか?

無観客ならではのスタイルなんだろうか??




ここは2年前に下見に来たところ

あの時と同じく柵はひかれたまま

終わればちゃんと見れるのだろうか




なんとなく正面の方に来た雰囲気

仙寿院

なかなか近くには寄れない




遠くの方に垂れ幕が見えた

パラリンピックのシンボルマークは見えず

『スリーアギトス』というそうです


通りでブルーインパルスのは五輪じゃないはずでした

この先は会場から離れていく

青山通りに出て帰る

3時を過ぎると更に警戒は厳重、通行禁止エリアが増えた




帰りに武道館に寄ろうも

通行禁止になっていた

外から玉ねぎを一枚撮る


なんだかんだ70k弱コース

久しぶりなので疲れました

まだ競技開催中ですが今年の夏の想い出を満喫


終わったらもう一度廻ってみたいと思います

では
















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オリパラ聖地ポタリングpart1

2021-08-11 | 名所



今回はオリンピック会場を回ってきました

オリンピックは無観客での開催

なので会場の中には入れません

外から覗く程度

それでも自国開催のムードは味わえました

街は警官だらけ

世界イベント開催中って感じです

スカイツリーから三つ目通りを南に進む



先ずは辰巳のアクアティクスセンターから


あれ?一年前に完成しているのにまだ工事中?

会場の周りは工事現場で見かける鉄の板に覆われている

入口は限られた場所だけ


自衛隊の人も待機していた

最寄りの駅は辰巳駅

もう一つ会場があったが近寄れず


357でお台場方面へ向かう


途中で雨が降り高速道路の下で雨宿り

暑くなくていいくらいのコンディションに

『有明コロシアム』と思ったが当たりの様子がなんか違う

開催中というより工事中な感じ


お台場到着


海岸沿いに行ったらやはりガードされていた

自由の女神なのになんか不自由

ドローンの上空カメラが見えるので会場はあの辺




隙間から少し見えた

なかなかいい感じ

お台場の海を泳ぐなんて




お台場の街自体もレースの会場になっていた

朝早くから道端で観戦してた人は凄い

近所の人かな??




ここまで来たらガンダムを見て帰ろうと思ったが

入口が見当たらない

センタープロムナードどから偶然に入れた

何度か諦めかけたけど諦めないでよかった


ロッククライミングの会場があった

以前は広い駐車場だった所

仮設スタジアム




念願のガンダム

後ろのビルの入り口の階段が綺麗

いろな色に変わるのだ




出口はやはり入ってきた方

他にもあるのかと進んでみたら

聖火があった




まったく情報なしに行ったので

こういった出逢いに感激

あの開会式のやつや

(水素で燃えているとのこと)


余韻を後に豊洲エリアへ



よく分からなかったがスケートボート会場

有明のエリアにあった

この辺も風景が変わり土地勘が鈍る




BMX会場

中が見えないので看板から判断

スケボーとMBXは日本の文化になりつつある




有明体操競技場

体操は東京体育館かと思っていたけど

体操だけの体育館が出来たなんて




有明アリーナ

バレーボールの会場

有明にこんなに会場が多かったとは


豊洲の選手村にも行きたかったのだが

体力的にも限界が来た


2020東京オリンピック

一年延期しての開催

コロナは今だ収束の気配なし






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古代道考察(隅田編)

2021-07-22 | 名所


前回、墨田区を周って取り残した寺院を回収しに行ったら

新たな発見がありました

『下の道(しも)』という鎌倉街道の一つ

今の『墨堤通り』より少し隣の道





古代東海道は奈良時代と平安時代に設定された道で

『下の道』は鎌倉時代に設定した道で古代東海道と同じだったのかが疑問

品川から『墨田宿』まで来ていたのはほぼ確定的


この次の道が市川に行ったのか?松戸に行ったのか?それとも草加か?

鎌倉時代になると武士政権なので鎌倉を中心とした新しい道を源頼朝が造った

鎌倉道は『いざ鎌倉』というように主従関係を結んだ武士が鎌倉に駆け付けるように設定

基本は上中下と3本ではあるが支道をい入れるといろんなところに名残が残っている

多く残っているのが混乱の元でもある





墨田宿とは、墨田神社周辺にあったとされる宿(1180年に頼朝が布陣した地)

『驛』とは書いていないけど、宿と駅は同じに思うけどどうだろう?

ここを拠点に『下総国府』と『武蔵国府』を繋ぐ官道があったとされる

軍事的にも重要な地点

江戸の名の由来はこの辺だと言われる






これが古代東海道

下総国府の市川からここまではかなり確定されているが

ここから武蔵国府の府中に行く道が謎


北区の王子の方の『平塚神社』を通ったとされるが定かではない

隅田宿の次は北千住の『元宿』ではないかと推測される

またここから足立区の『大鷲神社』へ行く道もあったとも


武蔵国が東海道に編入されてから道は変更している

初期の東海道は武蔵国府は通らないルート

その後に武蔵国府と下総国府を結ぶ道が出来た

この隅田宿は古東海道の驛ではない

古東海道の驛は武蔵と下総に2驛があるのだが未だ場所が特定されていない

下総と常陸を結ぶ道も驛も今だに不明






基本的に古代官道は『直線』と言われる

でもあの時代真っすぐな道を造るのは難しいと思われる

そして平安時代の役人が古代東海道を使っていたとなると

松戸は通っていなかったことになる

通ったとなるともう一つ道はあったことになる





それは道ではなく水路と思われる

『古隅田川』

江戸時代初期にあるけどその前の時代から使っていたと思う





宿と驛の名残もある

『新宿』はそれに対して新しく設けられたと推測

源氏が通った道が鎌倉街道になっている所が多い

八幡神社は源氏にゆかりがあるのが多い





そして『宿』の近所には『城』が設けられているのも特徴

石浜城は隅田川の対岸の下流で

新宿には環七の方に葛西城があり

松戸宿には松戸城があり、小金宿には根木内城と小金城があった

街道沿いに城を構えるのはこの石浜城と根木内城

砦とか館はお城の前身でもある

天守閣の有る城は信長の時代からが通説





隅田宿は『水神の森』と呼ばれ重要な拠点だったけど

家康の構想には入っていなかった

北千住に宿を持って行って五街道を整えた

昔の水戸街道は千住から松戸のルートで水戸へ






毘沙門天を祭る『多聞寺』も元は水神の森にあったのだが

鐘が渕の方に移転させられた

『水』の神紋が共通している

しかし毘沙門天と言ったら北を守り『虎』が置かれるんだけど

ここは『狸』

狸の妖怪がいて供養したとのこと


新宿区神楽坂の善国寺、港区芝の正伝寺、台東区東浅草の正法寺が「江戸の三大毘沙門」

栃木県足利にある大岩山が日本3大毘沙門天の一つ



下総国には、相馬御厨・夏見御厨・葛西猿俣御厨・遠山形御厨 ・萱田神保御厨の名が記されており

官道はそこを結ぶ道であり、驛と宿も近くにあると思うのだが

そうでもなさそう・・・


家康が関東に来た時と今は全然違うけど

それ以前ももっと地形が違っていたかもしれないが

平安時代の神社や鎌倉時代の寺は変わらず残っている

人が存在していたのは間違いない


大和朝廷の時代は東国は鹿島と香取神社の辺りまでだったという
.
平安時代にはは平泉まで制圧し

源頼朝が東北を制圧し征夷大将軍になる

その時に使った道が官道

東北を制圧した時は川から上陸したと言われる

水運が当時から主だったと思う


古代官道が見つからないのは

関東の道は水路だったと思う

川は形を変え消えてしまう事もある

川沿いに道を造る

湿地帯の多い関東ならではの事情だったと思う

倭寇は海賊

道より船で移動する民族

































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下総国府ポタリング

2021-02-18 | 名所


今回は時を戻して

奈良時代の府中を散策してきました

下総国の中心地は今の市川市国府台

松戸はその隣にあります





市川の国府台は下総台地のヘリに位置していて

当時は遠浅の東京湾の海沿いに面していたといわれます

江戸川も『太日川』という呼び名で渡良瀬川の方まで続いていたようです

向いの小岩や柴又は大嶋郷と呼ばれ島のような地域で家康が来るまでは湿地帯のようでした


周辺には貝塚や古墳があるので古くから人は住んでいました

国府になっているということは大和朝廷の傘下になったということです

総国は元々は一つで上総(かずさ)と下総(しもうさ)に分割され統治されたようです


先ずは里見公園から


東京が一望できます

富士山・スカイツリー・都庁・東京タワーまで見えます

絶景




東京タワーや日テレのビルまで見えるけど

大昔は『富士山』しか見えなくて戦国時代は江戸城が見えたのかな?

江戸城も最初の頃は海岸沿いにあったようです




戦国時代は『国府台城』がありました

武士社会になり市川の国府は消滅したもよう

国府台城も江戸時代になると廃城


小説の里見八犬伝には市川の行徳出身のキャラがいた設定になってます(犬田小文吾)

他にも古墳があったり市川市で一番標高の高い場所もあります(24m)

お城と言ってもこの時代は館と砦が合わさったイメージです


県道1号へ


国府台で有名なのがこの『辻切り』

村と村の境目に飾られます

一般的には庚申塔や青面金剛が配置されているのが多いですが

松戸市との境目に多く見かけられる


スポーツセンターへ


『下総総社』です

ここが行政の中心地府中!

下総国の『首都』だったところ国庁


野球場と陸上競技場の間にあります

幕末までは『六所神社』が祀られて明治19年に須和田に移転しました

その後は軍の施設になっていたようです


なんかリスペクトが無さすぎ・・・

当時は神仏習合だったけどどこと習合してたんだろう

神社だけとか寺だけとか、習合していないのもあったのかな?


ここから南に坂を下っていくと


『国府神社(こくふ)』があります

昔は『鳳凰大明神』と呼ばれ今は日本武尊を祭ってます

1087年創建とかなり古いが、古地図には稲荷社と明記

(日本武尊伝のある神社は真実かどうかは不明が多い)




かなり急な階段を上がり、狛犬が個性的

灯篭の『逆さ∴』も必見

名前からしてこっちの方が中心地なんだと思っていました

コウノトリの嘴をご神体にしていたともいわれます


坂を下ると真間


日蓮宗真間山弘法寺(ぐほん)

奈良時代の頃からあり平安時代は真言宗になり鎌倉時代には日蓮種に改宗されたもよう

市川が国府になる前からあったようです

境内には前方円古墳もあり豪族も存在していた地

真間の手児奈の話が有名




本殿は綺麗で新らしい

山門が唯一歴史を感じる古さがる

灯篭の龍がよかった


階段はきつい

涙石は見つけられなかった

階段以外のルートもある



須和田へ


六所神社はここに移転

なんだろうこの軽さは

普通の神社でしかない




景行天皇の時代だから西暦72年ころになるんだけど

卑弥呼より前の時代になってしまう

ヤマトタケルは本当にこの地に寄ったのでしょうか?

伊能忠敬じゃないけど別のグループが寄って制圧したけど

手柄はヤマトタケルみたいな感じかな


(六神のうち天照ではなく大己貴尊(大国主)なのも気にはなる)



国分寺へ


途中気になる神社を発見

日枝神社でした(隣は真言宗竜珠院)

元々は神仏習合系の寺院




日枝神社と言えば鬼門に配置され

猿の狛犬なんだけど普通の狛犬でした


気になる情報は『船みこし』

大杉神社系の信仰で松戸の方では『アンバ様』と呼ばれている

内容的には一緒で悪病払い、大杉様の面は天狗といわれる

大杉神社は海河守護の神様としての信仰はされる

(市川周辺に金毘羅さんなどの海河守護系の神社が少ない気がする)




ここから南西に向かうと


下総国分寺

741年『国分寺建立の詔』

この時代、仏教の力で国を鎮め護ろうとしたのでした(鎮護国家)

大仏などを造り、当時の『流行り病』をおさえようとしたのでした




全体的にはかなり広かった感じ

総社から『近すぎず、遠すぎず』といった条件でこの地に創建

さっきの日枝神社は鬼門位置し、総社は西に位置する




国分寺は一国一寺と定められた

しかし平安末期には衰退

朝廷の政権から武士政権になり僧侶の勢力も衰える


隣の宝珠院へ


なぜかヤカン

河童の頭など謎多き寺

江戸時代初期創建で薬師如来




北に行くとまだ敷地の名残がある

市川市のこの辺の道は狭い

平城京のような街にしたかったらしいが



尼寺(にじ)へ


下総国分尼寺跡

公園になっています

総社からは鬼門に位置する

この景色から想像できません

本来は平城京のように碁盤の目にするようでしたが名残なし


周辺の稲越と鬼越の地名がこの辺りと関連があるのか気になる

鬼高や鬼越などなぜ鬼がつくのだろう?

「鬼越(おにごえ)」は鬼が出没するので鬼子居(おにごい)と呼ばれ、「高石神(たかいしがみ)」は石器時代の遺物・石棒を祭っている高石神社に由来する。 とのこと


他に気になったのは市川は香取神社が少ないコト

行徳にはあるけど、松戸市は多い

葛飾八幡宮は下総国総鎮守とされている

下総の一の宮は香取神宮

延喜式だと葛飾郡は茂呂神社と意富比神社になる


未だに理解できていないのが『土地』の話

土地は個人のモノだけど支配者のモノ?

今も昔もだけど自分のモノだけど税金がかかるなら『借り』ているようなもの

借りていればいるで賃貸料がかかるみたいな


単純に天下を取れば全部自分のモノみたいになるけど

土地の持ち主からお金(税)を巻き上げる権利を持つみたいな

民主主義とか資本主義じゃない時代は今とは同じではないかも

班田収授法の租庸調なんかもみんなが払うものなのか?

当時は貴族とか皇族は払わなかったのかな?のちの武士も

米や布や貨幣を払うのだが庶民だけが払っているのかが謎

統治している側は貰っているだけのイメージだ


下総国の税は国府に集められそれを朝廷に送っているとなると

どのように分配されていたんだろうか

参考書を読んでも難しい言葉で煙に巻かれている感じ

内容より専門用語に意識がいってしまうみたいな


日本には奴隷はいなかったとなるけど

下人なんかは奴隷みたいな生活ではなかったのかな

当時は朝廷の支配下になった捕虜は『俘囚』なんて呼ばれていました

現代よりは不公平で不平等な時代だったと思う


そんな下総の中心地

下総国府でした













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稲荷の中に稲荷

2020-12-11 | 名所


名前が三囲神社(みめぐり)なので稲荷神社ではないと思っていたけど

御祭神が 『宇迦御魂之命』なので稲荷神社系

商人の三井家と関連がある神社で有名です

商売繁盛なのでお稲荷さんなのですが

稲荷神社の中にもう一つ稲荷神社があるという疑問

(金町の半田稲荷もそんな感じ)

ちょっと探索




鳥居を省略しましたが拝殿まで3つあります

弘法大師が祀ったのが最初らしいので元神仏習合系な感じ

元々は現在の地より北にあったようです




個人的にはこの珍しい鳥居を見に来たのが最初のきっかけです

この3つの鳥居が合わさっているのが凄いです

そこに井戸

井戸はあの世とこの世の出入り口とも言われます

単純に3つで囲った井戸だから『三井』

近江の三井寺から持って来たらしいです




三井と言ったら三越デパート

三越とは三井家の越後屋さんが両替屋と呉服屋を合わせてできた店名

日本3大財閥の一人者でライオンをシンボルとする(?)




入口に普通の狛犬があるのでこの『コンコンさん』はライオンと同じく特注と思っていました

コンコンさんは目尻が垂れているのが特徴だが

狐はつり目で狸が垂れ目なイメージなんだけど

商売的には垂れ目の温厚な表情が繁盛しそう






今回気が付いたのが本殿の屋根に狐さんがいたのでした

これは間違いなく田中稲荷神社

拝殿の屋根には無かったが・・・



不思議なのがここから


脇に『三圍神社(みめぐり)』があるのです

行ってみると狐さんが沢山いました

お稲荷さんじゃん





その隣には『白狐祠』

同じく狐さんが沢山

名が分からないお稲荷さんも真ん中にある

間違いなく稲荷系





その真ん中にこの神社名の寄らいでもある老夫婦像

狐を呼べるのはここの婆さんだけとか

本殿のお稲荷さんと白狐は別物なのか?

かぶっているとしか思えないんだけど





灯篭にも狐さん

狛犬とか龍が多いんですけど

狐信仰色が強い




他にもいろいろとあるんですけど

稲荷神社の中にお稲荷さんがある意味がよく分かりません

あえて3つの稲荷にこだわっているのかな?


三圍社の中に三囲神社があったのもなんでだろ?

本殿に祭られているのが実は違うからなのかな?

日本3大稲荷がここに集合していたりして???

真実は如何に?


ちなみに
日本橋三越本店から鬼門の方角に鎮座しているのも凄いです












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三匹の獅子舞考察ポタリング(松戸市編)

2020-08-24 | 名所


三匹の獅子舞とは

『市内大橋・和名ヶ谷・上本郷の3地区に伝承されている獅子舞は、五穀豊穣ごこくほうじょうと悪霊退散を祈る行事として行われてきたものですが、その起源と由来は判っていません。僅かに日枝(ひえ)神社に関して、天明年間に地震と飢饉があった際に、この地の代官が神輿と共に獅子舞を奉納したという伝承が残されているのみです。獅子舞は三匹の獅子、太鼓、笛などで構成されています』

今の所、日枝神社から各地方に伝波したのが通説

隣接する柏市や三郷市、柴又にもあるが、市川市国府台はなくなったらしい

松戸市内に4か所もあるのは珍しい(何か意味があるのか?)

松戸市内に集中している謎を調査

主に関東地方で行われている祭り行事です



まずは和名ヶ谷の日枝神社から


敷地が広く、参道がかなり長いけど、鳥居は普通サイズ

普通は『山王鳥居』なのだが明神鳥居


日枝神社といえば山王様とよばれ、鬼門除けであったりする

狛犬が『猿』になっているのが赤坂日枝神社スタイル

赤坂日枝神社は江戸城の鬼門除けとして配置された

ここは関連や共通点はなさそう(松戸市自体江戸より鬼門に位置する)






ここから上本郷と市川に伝承したと記されている

市川になくなったのは『猿』の役をした人が不運になるからやめたらしい

松戸と市川の市境で『辻切』が残っているのももしかしたらでもある







灯篭が不自然だけど、獅子の彫り物がある

牡丹が描かれているので『唐獅牡丹』

獅子へのリスペクト感が高まる






神社の神紋は赤坂の日枝神社と同じ『二つ蔓葵 (ふたつつるあおい)』

『大山咋神(おおやまくいのかみ)』を祭る

大山咋神は素戔嗚尊の孫にあたる出雲系

猿が見当たらない

猿は『魔(ま)去(さ)る』『勝(まさる)』『猿(えん)=縁(えん)』






狛犬が足にしているモノが謎

一般的には毬と子獅子なのだが

拝殿には獅子や龍の彫刻もない


祭りは
『親獅子・女獅子・中獅子・猿・笛吹』で構成される

これは神社によって呼び名が違う

なんでだろう?

この3匹の関係は如何に













大橋へ


『大橋胡禄神社」


元々は第六天社で本源寺と習合していた模様

日枝神社と同じく参道が長く山の上に鎮座する

裏の高台からも入れる地形にある


ここは、『先獅子・中獅子・後獅子・猿・歌い手・笛吹き』

先中後の呼び名と歌い手が異なる

ここでは猿役が安産・良縁の役であるとされる


ちなみに狛犬は、子獅子が安産で毬が良縁と言われている









大橋胡禄神社は『面足尊』が祭られ、神紋は三つ巴


さすがに狛犬が多い

『毬』と『子獅子』を抱えるスタイル

四頭に囲まれる

しし






屋根にも、拝殿も彫り物がある

猿は見当たらない

社務殿には鶴の彫り物





本殿には彫りの浅い狛犬が置かれている

こういうタイプはかなり古く江戸初期のモノといわれる

技術と共によりリアルな作品となってゆくのである




ここは狛犬の他に灯篭が見どころ

『∴』が一般的だが『∵』が多い

こんなに多いのは今の所ナンバーワンです











上本郷へ



『風早神社』

ここも参道が長いく、元から高台に鎮座している


ここは『大獅子・女獅子・中獅子・猿2人・笛吹』の構成

和名ヶ谷から養子の人が伝えたとあるが、構成に若干の違いがある

和名ヶ谷より舞は勇壮とのこと




狛犬は『獅山スタイル』

子獅子が崖を登る感じが好きです

間違いなく両方とも獅子




創建は平安時代で、将門の子孫の孫の館だった所に建てられたとのこと

ここは荘園制度の風早荘の中心地

香取神社と同じ『経津主神(ふつぬしのかみ)』を祭る

神紋は『三つ巴』





屋根まで狛犬

しかし拝殿は彫刻もなく、風格に欠ける


ここは「惣台」という小字であり、室町時代は惣村の中心地のはずなのだが・・

敗者になったのかな?

時代が変われば県庁所在地も変わる

風早という地名は柏市の方に残る





末社にも狛犬が配置されている

ここが一番狛犬の数が多いかも(子獅子をふくむ)

本殿の彫刻は『象』でした(見かけない小さいタイプ)

(象は江戸時代初期に日本にきて18年間、浜離宮で育てたとのこと)









隣の明治神社へ


明治神宮以外に明治の名が付くのにビックリする

明治天皇を祭っているのではなく『国常立命』が御祭神

元々は『妙見神社』で妙見菩薩を祭っていたのだが

神仏分離で改正される

(明治神宮は明治天皇が亡くなってからできたので、こっちの方が先に明治を使用)


妙見神社は隣の中根と紙敷に鎮座している


この明治神社は火事でなくなり新しく立て替えられた




ちなみに、三匹の獅子舞の獅子のイメージは上の写真

狛犬の獅子とは似ていない


妙見菩薩のイメージは下の写真

『亀』の上に乗っているのが特徴

北極星・北斗七星を司どる





狛犬は何も持たないタイプ

阿吽も普通

この2体のみ





拝殿に彫刻は無く、『三つ巴』の神紋

金箔が貼られ豪華なイメージ

北を背にし鳥居も2の鳥居まであり王道派

境内の端にカエルの置物が気になった程度




ここは縄文時代からあるとなると『神聖な地』なのは間違いない

でも獅子舞ぽさが弱い

三匹の獅子舞の構成は風早神社と同じのようです

同じ地区に2つあるのかが謎





まとめ



明治神社は元は妙見社で千葉氏とゆかりがあり

風早神社も千葉氏ゆかりなので元は一緒なはず

馬橋萬満寺も元は千葉氏ゆかりなのか狛犬の彫刻は多い

隣の王子神社も狛犬が多いのはの『千葉氏』がキーワードかも

中根の妙見神社も亀ではなく狛犬を置くが、紙敷の妙見神社は置かれていない

3匹は『平・風早・千葉』を表しているのか?



胡禄神社は元は『第六天魔王』

隣の日蓮宗本源寺と関連ある記述もある

本源寺は武田二十四将の一人『秋山虎康』にゆかりがある

武田の血をひくものでその子が小金城に武田の姓を名乗り就任した

この『徳川・秋山・武田』の関連を獅子舞にしたと個人的に推測している


日枝神社は特に改正された記述はないが

隣の『本法寺』が今回の中での大発見

元は『通源寺』で807年の創建で市内最古なのでした

鎌倉時代に真言宗⇒天台宗から日蓮宗に改宗し『本法寺』となる

通源寺の小字名は今も日枝神社の西側に残っている

日枝神社は『山宮地』で、本法寺は『中台』

元は『如来堂』から今の地に移転したとのこと




如来堂は、国府台の合戦の時に北条軍に焼かれて今の地に移転

その時に『里見軍の陣』がこの寺にあったのだ

里見公園だけでなく松戸市内も里見軍に盗られていた陣があったとはまさに戦国時代

三匹は『北条・里見・高城』の関係を表しているのかも

狭間に領地を持つ武将はどっちに付くか大変らしい


前回の秋山の天照のように国分川沿いは重要な地だったような気がします




では





















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赤城神社考察ポタリング

2020-07-18 | 名所
7年前にも一度調べたのですが

今回は知識と見るポイントがちょっと違います

前回の見落としも回収

でもまだまだ見落としや勘違いもあるのかも





1つの市の名前の由来となった神社

本当に山が流れてきたのだろうか?

やっぱお札が流れてきた説が自然

でも実際のところどうなんだろう?


赤城神社は松戸市と柏市にもある

千葉県はこの地域に集中しているのも特徴

茂呂神社のように、上野国(群馬)の方からこの地に移住してきたのか?


総社の群馬県の赤城神社は『山』と『沼』をご神体とする古代神道系

806年創建、880年に正一位に昇格

江戸時代には徳川家の保護を受ける

とくに噴火して損害にあった情報は無し


赤城山という単体の山は存在せず、黒檜山を主峰に、駒ヶ岳、地蔵岳、長七郎山、荒山、鍋割山、鈴ヶ岳などを総じて『赤城山』と呼ぶ

上毛3山の一つで百名山、上毛三社(榛名神社・赤城神社・妙義神社)


赤城山には

山頂と沼に「大洞赤城神社」

山腹に『三夜沢赤城神社』

山麓に『二宮赤城神社』の赤城神社が存在する

近くには、前方後円古墳もあり、早期から大和との関係がうかがえる





まずは流山から



祭神は『大己貴命(おおむなちのみこと)』

沼にある大洞赤城神社は赤城大明神なので

山腹の『三夜沢赤城神社』『二宮赤城神社』と一致する

大己貴命は大国主と同一で出雲系の神

太いしめ縄は出雲大社を連想する




人工的に造ったかのような山は『赤城山』15m

これが流れてきたという伝説の山

この山に生えている草木は天然記念物


本殿は山頂にある

階段ではない山道も脇にある

山麓にはお寺があり神仏習合系でした




山頂で狛犬がお出迎え

筆先のような尻尾からすると『出雲タイプ』

左右同じような口の閉じ具合






新しいタイプは、阿吽が逆

本来は、向かって右が開いて左が閉じてい

新しいのは岡崎タイプが多い

この逆にする意味が知りたい

(神仏分離への反抗だろうか?)







拝殿はこんな感じ

彫り物がほとんどない

建物の中に本殿が祭られている


本殿の方は江戸時代のモノで重要文化財級

神紋は三つ巴だが、徳川の葵が残っている

『桐・菊・葵』は総社の神紋


明治維新の頃、幕府側の近藤勇が流山にきて戦う

その時新選組の隊がここの寺で宿泊していたとのこと

流山は旧幕府の天領地





雨桶にある紋章はなんだろか?

流鉄の社章でした


そして、大体の神社で観られる『龍』もこの手水舎のみ

このタイプも珍しい





他に珍しいのはこの石像

正体不明だが『狐』の可能性が高い

行事の中で2月14日に『稲荷奉謝』があるから

でも、狐には見えない

新種かも





この山の中腹には『馬頭観音』もある

気になったのはこの石造

大黒天と言われるが、笑っていないし木槌を持っていない

ご本尊がここにある訳がないと、大黒天=大国主=大己貴命ではない

何者だ??





その他、摂社には『水神宮』と『松尾神社』がある

末社も多数あり(平成25年に火事、大黒様がだけが焼け残る)

郷社だけあって色々配置されている


水神宮の狛犬は王道の組み合わせ

水神といったら蛇か龍なんだけど、狛犬にも火防の力があるらしい

川沿いで水運の町でもある

松尾様はお酒の神様(白みりんと関連ありそう)



♦本殿は西北の方を向いているので、群馬は意識しているように思える











幸谷へ


新松戸の駅の裏だけど地域は幸谷(こうや)

新松戸も元は小金で地形が変則的に存在している

朱色は本社の赤城神社と同じ

拝殿にはちゃんと龍の彫刻がある

だけど、流山とは造りが違う


古地図には北の方に溜池がある

鉄道の開通にともない移転したもよう

周りには高台があるが低地に配置されている


本殿は南向き

参道が不自然





気になるのは入口

東南と北西の位置に裏表がある

本殿は南に面しているも変則

木の下にある石も気になるが情報がない

街と孤立している感じがする


でもあえてだとしたら?

アレはここに埋めていたのかも??






他には、天神様の俳句

菅原道真との関連は?飛梅

それとも暗号か?


狐の石像を見つけるもお稲荷さんの関連が見えない

でも幸谷地区の神社はここだけ

ここのルーツは上毛人系なんだろか

隣の福昌寺には『赤い達磨さん』のオブジェがある

この地域は群馬ぽく思える





狛犬は新しい岡崎タイプの阿吽型

特に変わったことはない






旧タイプは子獅子を抱えるタイプ

しかも両方

子孫繁栄を意味し、流山の分家ではない感じ

でも同じく祭神は大己貴命

神紋は『三つ巴』

ここは『菊』であってほしかった


鳥居が厳島神社タイプ

『1589年 三夜沢赤城神社より勧請創建』との情報あり

大洞赤城神社の大沼には厳島神社を招致している


三夜沢赤城神社は山の中腹

頂上にあるよりは山を崇拝している感じがする



♦流山の赤城神社と幸谷の赤城神社を結ぶライン

武蔵野線と流鉄もそのラインに沿って走っている

このラインは群馬の方に向かっている



















柏へ


ここも西に面している神社

山というより崖に面している

山頂は高台にあり民家がある




正面は低地だが、裏の高台からも入れる

赤城山に向いているのか?西北には向いている

弁天様も祭られている




拝殿は幸谷と同じく朱色だけど同色ではない

神紋は『桐』

群馬と同じだ

しかし流山と同じく龍はいない





狛犬は毬と子犬のスタイル(岡崎タイプ)

狛犬の向かって右は獅子なので子を持つのが多いが毬

三社三用

全く同じ狛犬はいなかった


♦どの神社も2つまでは同じだが3つ目が共通しない










そして



都市伝説ファンとして気になるのは、『赤城神社境内神代文字の碑』

今回廻った所には無かったが流山市の浅間神社の富士塚に違うタイプの神代文字の碑があるのです

これが認定されると『文字を持たなかった日本人説』が覆されます

大和朝廷は持たないで、地方の豪族は持っていたみたいな

しかもハングル文字は日本が発祥となると都合が悪くなる

ともに明治時代の碑だから信憑性が低いが

リニューアルしたモノとなるとロマンは広がる


対馬の『阿比留(あびる)』家といえば

松戸市周辺にも『安蒜(あんびる)』家が多く存在している

対馬・・群馬・相馬・馬橋

なんか強引だけど関連がありそうな



余談ですが、赤城山と言ったら埋蔵金伝説

暗号が道真公名句だとすれば

横読みで『東に梅主春』

東に埋めスバル

東に埋めし、すめる

統べるは『統一者』を示す


スダジイといえばドングリ⇒小栗

木に石が積んであるのは不自然でしょ

見え見え過ぎると怪しい


ヨユレノコヒマ
シヱルナロトナ

これは文字の意味より、文字の解読ヒント

母音と子音に分けるとアイウエオ表ができる

アカサタナとアイウエオの組み合わせで一文字になる

イロハニホヘトじゃないので神代文字ではないと思う

(浅間神社のはヒフミヨイムナヤコトで数字を示した)


新選組がなぜ流山に行ったのか?

小栗上野介が隠した埋蔵金を回収しに行ったと思う(軍資金)

しかしなかったので断念、近藤勇が自首している間に仲間を逃がす


水運で運ぶとしたら、江戸川、利根川ルート

陸路をダミーにしたり3つに分散して運んだと思われる


『幸谷に住んでいた自分の祖母から、天皇自らが、陸軍を率いて赤城神社あたりから何かを掘り出して行ったと聞いたことがあります。
村の人みんな生き神様がいらっしゃるんで、神様を直視すると、目が瞑れると、信じ混まされていて、全員兵隊さんに目隠しされたとききましたし、箝口令もしかれたと。これ、埋蔵金だったんじゃないでしょうか?
終戦ちょっとまえの出来事らしいです。』

7年前に頂いたコメント

鉄類を持って行かれたと思うがM資金にも思われる

ロマンは続く









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秋山考察ポタリング

2020-06-26 | 名所



今回は以前から気になっていた松戸市秋山にある

『天照大神』について調査

地図には『天照天神』と記されているが

昔の地図にはちゃんと『天照大神』とフルネームで記されていた


多いのは「宮の前」とか「観音下」「稲荷」「天王脇」「第六天」「天神」など

伊勢神宮と神明社以外で天照の名があるのが気になるポイント


現地に行ったら手がかりはこの『秋山天神公園(天照公園)」のみ

天神様は「菅原道真」のことで、天満宮と天神社で祭られているのが一般的

しかし、天津神(天孫降臨系)を略して天神と呼ぶ場合もあるとか

国津神(出雲系)ではないという表しでもあるのか?

(天神山古墳というのもそっち系という意味なのかも)


付属学校の『聖徳』の名も「しょうとく」ではなく「せいとく」なのだ

地名を頼りに周辺を散策



まずは秋山の核心の「慶国寺」へ


『長秋山慶国寺』


1262年創建の日蓮宗だが真言宗からの改宗

隣の春日神社と一直線に繋がっているのが特徴

ここは「郷」という地名がある

本郷とか上本郷とかは地域の中心地であることが多い

『郷に入れば郷に従え』というように郷は重要な起点を示す

が、特に手掛かりなし

『子安鬼子母尊神』と『七面大明神』を安置する


【追記】真言宗は大日如来で神仏習合時代は天照大神と同一とされていました



向いの『春日神社』へ




3の鳥居まである長い参道

『八柱村秋山』とある

明治維新後に八つの村の合併があり八柱村が誕生

字秋山小字神宿で、江戸時代には秋山村として存在

神仏分離と色々とあった時代だが秋山由来がはっきりしていない

大橋の秋山虎康の名からなのか?隣の稲越のイメージから

『豊葦原千五百秋水穂国」(とよあしはらの ちいおあきのみずほのくに)』の秋の字なのか?


木像の鳥居は厳島神社タイプとみる、朱色ではないが年代はありそう





総本山は奈良の三笠山(春日山・若草山)

768年に社殿を創建

武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様、経津主命(フツヌシノミコト)様、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)様、比売神(ヒメガミ)様を祭る

有名な『鹿』は鹿島神宮から送れれたものといわれる

「神紋」は『藤』だが、『下り藤』が本家本元

春日大社は藤原家の氏神様(中臣)

藤原氏といったら摂関政治

天皇に代わって政治を行っていた一族

ひょっとすると天照大神はこの藤原氏に乗っ取られてしまったのか?






右脇に『天照皇大神宮』が祭られていた

ここの地名は『神宿』

メインは春日神社だけど天照の宿なのかもしれない

しかし春日大社は鹿島神宮との関係が強いのだが

境内には鹿が見受けられない・・・


直観的には天照大神をここに移転したのだと思った

同じ地域で同じ神を2柱は祭らないとは思う

石碑には「奈良の春日大社の大神を奉祀』と記されている





ここの狛犬は、しっぽが2つあるとのこと

調べてみると狛犬も色んな種類がいる

時代によって流行やスタイルが違うらしい

個人的には春日神社は『鹿』であってほしい






聖徳大付属の方へ



小学校の敷地内に残る『厳島神社』

平清盛にゆかりのある神社

地名では『弁天』の名が残っている

本来は弁財天のミニチュアなはずのに布袋天がある




本来は水神系は龍か蛇か亀なんだがけど

カッパって、

ここは春日神社の管轄

先ほどの木像の鳥居はここと関連ありそう





東の高塚新田へ



『高塚八幡宮』

応神天皇( 誉田別命))を祭る天皇系の神社

八幡宮は源氏にもゆかりがある



天照の公園からちょうど東に位置する

参道は長く平坦だが高塚地域自体が高台にある

河原塚同様に塚が付く地名は古墳や墓地だった場合が多い






灯篭が『∵』

片方は損傷

日蓮宗と習合していたもよう





春日神社と似たようなタイプで

やはり尻尾が2つに割れている

口の開き方が中途半端、唐獅子タイプと思われる


脇に天満宮がある(これが天神さま)

末社が南を向き、本殿は東向き

秋山とのからみはなさそう


南の稲越方面へ



市川市稲越町の『厳島神社』

古地図には「辯天祠」と表記

天照の公園からは南に位置する

稲越の稲は伊勢神宮(天照)みたいなイメージがあるけど

『稲荷神社』が見つからなかった


稲越町は下総国分寺の鬼門の位置にあたるのだが

この神社の神紋は『三つ鱗』

『北条家』の家紋と同じ

上野の不忍池と柏の布施弁天でも見受けられる

その他の情報なし



近くの寺へ




日蓮宗の『安穏寺』

個人宅ぽく情報を得られず

坂の上の方に墓地と『馬頭観音』があった程度



東の方へ



見落としやすい場所だが、また『弁財宮』

脇に水神様が祭られている

市川市『堀之内』

この周辺は『堀込』などの『堀』の付く地名が多い

川の周辺だけに弁天様は多い

天照公園の西に位置する





北上する



坂を上がると市川市堀之内の『伊弉諾神社』

古地図には「権現祠」と表記

伊弉諾と言えば天照の親にあたるも

徳川家康も祭られていたらしいので東照宮

神仏分離で伊弉諾神社になったらしい


北西の角地にあり、入口が不自然

北が入口になっていて西を背にする

やはり明治維新後になんかあったみたいだ


方角的には春日神社の西に位置する





狛犬は四体あり、古いのは本殿の前に飾られている

春日八幡と同様に尻尾が2つに割れているタイプ


新しいのは口を大きく開け毬を持つタイプ

尻尾は一本立っている

新しい狛犬は愛知県の岡崎タイプが多いらしい




気になる東の斜面へ



竹藪があり墓地がある

お稲荷さんも小さく祭られていた

なんなんだろう

元々の参道は南からだったのか?

わからない

堀之内には大きな貝塚があり

秋山とは別の集落だったのかな?

春日神社と向き合うように建っているのに意味がありそう


この地域では『辻切り』の風習がある



北上し大橋へ



日蓮宗の『本源寺』

なんと源氏の名門、甲斐の武田の24将の一人、『秋山氏』が開山

細かい説明が難しいが、滅んだはずの武田家の子孫が家康の側室となり

家康の五男として誕生し、武田の名で小金城を任されるようになるも病死で武田家滅亡

その側室の子の親が秋山虎康という感じ(穴山氏との関連がピンとこないが)

本土寺にもお墓があり、松戸市にゆかりがある人物

【秋山あきやま 江戸期は秋山村。 地名は「あげ(上)・やま(山)」の転訛で高くなった所という意味。】らしく

秋山は人名でないみたい、大橋は単純に春木川にかかる大きい橋が由来

ならば春木川ではなく秋川でもよくないだろうか?

陰謀説を感じる

寺の山門には「菊水』が彫られていた


この辺りの地名は『寺の下・稲荷山・中郷』がみられる



隣へ



『胡禄神社』

古地図には『第六天祠』と記され

『神仏分離』で変えられてしまったもよう

春日神社同様長い参道で山を登るスタイル


灯篭の4基が『∵』

今まで見た中で過去最多数

これは『廃仏毀釈』に対する表れなのではないか思う

狛犬の口の開きが逆など、ささやかな抵抗なんだと想像する





さすがに『3匹の獅子舞』の神社だけあって狛犬は多い

屋根まで狛犬だし本殿脇にも彫りの浅い狛犬がある

ここまでの距離だと本題の『天照大神』とは関連はなさそう

でも3匹の獅子舞の話は『徳川家に下った武田家の末柄の物語だったら凄いかも



さらに北の神社へ


紙敷の『妙見神社』

北斗七星を司り北極星を仰ぐ、平将門や千葉氏にゆかりのある神社

宮司さんは春日神社と同じ人

狛犬がいないのが不思議(妙見といったら亀)

脇に『宇賀神社』があるのだが調べると

「人の顔に体が蛇」がご神体

これを狛犬にしたら怖いかも


カメとヘビの組み合わせは「玄武」

北の守り神はここに思った


秋山の厳島神社の北に位置する

「妙見前・妙見下・宿」の地名が残る

たいしたことなさそうだけど昔はすごかったような気配

松戸市内の妙見神社のそばには大体「城や砦や館」がある


でも天照とのつながりは感じられない



今回はここまで

更に北の和名ヶ谷の『日枝神社』も気になるが

『3匹の獅子舞編』にする





個人的な妄想というか見解では

この地に「○○京」を造ろうとしたのではないかと推測していました(もしくは御厨/屯倉/荘園)

東西に山(高台)があり真ん中に川(賀茂川)が流れう地形

北に山がないが、もう少し北に行けば「日枝神社」が山になる

ただ川の氾濫が凄すぎて人が住むには向いていなかったのかも

国分寺と共に計画が消滅してしまったと思われる


最近の調べだと『古語捨遺』という言葉に出会う

『古語の遺だるを拾う』=古言い伝えから漏れてしまったコト(事・言)を拾いあげる』という意味


【忌部(斎部)氏は大和朝廷時代には中臣氏と並んで祭祀を担当していたが,大化改新後は中臣氏から藤原氏が出て政界で有力になると,中臣氏も奈良時代には祭祀関係の要職を独占するようになった】

忌部氏がどうも歴史から抹消されたらしい

【天照大神は、もともと帝(天皇)と殿を同じくしていらっしゃった。それ故、神仕えの儀礼も、君(天王)と神(天照大神)は一体であった。そして天上からはじめて中臣・齊部の2氏がともに日神を折り申し上げてきた。中略。ところがいま、伊勢の宮司は,独り中臣氏だけが任命されて二氏は除外された】

というのが11ぐらいある内部告発書みたいなもの

忌部氏と猿目氏が歴史書から漏れた

中臣とは藤原氏のことで春日神社の『天児屋根命』の子孫



千葉県とは関係なさそうだけど忌部氏は千葉に移住してたのだ

しかし地名にも名を遺すことなく消されてしまった感じ

安房の国と結城市に有力情報があるかもしれないくらい


個人的には天照の子孫が天皇家だと思っていたが、今一つ腑に落ちない事はたたある

奥州藤原が栄えたように関東にも藤原の力が及んでいたのかもしれない

春日神社がある意味は藤原の勢力を意味するのか?

松戸市内には3社ある

今の神社はほとんど伊勢神宮系の傘下になっているが

あえて『天照大神』の名が残っているのは『神明』とは違う意味があるはず

それは何なのか?


調査は続く


















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諏訪神社考察ポタリング

2020-05-31 | 名所
今回は松戸周辺の【諏訪神社】を周りました

自分の中では神話の『国譲り』が気になっています

出雲と伊勢の使いの鹿島香取が力比べをして負けた出雲の神が諏訪に逃げたという説

下総国の一の宮は『香取神宮』の伊勢系、武蔵国のほうは大国魂神社と氷川神社があり大国主を祭る出雲系

そっちにあるのは分かるのだが千葉県にあるのが気になる

今はみんな伊勢神宮の傘下なんだけど・・・・

あと源氏は『八幡と諏訪』で、平家は『八坂と厳島』に分かれているイメージ

あくまでも自分の先入観ですが

今の所そういう認識です


ではまず流山市から



駒木にある諏訪神社です

807年創建で『建御名方神(たけみなかたのかみ)』を祭っています

諏訪大社の総本社は長野県諏訪にあり

諏訪湖を中心に『上社本宮・上社前宮・下社春宮・下社秋宮』の2社4宮で構成されています


諏訪大社の特徴は本殿と呼ばれる建物を持たず、山や木をご神体にする

これが古来の日本神道のスタイルで最古の神社の一つといわれます





情報によると大和から移住してきた天武天皇の高市皇子が信濃の神を祭ったのが始まりだそうです

大和といったら『大神神社』で三輪山なんじゃないかと思うのだが、なんで信濃なのでしょう

神社ではこの周辺で一番敷地面積が広く、隣の『通法山成顕寺』と関連があるようです













そして源氏

戦勝祈願に鞍を木に掛けたことからこの地域は『駒木』になったようです

それ以前はなんて名だったんだろう?


隣に駒木台と古間木(ふるまき)という地名もあります(コマキとも読める)

狛や高麗と関連があるのではとも推測し渡来系の一族なのかもと思います

通説では馬が多く生息していたので『駒』を使うようです

駒形神社も関連がありそうです








この神社は『狛犬』は多いんですけど

龍の彫刻が見当たりません

なんでだろう?今回初めて気が付きました


その昔、、真言宗と日蓮宗の争いがあったといわれます

成顕寺は真言宗から日蓮宗になったようです

おそらく真言宗との遺恨があるのではないかと推測しています












柏市へ





こちらは柏の諏訪神社

ごく普通なんですけど、お守りが個性的

ハシビロコウやカピパラが刷られているのです

理由はわかりません





特に引っかかる情報はないのですが

森の中に鎮座するのは諏訪神社に共通します

鎌倉時代の創建となるとこの旧水戸街道は鎌倉街道ではないかと思いましたが移転してきたそうです





気になるのは

『鹿島大神宮』があること

これこそ力比べの敗者と勝者

和解したという意味合いなのでしょうか


総本社では『御頭祭』という神事があるので

個人的には鹿はタブーではないかと思っています


(下社秋宮にも末社に鹿島神宮があった)





狛犬のと台座の組み合わせがある意味不自然

この岩山の台座は『獅子』がおおく、子供もいるはずなんですけど

新しくなっていなくなってしまったのか?


七五三や宮参りをする行事があるならなおさらだけど


ん、狛犬の台座に沿革が書かれている

鎌倉時代から諏訪神社はあったが、江戸時代に水戸街道が出来て街道沿線に移転して一里塚を建てたとのこと

あら、昭和三四年に『唐獅子』を献上と書いてある


旧水戸街道は江戸時代にできて、鎌倉道は別のルートか?

色合いからして新しくした時に唐獅子から狛犬になってしまったのかも

と思われます





市川市へ





市川市平田の諏訪神社

平田という武将の屋敷跡に建てたと言われます


参道が長く、やはり森の中にあります

昔、この辺りは砂洲だったようです





ここが凄いのは総本社のように『御柱』があること

本殿の周りに柱が4本立っています


本場と同じく『柱』があるのはここで初めて見ました

そうすると『御頭祭』もあるのかも?





『獅子供養』がありました

唐獅子には『牡丹』がセオリーですが紫陽花


『狛犬と諏訪神社の関連』が今回のテーマでしたが

その根拠がまだ見つかりません、でもやたら多いです

狛犬とどう関連があるのかまだ調査中


諏訪神社には狛犬と唐獅子が多いと思っています





『獅子の子落とし』タイプ

基本的に獅子の雄は子育てはしないのです

子を抱えているタイプは犬であり『安産』『子宝』の意味合いがあるといわれます

拝殿の彫刻も両方口が開いており『獅子』とのこと

口を開けているのが獅子で閉じているのが犬ともいわれます

この判別が統一されていないので難しいのです










あら?松戸にはないの??





萬満寺の横にある王子神社が『元諏訪神社』だったのでした

王子神社は熊野系なんですけど『幸江序命(さちえのみこと)』が正体不明

萬満寺自体は元は真言宗の大日寺で室町時代に臨済宗に代わりました

王子神社は一六世紀半ばに王子権現に変わった模様







行ったことのある人は気づいていると思うのですが

狛犬が多い方です(萬満寺の彫刻も狛犬が多い)

明治維新後に神仏分離で分けられたが元は同じ敷地でした

偶然というよりは諏訪神社の影響もあるのではないかと推測します


しかし、三峯神社が脇にあるので『狼』なのかもです

茶色いのは陶器製で髪がストレート

狛犬がクルクルと渦を巻いた毛なら獅子なのか



狛犬と諏訪神社の関連はいかに


(憶測では、都市伝説的の獅子をシンボルにする一族の信仰なのではと思う)


【追記】





最近寄ったら情報が変わつていました

なんと、7月の夏祭りに

『獅子の土用干し』がありました

やっぱねだけど何をするのだろう

(茶色い狛犬は『備前焼』で珍しいようです)









余談ですが



神紋の『梶の葉』の根っこの本数が四本と五本のがあります

『四本が上宮』で『五本が下宮』

という見分けたがあるのです





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古代道考察ポタリング(流山編)

2020-04-24 | 名所



今回は古代官道は流山を通っていたという説を下見してきました

ポイントは『東福寺』と『茂呂神社』を繋ぐ道

道沿いには『貝塚』や『古墳』もあり古くから存在しています







明治初期の古地図にもちゃんと載っています
(明治初期は江戸末期、幕末に近い状態)


古代官道とは、古東海道をさし

『下総国府の市川』と『常陸国府の石岡』を結ぶ道

どのルートだったかも断定されていなく

『茜津驛』の場所がまだ特定されていないのがロマンになっています


時代が変わるたびに道は整備されルート変更されています

ヤマトタケル・空海・平将門・源頼朝などが通ったとされる道

先住民の人々はどうなったのかも気になります



まずは鰭ヶ崎から



『守龍山東福寺』

真言宗で『空海』が平安時代に創建

ここまでどのルートで来たのでしょうか?

将門討伐の祈願所にもなっていました








見どころは『朱雀・玄武・白虎・青龍』の彫刻がそろっています

龍はよく見かけますが虎は希少です

当時のモノかは不明

唯一無二のを探すのが楽しいです





そして瓦に龍の紋章があるのも珍しい

真言宗は『輪が二つ』なのが多いでのす


それから『鴨』の彫刻が有名

左甚五郎作らしいです(江戸初期の伝説的彫刻職人)


隣の千仏堂までが東福寺の領地だったようです


新しくできた橋から北上します

本来は東側の鰭ヶ崎駅の方の坂を行くはずなんですか

宅地になって橋もなくなったようです

橋の上にまた橋があるといった珍しい光景でした





2年前はこんな感じ


ここより東に『三本松古墳』がありました

現代は宅地造成で消滅しました

『前方後円墳』だったので大和朝廷の傘下と推測されます

貝塚もあったのでかなり古くから先住民はいたようです






最初は坂道になっていますが

山の尾根みたいなところを走ります

左側は坂下と崖になっています

赤点と赤点が、鰭ヶ崎の東福寺~三輪山の茂呂神社


西平井へ



『感応山本覚寺』

日蓮宗で南北朝時代の創建

鬼子母神立像と十羅刹女立像が有名

(松戸の本土寺と関係があるようです)






個人的には△が3つの北条家の家紋が気になります

布施弁天も似たような家紋でした(不忍の池の弁天様も)

灯篭に龍が巻き付いているのも見どころです


余談ではありますが

松戸市にも日蓮宗の本覚寺があります

何で近所に同じ名前が存在してしまうのか?

こういうのも気になります


前平井へ



『真城院』

無人ぽいけど墓地は残っています

城の字が付くから城と関連があるのかと思いました

(正徳太子の石板が誤植のような・・・たまに見かける)


余談になるけど、この辺りの西平井・前平井・後平井の平井とはなんなのか?

松戸にもある平賀みたいなものなのか?

『中』という地名に対して前後西なのだろうか?

それとも江戸川区の平井と関連があるのだろうか?

気になります




加へ



『加村山光照寺』

浄土宗で安土桃山時代の創建

元々は時宗で光久寺だったとのこと






ここも灯篭が新しいけど珍しいタイプ

狛犬がいて、周りにネズミとかウサギが彫られています

こういうデザインには意味がありそうだけど

説明や解説がないのが残念


また余談ではありますが

ウサギと言えば、三輪山の大神神社の大国主と関連があり

『因幡の白兎』の神話を知っていればピンとくるあれですけど

鎌倉仏教系なので残念・・・





三輪野山へ



『三輪野山貝塚』

縄文時代から人が住んでいた証

ヒスイも出てきたので高度な文明と推測され、

新潟の方の人と貿易していたとなると水運も発達していた可能性もある

縄文土器も『世界初の陶芸』と言われ、煮込み調理も世界初とまで言われる

文字を持たない原始的な生活ではないはず


流山市内には『たたら技術(製鉄)』もあり時代に順応していて

古墳も造れるのは土木技術もあるということになるのです

土木力は軍事力に比例するとまでいわれています


平安時代初期まで竪穴式住居で生活していたのではないかといわれるが

豪族の人達は違うような?でもそういった遺跡は出てきていないので実証は無理

古墳を作るほどの人達も竪穴式には思えないのだが・・・




到着



『茂呂神社』

平安時代創建で大物主命が祭られています

(江戸時代の地図には『三輪大明神』と表記)


問題は松戸市にもあるということ

平安時代初期の書物「延喜式」によると葛飾郡には同格の神社が2つしかなく

もう一つは船橋の意冨比神社(船橋大神宮)で

茂呂神社が同じ地区に2つ存在するのが謎となります



ちなみに、下総国の一宮は『香取神宮』で、大和国の一の宮は『大神神社(おおみわ)』







平安時代になると都は奈良から京都に移された時期なんだけど

なぜ大和の三輪山なのか?

山をご神体にしているのはに古代神道系

大物主命は出雲大社の神様と同一人物

ここから東に『諏訪神社』があるのですが、出雲の国譲りの時に力比べで負け神が

諏訪地方に追い払われたと言われています

元々は出雲の神でスサノオウの子孫なのです


神話には矛盾が多いのですが

となりの駒木のおすわ様によれば

『諏訪神社の御創建は平安時代のはじめ、大和国から高市皇子の後裔となる部族たちが、新天地を求めてこの下総の大堀川のほとり、森も水も豊かな地で肥沃なこの地に移住し、田畑を墾き、農業を営んで集落を形成したときにさかのぼります。
 西の都から移住してきた人々は、新しい土地の心のよりどころとして、その東漸の途次、信濃国諏訪大社より御神額をいただいてきました。これがここ諏訪神社の創めで、記録によると平城天皇の大同2年(807)のことでした。
いらい諏訪神社は住民の信仰の中心となり、深い親交に支えられて歩んできましたが、平成18年には御鎮座からちょうど1200年を迎えました。
 ではなぜここに高市皇子の末裔たちは住み付く事になったのでしょうか。それにはすでに景行天皇(71~131)の御代に、束国には御諸別命が武将として派遣され、その末裔がこの地方に永住されていたので、それいらい、この地と大和地方とは交流が続き、下総地方のことが都にも良く知られていたことにもよるのでしょう。』


『御諸別命』  『西の都からの移住』

三輪山は御諸山ともいわれて『諸→茂呂』となったといわれます

となると、ここの手前から諏訪神社へ行くルートが古代道の可能性もありそう

あの『ウナギ街道』がもしかしたらそうだったりして(大堀川沿いを進むルート)

柏の『布施弁天』も空海が創建したと言われるから可能性は大








後の天武天皇になられた大海人皇子の第一皇子にあたる高市皇子は、幼少の頃、大和の豪族・高市麻呂に養育され大きくなりました。高市麻呂は奈良の大神神社の祭祀者であり、大神神社が大国主命を祭る大切な神社であることから、そのお子様大国主命を祀る信州・諏訪大社とも深い縁があったと考えられます。高市皇子はまた、九州宗像族の総領宗像徳の娘を母として、出雲の一族とは深い関係にあります。その重なる縁が高市皇子の末裔たちが東国へ新天地を求めて移っていくに際して、大国主神を祀る大神神社から、お子様の健御名方其命を祀る諏訪大社が紹介され、一行は陸路 諏訪大社に詣って開拓の加護を祈り、神額を拝戴してここに神社を設けたことにつながったと思われます。 

『高市麻呂』

大和から移住してきた人たちがこの辺りに住み着いたとのこと

まだ松戸の方は調べていないが流山の方が信憑性はありそう


しかし、流山市の由来は群馬県の『赤城山』が流れてきたのが通説

同じ大国主を祭るのだが歴史的には三輪山の方が古い

調べれば調べるほど新たなる謎が生まれる

千葉県の海の方は、和歌山から移住してきた人が多く地名に残っていて

安房も四国の阿波と関連があると言われています

今回はここまでとします

では
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手賀の丘公園RIDE

2019-12-15 | 名所




今回は東へ

と言っても手賀沼に着くけど

アップダウンの激しいルート





馬橋立体から東へ

6号線と八ヶ崎の坂を上がる

下総台地のヘリ





途中、一方通行になるが自動車だけ

道は狭いけどひたすら直進する

佐野八坂神社

八坂大神と名前が統一されていない

栃木県佐野市から移住してきたともいわれる





この辺りは『旧軍用線』の走っていた場所

石柱が撤去され見当たらない

名残がだんだん消えていきそう


柏市に入る





右折して280号に

高低差が堪える

野田線をアンダーパス





ここからが難所

8号を走るが16号に出るのが難しい

位置的には北上





何とか自力で16号に出た

一本手前で曲がっていればすんなりこれた

この辺は覚え辛い





アルペンに立ち寄る

キャンプ道具の品ぞろえがいい

ここに寄りたかったからこのルートできました

いや凄い





向いのセブンパークにも寄って弁当を買う

ここにもバーベキューコナーがあった

天候次第ではここで食事するのもいい


282号に出る





なかなかのアップダウン

車の数もそこそこ

公園行のバスも走っている





右折し坂を上がり到着

園内は自転車乗り入れ禁止

押して歩く





いい感じのロケーション

アスレチックが売りのようだ

人は少ないが草木を管理している音がうるさい





なんとかいい感じの場所を見つけランチ

雨上がりだったのでベンチの汚れが気になっていた

暖かいみそ汁と食後のコーヒーは欲しい

今後の課題



つづく

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手賀の丘公園RIDEⅡ

2019-12-14 | 名所
つづき



ついでと言ってはなんだけど

隣の柏オートキャンプ場にも行く予定だったが

坂を下ってしまったので上がる気が薄れました

次回にでも





キャンプ場があるので園内を散策

鳥の鳴き声がいい感じ

掃除機やチェンソーの音はやめてもらいたい





坂を下りキャンプ場

ここまで荷物を持ってくるのは大変そう

システムが良く理解できない





手賀沼には近いようだ


デイキャンプで、テントとターフは必ず張るとのこと

バーベキューのみは禁止

ゴミと灰も炭も全て持ち帰えり


と注意書き





坂を上がり他を散策

手賀沼を見渡せる丘に出た

ここもいいかも





入口は一ヵ所かと思っていたら違う場所から公園から出られた

気になる木を見つけた

メジロが柿を食べていた

かなりの数

春の鳥かと思っていたけど冬もいる

当たり前だけど





公園を後に手賀沼に向かう

帰りはこっちの平坦コースがいい

ちょうどアド街で我孫子をやっていた





サイクリングロードを走る

こっちに来たら立ち寄りたい所へ

ここで温泉に立ち寄る

道の駅の横





源泉が出るせいか平日でも混んでいる

落ち着かない

ここで問題は湯上り

クールダウンしないと下着がまた濡れてしまう

かといって冷やし過ぎても風邪をひく

難しいけど、かき氷で冷やす

氷頭痛がキーン

お茶と食す





いい感じになったところで帰る

一時間半はかかるだろう

日は暮れたが曇りで夕陽は見れず



なかなかの良い一日でした


























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東京競馬場へGO

2019-10-18 | 名所



数年ぶりに競馬場へ

台風による代替開催

多摩川に近いけど大丈夫だったみたい


今回は一眼を持っての初遠征

千葉は雨は降りそうもないとのことで決行

あ、こっちは東京だった





武蔵野線で約一時間

スポーツ新聞を買い検討するにはいい時間

一時ころ到着





昼飯を食べ、7レースからの参戦

三連休明けの平日にしては人が多い

子連れもいたほど






今日の戦略はひらめき単勝作戦


ボヘミアンラプソディーだなんてクイーンじゃん


鞍上も人気ジョッキーなので信頼感はある





スタンド前からスタートだったので見やすかった


スターターも撮れた


でもレースは取れなかった(結果は2着)






仕切り直しに館内を散策



アイルランドと交流があるらしい



ラクビーのアイルランド戦の歴史的勝利はまだ記憶に新しい





あの名馬『ウォッカ』が引退後アイルランドに渡ったのだった


銅像が立つなんてすばらしい


牝馬でダービーを制覇したんだからたいしたもんだった

(ライバル、ダイワスカーレットも思い出す)






第8レースは障害レース(東京ハイジャンプ)


ボヘミアンで当たっていたら次はマイケルのはずだったけど・・・


外れたので違うのを買ったら勝ったのはシングンマイケル


(お酒のメイショウダッサイを買ってしまった)





第9レースは外人ジョッキーを買う


9番の武豊もよかったんだけど


またしてもハズレる






10レースはパドックへ


目線をくれたのはこの2馬


でも、自分がいいと思ったのは6ブレイニーラン






ゴールのちょっと前で観戦


結果2着


一番人気の武豊の馬に差される





11レースは最終コーナーの方で観戦


このカーブの感じがいい


今回も外人ジョッキー狙い





3着


荒れた


9番人気が勝ち、3連単は131060円





最終12レース


人気女性ジョッキーの登場


この日はすでに1レースに勝利していた





天気は今にも雨が降りそうな薄暗さ


フラッシュが禁止なだけに微妙にブレる


ISO感度が上がるせいか画像が荒い






今回はゴール後からの撮影


証明がともり、雨がポツポツ


またしても荒れた


七子ちゃんはビリ

六番人気が勝ち、三連単は396610円

全敗


すぐに帰る




余談だが

京王線の方が『正門』で

府中本町の方は正門ではない







行列の中を帰ったのだが


電車は座れ混んではいなかった


どっと疲れ寝て帰る








今回は200㎜望遠ズームなんだけど


距離的には問題なかったが暗さが気になった


『ストロボを上げて』とでる環境


拡大してもピントが甘いような画質も悪かった


レースは速度優先、パドックは絞り優先にしたのだが

一眼ならではの良さがなかったような・・・

カバンは持ち運びが良く善かった


初一眼遠征でした




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お台場RIDE2

2019-08-24 | 名所

つづき


自転車から降り周辺を歩く

鉄道とガンプラ祭りをやっていた

オタクな組み合わせだ







暑いけど耐えられる熱さ

程よい人出の数

汗が良く流れた





ガンプラ展に入る

あまりの数の多さに圧巻

個人的に『黒い三連星』が好きです





外に出ると『ドクターイエロー』

本来は人を乗せることはできないのだが

だからこそ乗ってみたい欲望はある


イベントがはじまる



顔が変わった

細部のこだわりがいい

コレにも乗れたらいいな





再び自転車に乗り周囲をまわる

フジテレビの階段に車が

どうやってセッテイングしたのか気になる






海に出る

海岸はオリンピックにむけ工事中


レインボーブリッチが出来る前のここはちょくちょく来ていた





食事をしたいのだが停める所もなく

下に降りる場所もない、行ける所まで行く


テレポート駅まで来た

ここは『踊る大捜査線』でお馴染みな場所





坂を下りパレットタウン

ここはほんと何十年かぶりに入る

この異国情緒がいい






トヨタプレゼンスのなつかしい展示会だけど

世界の名車も集まっている

ここは車好きにはたまらない






フードコートとレストランは混んでいた

喫茶店みたいなところが空いていて穴場でした


海なので『シーフードピラフ』をチョイス

なぜかのフランクフルトが付いていてよかった


カレーとナポリタンもあったけど

ピラフはここ数年お店で食べたことがないのでよかった



つづく



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