ライズ外伝

仕事以外の趣味のコーナーです。
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松ヶ崎城史跡散策(柏市)

2023-10-26 | 名所


柏市にある『松ヶ崎城跡』を散策

手賀沼に近く、水戸街道の通る立地

『戦国時代』のお城です





入口がよく分からなかったが

街中に案内板を見つけました

コンビニが近くにあります






お城の『入口』は大事です

敵の侵入を防ぐ工夫が見どころ

石垣はないが高台になっています





本来はあの場所に階段は無さそうだけど段差になっているのは

舌状大地を生かした地形で

手賀沼を前方に大堀川と地金掘りに囲まれています





城の全体図はこんな感じ

北の方(上)から入ってきた感じですが

本来の入口ではなかった模様


さっきの場所は『腰曲輪』と呼ばれるお城の一部



城内へ




本来は手賀沼が全望できるのだが今とは地形がだいぶ違うので想像力が必要

戦国時代の城と江戸時代の城は作りが全く違うと思った方がいいくらい

特に関東は平地が多く、石垣のない土盛の砦のようなものが主

土で成ると書いて『城』


白い天守ができたのは江戸時代になってからで
その前は黒い天守だったようです

天守ができたのは信長が造った安土城からといわれる

ここはそれより古い時代のモノ







なんもない!と思うけど『門』の跡

城内での本曲輪への入口

物見台の横に配置








『物見台』

古墳を利用している

古墳があるということは戦国時代以前から利用されていた土地

香取の内海に面していた






土塁と門と堀の防御壁

本曲輪を囲む設計


曲輪(くるわ)は、『廓』や『郭』とも書く

城郭・遊郭・五稜廓など

クルクルと囲まれているものを指す







本曲輪

ここが城の中心


基本的にこの時代は支城では寝泊まりはしない

戦の時だけ利用したといわれる

支城では籠城もしなく焼き払って逃げたらしい















内側の土塁


※土塁とは、敵の侵入を防ぐために、土を堤防のような形に盛り上げて作ったものです










外側の土塁

城の南側に位置する

『柵』とか『作』というのも城に関する

土塁の上に柵を建てたほうが高さができ

より侵入を防げる








『虎口』

城の重要な入口

ここで敵の戦力をだいぶ削る仕組みがある








『堀』

本曲輪を囲むように彫られている

初期は弓矢の届かない距離に掘れるも

鉄砲ができてから距離が変わる







西側の出入り口

虎口は2か所


北西側は宅地化される

こちら側の防御はどうなっていたんだろうか







今は公園化されているから木が多いけど

戦国時代の平山城スタイルはハゲ山だったという

火を放たれたら火事になるので必要以外には植えないとのこと






城を出る




かなりの急坂

緩いと攻めやすくなる

住むと不便なのは間違いない






まさかここから上がれるとは思わなかった

南側の大堀川がある方

近くに
成田山不動明王の金毘羅神社があるのだが見つけられず







代わりにというか『湧水』をみつけた

水があるということは『生活』ができるということだけど

お城では生活しないので意味がなさそう

でもこちら側に集落を作っていた可能性もある



当時の戦は現地到達で奪った城の物資を略奪していた

盗られまいと井戸に毒をもって逃げたなんてことも

戦国武将は思っている以上にエゲツナイといわれる












字が読めず情報がない

ここが金毘羅様??不動尊?

水と言ったら弁天様を祭りそうだけど

金毘羅は船乗り信仰に関連する

城の東南に配置されている


基本的には鬼門の位置に神社が配置されるのだが

北西には『妙見山萬松治寺』がある

妙見と言ったら千葉一族の北辰信仰


そしてなぜ戦国時代の城が城址跡が多いのか?というのは

江戸時代に『一国一城』制度になったから残っているのは少ないのです

石垣の石も関東は石が採れる山が限られているので

平野にある城は石垣が少ない




戦国時代の実態

江戸時代の感覚から抜け出さないと見えてこない

当時の地形とはだいぶ違うと思われる

資料が少ないだけにどれだけ想像ができるか

何も無い所に歴史は残る





















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足立区考察

2023-10-02 | 名所




足立区には奥州へ向かう

源氏の通ったとされる地が残る

「白旗」の付く地名は源氏の白い旗に由来する






「竹ノ塚」周辺なんだけど古墳群があり

古くから人々が生存している地域

大和朝廷に制圧され武蔵国となる






馬と船の埴輪から交通手段が連想される

竹塚・伊興の周辺は古代から重要な地だったと思われる

毛長川は今より広い河だったもよう





弁天池かと思っていたけど

「円墳」とのこと

現存するいのはこの公園だけで宅地開拓で消滅


竪穴式住居などはここより北西の伊興遺跡公園に保存されている

(今回はそちらに行けなかった)




それと




足立区の北東に位置する

「花畑大鷲神社」

日本武尊がこの地に寄って後に祭られるようになる

源氏も寄ったとされるので平安時代には存在している

(酉の市が有名で浅草大鷲神社のより古いといわれる)


扇子の家紋は「源義経」が使っていた

北区の平塚神社と同じ

義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と号されました。


(浅草の鷲神社の家紋は月星で千葉氏が使う平家系なが気になるところ)






入口の提灯が個性的

なんと「成田山新勝寺」も奉納していた

足立区と成田を結ぶ関係は否めない


西新井大師と新勝寺を結ぶルートにこの神社は通ったのか?

参道が長かったら流山道沿いとなる

(流山の東福寺も流山道から離れているが成田山の石碑がある)


綾瀬川と毛長川と伝右川の分岐点なので水運の要地

「宿」の地名が残っているので重要なのは間違いなさそう





それから



足立区ではないが隣の八潮市の

「大曾根八幡神社」

一説では新羅三郎が寄ったとされるので大鷲神社からつながる

白旗と八幡は源氏にゆかりがある




個人的に八幡宮の八は「鳩」の形が本格派系に思える

旧町名も「八幡村」だからここが中心地だが

江戸時代は「大原」という地名が宿だったので大曾根との

関連が気になる

八幡村大原字大曾根だったのかな??

(八幡村は明治にできたもよう)






余談だけどこの神社の彫刻は素晴らしい

柴又の帝釈天くらい細かく彫られている

今まで見たことのない動物もいるのが見どころ



同じく八潮に



「八条八幡神社」は室町時代創建

源氏のゆかりは記されていないが八幡は源氏系

古くは「下妻街道」が通っており八条にも宿があった

ここから流山行くルートが流山道候補





アド街でも4位に紹介されたが

明治時代の彫刻が重要文化財として市内初となる

中川沿いにあるので水運も発展したと思われる




なぜ江戸時代に水戸街道を通らずこのルートなのかは

『関所』を通らないメリットがある

江戸川にはいくつもの『渡し』がある

もちろんその時代にはまだ『橋』はない


江戸時代以前はどうだったのか?

陸路より水路の方が主だったのではないかと思う


奈良平安時代に古代官道が整備され

鎌倉時代も鎌倉街道が整備されたが

関東は家康が来てから道が整備され江戸が開けるようになる


幕末には新撰組を追って流山に集結したルートはいかに

新撰組も綾瀬・松戸から流山へのルートが定かではない

道の考察は面白い



















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