今回は時を戻して
奈良時代の府中を散策してきました
下総国の中心地は今の市川市国府台
松戸はその隣にあります
市川の国府台は下総台地のヘリに位置していて
当時は遠浅の東京湾の海沿いに面していたといわれます
江戸川も『太日川』という呼び名で渡良瀬川の方まで続いていたようです
向いの小岩や柴又は大嶋郷と呼ばれ島のような地域で家康が来るまでは湿地帯のようでした
周辺には貝塚や古墳があるので古くから人は住んでいました
国府になっているということは大和朝廷の傘下になったということです
総国は元々は一つで上総(かずさ)と下総(しもうさ)に分割され統治されたようです
先ずは里見公園から
東京が一望できます
富士山・スカイツリー・都庁・東京タワーまで見えます
絶景
東京タワーや日テレのビルまで見えるけど
大昔は『富士山』しか見えなくて戦国時代は江戸城が見えたのかな?
江戸城も最初の頃は海岸沿いにあったようです
戦国時代は『国府台城』がありました
武士社会になり市川の国府は消滅したもよう
国府台城も江戸時代になると廃城
小説の里見八犬伝には市川の行徳出身のキャラがいた設定になってます(犬田小文吾)
他にも古墳があったり市川市で一番標高の高い場所もあります(24m)
お城と言ってもこの時代は館と砦が合わさったイメージです
県道1号へ
国府台で有名なのがこの『辻切り』
村と村の境目に飾られます
一般的には庚申塔や青面金剛が配置されているのが多いですが
松戸市との境目に多く見かけられる
スポーツセンターへ
『下総総社』です
ここが行政の中心地府中!
下総国の『首都』だったところ国庁
野球場と陸上競技場の間にあります
幕末までは『六所神社』が祀られて明治19年に須和田に移転しました
その後は軍の施設になっていたようです
なんかリスペクトが無さすぎ・・・
当時は神仏習合だったけどどこと習合してたんだろう
神社だけとか寺だけとか、習合していないのもあったのかな?
ここから南に坂を下っていくと
『国府神社(こくふ)』があります
昔は『鳳凰大明神』と呼ばれ今は日本武尊を祭ってます
1087年創建とかなり古いが、古地図には稲荷社と明記
(日本武尊伝のある神社は真実かどうかは不明が多い)
かなり急な階段を上がり、狛犬が個性的
灯篭の『逆さ∴』も必見
名前からしてこっちの方が中心地なんだと思っていました
コウノトリの嘴をご神体にしていたともいわれます
坂を下ると真間
日蓮宗真間山弘法寺(ぐほん)
奈良時代の頃からあり平安時代は真言宗になり鎌倉時代には日蓮種に改宗されたもよう
市川が国府になる前からあったようです
境内には前方円古墳もあり豪族も存在していた地
真間の手児奈の話が有名
本殿は綺麗で新らしい
山門が唯一歴史を感じる古さがる
灯篭の龍がよかった
階段はきつい
涙石は見つけられなかった
階段以外のルートもある
須和田へ
六所神社はここに移転
なんだろうこの軽さは
普通の神社でしかない
景行天皇の時代だから西暦72年ころになるんだけど
卑弥呼より前の時代になってしまう
ヤマトタケルは本当にこの地に寄ったのでしょうか?
伊能忠敬じゃないけど別のグループが寄って制圧したけど
手柄はヤマトタケルみたいな感じかな
(六神のうち天照ではなく大己貴尊(大国主)なのも気にはなる)
国分寺へ
途中気になる神社を発見
日枝神社でした(隣は真言宗竜珠院)
元々は神仏習合系の寺院
日枝神社と言えば鬼門に配置され
猿の狛犬なんだけど普通の狛犬でした
気になる情報は『船みこし』
大杉神社系の信仰で松戸の方では『アンバ様』と呼ばれている
内容的には一緒で悪病払い、大杉様の面は天狗といわれる
大杉神社は海河守護の神様としての信仰はされる
(市川周辺に金毘羅さんなどの海河守護系の神社が少ない気がする)
ここから南西に向かうと
下総国分寺
741年『国分寺建立の詔』
この時代、仏教の力で国を鎮め護ろうとしたのでした(鎮護国家)
大仏などを造り、当時の『流行り病』をおさえようとしたのでした
全体的にはかなり広かった感じ
総社から『近すぎず、遠すぎず』といった条件でこの地に創建
さっきの日枝神社は鬼門位置し、総社は西に位置する
国分寺は一国一寺と定められた
しかし平安末期には衰退
朝廷の政権から武士政権になり僧侶の勢力も衰える
隣の宝珠院へ
なぜかヤカン
河童の頭など謎多き寺
江戸時代初期創建で薬師如来
北に行くとまだ敷地の名残がある
市川市のこの辺の道は狭い
平城京のような街にしたかったらしいが
尼寺(にじ)へ
下総国分尼寺跡
公園になっています
総社からは鬼門に位置する
この景色から想像できません
本来は平城京のように碁盤の目にするようでしたが名残なし
周辺の稲越と鬼越の地名がこの辺りと関連があるのか気になる
鬼高や鬼越などなぜ鬼がつくのだろう?
「鬼越(おにごえ)」は鬼が出没するので鬼子居(おにごい)と呼ばれ、「高石神(たかいしがみ)」は石器時代の遺物・石棒を祭っている高石神社に由来する。 とのこと
他に気になったのは市川は香取神社が少ないコト
行徳にはあるけど、松戸市は多い
葛飾八幡宮は下総国総鎮守とされている
下総の一の宮は香取神宮
延喜式だと葛飾郡は茂呂神社と意富比神社になる
未だに理解できていないのが『土地』の話
土地は個人のモノだけど支配者のモノ?
今も昔もだけど自分のモノだけど税金がかかるなら『借り』ているようなもの
借りていればいるで賃貸料がかかるみたいな
単純に天下を取れば全部自分のモノみたいになるけど
土地の持ち主からお金(税)を巻き上げる権利を持つみたいな
民主主義とか資本主義じゃない時代は今とは同じではないかも
班田収授法の租庸調なんかもみんなが払うものなのか?
当時は貴族とか皇族は払わなかったのかな?のちの武士も
米や布や貨幣を払うのだが庶民だけが払っているのかが謎
統治している側は貰っているだけのイメージだ
下総国の税は国府に集められそれを朝廷に送っているとなると
どのように分配されていたんだろうか
参考書を読んでも難しい言葉で煙に巻かれている感じ
内容より専門用語に意識がいってしまうみたいな
日本には奴隷はいなかったとなるけど
下人なんかは奴隷みたいな生活ではなかったのかな
当時は朝廷の支配下になった捕虜は『俘囚』なんて呼ばれていました
現代よりは不公平で不平等な時代だったと思う
そんな下総の中心地
下総国府でした