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ライズ外伝

仕事以外の趣味のコーナーです。
主にお出かけが多いです。
ポタリングしてます。

松ヶ崎城史跡散策(柏市)

2023-10-26 | 名所


柏市にある『松ヶ崎城跡』を散策

手賀沼に近く、水戸街道の通る立地

『戦国時代』のお城です





入口がよく分からなかったが

街中に案内板を見つけました

コンビニが近くにあります






お城の『入口』は大事です

敵の侵入を防ぐ工夫が見どころ

石垣はないが高台になっています





本来はあの場所に階段は無さそうだけど段差になっているのは

舌状大地を生かした地形で

手賀沼を前方に大堀川と地金掘りに囲まれています





城の全体図はこんな感じ

北の方(上)から入ってきた感じですが

本来の入口ではなかった模様


さっきの場所は『腰曲輪』と呼ばれるお城の一部



城内へ




本来は手賀沼が全望できるのだが今とは地形がだいぶ違うので想像力が必要

戦国時代の城と江戸時代の城は作りが全く違うと思った方がいいくらい

特に関東は平地が多く、石垣のない土盛の砦のようなものが主

土で成ると書いて『城』


白い天守ができたのは江戸時代になってからで
その前は黒い天守だったようです

天守ができたのは信長が造った安土城からといわれる

ここはそれより古い時代のモノ







なんもない!と思うけど『門』の跡

城内での本曲輪への入口

物見台の横に配置








『物見台』

古墳を利用している

古墳があるということは戦国時代以前から利用されていた土地

香取の内海に面していた






土塁と門と堀の防御壁

本曲輪を囲む設計


曲輪(くるわ)は、『廓』や『郭』とも書く

城郭・遊郭・五稜廓など

クルクルと囲まれているものを指す







本曲輪

ここが城の中心


基本的にこの時代は支城では寝泊まりはしない

戦の時だけ利用したといわれる

支城では籠城もしなく焼き払って逃げたらしい















内側の土塁


※土塁とは、敵の侵入を防ぐために、土を堤防のような形に盛り上げて作ったものです










外側の土塁

城の南側に位置する

『柵』とか『作』というのも城に関する

土塁の上に柵を建てたほうが高さができ

より侵入を防げる








『虎口』

城の重要な入口

ここで敵の戦力をだいぶ削る仕組みがある








『堀』

本曲輪を囲むように彫られている

初期は弓矢の届かない距離に掘れるも

鉄砲ができてから距離が変わる







西側の出入り口

虎口は2か所


北西側は宅地化される

こちら側の防御はどうなっていたんだろうか







今は公園化されているから木が多いけど

戦国時代の平山城スタイルはハゲ山だったという

火を放たれたら火事になるので必要以外には植えないとのこと






城を出る




かなりの急坂

緩いと攻めやすくなる

住むと不便なのは間違いない






まさかここから上がれるとは思わなかった

南側の大堀川がある方

近くに
成田山不動明王の金毘羅神社があるのだが見つけられず







代わりにというか『湧水』をみつけた

水があるということは『生活』ができるということだけど

お城では生活しないので意味がなさそう

でもこちら側に集落を作っていた可能性もある



当時の戦は現地到達で奪った城の物資を略奪していた

盗られまいと井戸に毒をもって逃げたなんてことも

戦国武将は思っている以上にエゲツナイといわれる












字が読めず情報がない

ここが金毘羅様??不動尊?

水と言ったら弁天様を祭りそうだけど

金毘羅は船乗り信仰に関連する

城の東南に配置されている


基本的には鬼門の位置に神社が配置されるのだが

北西には『妙見山萬松治寺』がある

妙見と言ったら千葉一族の北辰信仰


そしてなぜ戦国時代の城が城址跡が多いのか?というのは

江戸時代に『一国一城』制度になったから残っているのは少ないのです

石垣の石も関東は石が採れる山が限られているので

平野にある城は石垣が少ない




戦国時代の実態

江戸時代の感覚から抜け出さないと見えてこない

当時の地形とはだいぶ違うと思われる

資料が少ないだけにどれだけ想像ができるか

何も無い所に歴史は残る





















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足立区考察

2023-10-02 | 名所




足立区には奥州へ向かう

源氏の通ったとされる地が残る

「白旗」の付く地名は源氏の白い旗に由来する






「竹ノ塚」周辺なんだけど古墳群があり

古くから人々が生存している地域

大和朝廷に制圧され武蔵国となる






馬と船の埴輪から交通手段が連想される

竹塚・伊興の周辺は古代から重要な地だったと思われる

毛長川は今より広い河だったもよう





弁天池かと思っていたけど

「円墳」とのこと

現存するいのはこの公園だけで宅地開拓で消滅


竪穴式住居などはここより北西の伊興遺跡公園に保存されている

(今回はそちらに行けなかった)




それと




足立区の北東に位置する

「花畑大鷲神社」

日本武尊がこの地に寄って後に祭られるようになる

源氏も寄ったとされるので平安時代には存在している

(酉の市が有名で浅草大鷲神社のより古いといわれる)


扇子の家紋は「源義経」が使っていた

北区の平塚神社と同じ

義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と号されました。


(浅草の鷲神社の家紋は月星で千葉氏が使う平家系なが気になるところ)






入口の提灯が個性的

なんと「成田山新勝寺」も奉納していた

足立区と成田を結ぶ関係は否めない


西新井大師と新勝寺を結ぶルートにこの神社は通ったのか?

参道が長かったら流山道沿いとなる

(流山の東福寺も流山道から離れているが成田山の石碑がある)


綾瀬川と毛長川と伝右川の分岐点なので水運の要地

「宿」の地名が残っているので重要なのは間違いなさそう





それから



足立区ではないが隣の八潮市の

「大曾根八幡神社」

一説では新羅三郎が寄ったとされるので大鷲神社からつながる

白旗と八幡は源氏にゆかりがある




個人的に八幡宮の八は「鳩」の形が本格派系に思える

旧町名も「八幡村」だからここが中心地だが

江戸時代は「大原」という地名が宿だったので大曾根との

関連が気になる

八幡村大原字大曾根だったのかな??

(八幡村は明治にできたもよう)






余談だけどこの神社の彫刻は素晴らしい

柴又の帝釈天くらい細かく彫られている

今まで見たことのない動物もいるのが見どころ



同じく八潮に



「八条八幡神社」は室町時代創建

源氏のゆかりは記されていないが八幡は源氏系

古くは「下妻街道」が通っており八条にも宿があった

ここから流山行くルートが流山道候補





アド街でも4位に紹介されたが

明治時代の彫刻が重要文化財として市内初となる

中川沿いにあるので水運も発展したと思われる




なぜ江戸時代に水戸街道を通らずこのルートなのかは

『関所』を通らないメリットがある

江戸川にはいくつもの『渡し』がある

もちろんその時代にはまだ『橋』はない


江戸時代以前はどうだったのか?

陸路より水路の方が主だったのではないかと思う


奈良平安時代に古代官道が整備され

鎌倉時代も鎌倉街道が整備されたが

関東は家康が来てから道が整備され江戸が開けるようになる


幕末には新撰組を追って流山に集結したルートはいかに

新撰組も綾瀬・松戸から流山へのルートが定かではない

道の考察は面白い



















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流山道(足立区)

2023-09-27 | 名所


今回は足立区にある『流山道』へ

何故ここに?

古くは西新井大師と成田山新勝寺をつなぐ大師道ともいわれる

なぜ流山?の名になっているのだろう??






現存するのは旧日光街道から花畑までの間

区画整理で道が消滅

足立区は西新井から六木まであったらしいが

その先の流山までのルートが不明




下妻街道で八条から流山へのルートだといわれるが定かではない

花畑大鷲神社の方から八潮→三郷→流山ではとも思える

八潮市には八幡村があり大原道の『大原』は八潮にある






まずは



「竹塚神社」がありここに陣と宿をとって奥州に行ったとされる

流山の駒木諏訪神社にも源氏の伝承が残る

そのルートが流山道なのではと考察する

流山から柏に行き、香取の海に出て水路で東北に行ったと推測






旧日光街道の小学校の脇の道が『流山道』

江戸から竹ノ塚までは日光奥州街道があるが

その昔は鎌倉街道や大師道も存在していた






小学校の隣に「氷川神社」と「寶積院」がある

ここに流山道の案内板が建つ

意外に道は細い







戦国時代は千葉氏の陣屋があったとのこと

隅田宿の石浜にも千葉氏の砦があったとなると

中世は千葉氏の勢力が強かったと思われる

千葉氏は平家の出で小金城の高城氏も平家の流れをくむ

相馬流山も千葉氏の分家





特に栄えている様子は見受けられないが





「大門」という大乗院の参道がある

門前町でそこそこの賑わいが記されている

1300年の歴史を持つ

(寄り道をして寺に向かう)





松戸の本土寺の参道も長いけど

ここの参道も長く時の権力者でもあったのだろうか

榛名掘りの名が気になるが

氷川神社の横に榛名神社があり富士塚のようになっていた

千葉氏が榛名山の方にも勢力を伸ばしていたのと関連はありそう






案内板によれば白蛇の伝説があり

藁で大蛇をつくる伝承が残る(じんがなわ)

流山神社の「大しめ縄」を連想させるも

辻斬りに近い模様

名前だけなら茂呂神社の「じんがらもち」も似ている







真言宗大乗院

平安時代の創建

やはり真言宗系の寺を結ぶ道は古代の道なのかも






再び流山道に戻る

道は国道4号線で分断される







回転ずしの脇を進むと

2つ目の流山道の案内板がある

成田山へ16里(64k)

榎戸は綾瀬川の内匠橋の辺りの地名でここから20町な距離





お寺が多い

玉蔵院は真言宗で戦国時代創建

この寺と公園でクランクするのも特徴


保木間の地名は、むかしこの地一帯は、低地で水難が多く、村民は小川に杭を打ち込んで保護したことから保木間と名付けられたという。






阿弥陀院も真言宗で江戸時代創建

足立区の「六阿弥陀」の一つとされる

伝承によると一本の木から6体の阿弥陀像を彫ったとされ

七福神巡りみたいに6か所めぐる詣があるもよう


足立区には六町、六月、六木と六の地名があるのも

関係が無くはないのかもしれない


余談だが

松戸市にも一本の木から3体の仏像を彫ったという弘法大師の伝承があり

根本・中根と名が残っている





西光寺は浄土宗で室町時代創建

本尊は不動明王で平安時代の作とされる

徳川の家紋がある








「成田山これより16里、榎戸迄20丁、大鳥之20丁」

大鳥が不明だけど花畑大鷲神社と思われる

さっきの案内板と距離が変わっていない





寺の横が流山道

この先に「道海道」があるも消滅

日光街道の脇道として公園に名が残る






区画整理の碑があり流山道は消滅

堤根という地名もほぼ見られない

花畑は古くは花又という地名


とりあえずここまでが現存する流山道



この先のルートが気になるも情報がない

榎戸の『不動院』も古いのでそこを通っていると思う

そこから大鷹神社に寄ると遠まわりとなり六木方面ではなく八潮の方から流山と推測

下妻道は大原道でもあるので榎戸で分岐していた


綾瀬川の水路も気になるところ

大鷲神社は『宿』の名が残り

墨田宿の次はここか宿だったかもしれない

でもそこから江戸川に出る水路はあったのかな?


・下妻道を榎戸→六木→大原→八条→流山

・旧水戸街道を葛西新宿→飯塚→猿又→二合半領→丹後→流山

・江戸→花和田→谷中→茂田井→流山→市の谷→野々下→駒木諏訪神社は諏訪道

















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2023年夏休み(2

2023-08-30 | 名所
つづき


イクスピアリ

日本じゃない異国の感じの建物

旅している気分になれる






そしてヤシの木の並木

マイアミは行ったことがないけど本場もこんな感じか

ここはマイハマ





豪華客船

タイタニック号の姉妹客船

飛行機の旅行より船の旅行の方が旅の王道だという








ビックサンダーマウンテン

富士山を見るようにテンションが上がります

角度を変えると表情が変わるのが好きです






海岸沿いを走る

自転車で海まできた

この辺から暑くなってくる






日影を探すも何も無い

ヤシの木は細すぎる

セミの声は聞こえない






この辺で海風に吹かれながら涼もうと思ったが

予想以上に暑くなった

雲が有ると日影になっていいのだが



そうだ、ホテル街しかない



ホテルが日除けになる

日影はこの通りにしかない

蚊に喰われ居心地がよくない



諦めて隣の臨海公園へ移動



橋を渡り葛西臨海公園へ

日影と自販機がある

こっちの方が快適だ




つづく





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2023年夏休み(3

2023-08-29 | 名所
つづき



リゾートぽい所を探す

水族願の白いテントとヤシの木がいい

水上バスの待合所がいい感じだった





日影でオーシャンビュー

人がいないのでプライベートビーチ状態

最高

あとは妄想でリゾートを楽しむ







他にもいろいろいい場所はある

建物は有名建築家がデザインしたものが多々ある


そろそろ帰国

その前に、公園限定のアイスを食す






サイクリングロードに出ると「虹」が出ていた

晴れているのに

半分だから2時半か






進むにつれて左半分が見えてきた

こんなことってある?

向こう側は雨なのかな







帰りは追い風

2倍くらい違う

山だと下り坂みたいなイメージ







妙見島の辺りから入る堅川の水門が撤去され埋め立てられていた

ブラタモリで初めて知った、銚子と江戸を結ぶ水路

途中で水上エレベーターもある川が歴史に幕を閉じた感じ






最後にあのハート形の木はどうなったのか?

まだありました

逆光で撮りずらいけどビフォーアフター

煙突がすっかりなくなりました

裏から見るとそうでもないけど

こっちから見ると❤




無事に帰国

約70K、ペットボトル4本

トイレに一度も行かなかないですむ

以上、2023年夏休みでした
















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25周年記念にうまいもんを

2023-08-01 | 名所


おかげさまで25年を迎えることができました(7.31)

感謝

記念に高級料理を体験してきました

題して『食のエンターテインメント』

人生2度目の経験


とある松戸の

京料理を軸にした創作系のお店

一皿づつ出てくるスタイルです




内暖簾をくぐり

カウンターへ



『瓜とズッキーニのカニあんかけ』





肝心の一皿目(一枚目)を撮るのを忘れる

(ニシンとナスのなんとか
 鰊と茄子は秋の出会いもん)



緊張気味だったのか無心経に食べてしまった


最初と〆は大事なのに



ズッキーニはもはや和食でも普通に使われる食材とのこと

本物のカニは本物

TVなんかではカニカマと区別できない人がいるが

日本のカニカマ加工技術はあなどれないとのこと






参ノ皿


『サクラマスの低温調理』



黒酢とモロヘイヤソース

緑と赤のコンストラスト

濃い緑の色合いはモロヘイヤならではのこと



低温調理法は最近聞いたトレンドな調理法

焼・蒸・炒・揚・茹・煮・和以外の技法

生とも焼きとも違うような新感覚

初体験







肆ノ皿


『カニ』


カニのジュレ?


食べ方が分からず訊くと

『しゃぶる』とのこと

甲羅の隙間から旨味エキスが出てくる

もちろん甲羅は食べれません





伍ノ皿


『鯛と貝と本わさび』



わさびはちょうど県民ショーでもやっていたネタ

伊豆と富士山が二大産地

それをサメの肌でおろす

静岡県民が言うには辛みの中に絶妙な味わいがあるという


貝の名前は忘れたけどかなりレアな品




そもそも魚も貝も元の形を実はよく知らないでいる

鮨を食べる時は身しか出てこないので本体を知らないまま

貝殻と一緒に出てくる意味がやっと分かった

「こういう形をしているんだ」という感心が大切









『土瓶蒸し』とすだち




漫画で見たやつ初体験

土瓶蒸しといったら『松茸と鱧』が定番とのこと
(出合いもの)

漫画ではこの組み合わせを超えるモノは無いと言っていたが

みごとに他の白身魚で成立

守破離


まずは出汁の味を楽しむ

そこから松茸と白身と銀杏を楽しむ

すだちの柑橘系で味変


秋の走り♪


海の幸と山の幸のコラボレーション!












漆ノ皿


『鯛の兜焼き』




魚の頭の料理を見るたびに思い出すのが子供の頃

ブリの頭しか入っていない鍋がショックだった

魚の身じゃなく頭の方を食べるなんて、なんてうちはビンボーなんだと思った

眼玉まで入ってグロテックス、骨は邪魔だしありえなかった思い出がある


大人になって分かるのが魚でしょうか


頭はどこまで食べていいのかが分からなかった

この後、残った骨に出汁をかけて飲むのであった

骨からまた出汁がとれるなんて

新しい発見、体験









捌ノ皿


『そうめん』



トマトとオクラのすりつぶしかけ



自分でもネギを細かく切ったことがあるので大変さが分かる

コツを聞いたら切れる包丁と細いネギとのこと

当たり前だけど、いつも苦労して切っていたのはこれより太いから切りずらかった

そもそも薬味に使っていたのが万王ネギや小葱で種類が違ってたのかも



編集していて気が付いたのが

器の色と形の組み合わせ

和食は洋食に比べ地味といわれるけどそんなことはない

白い皿よりも食材が引き立っていると思う

料理と器を楽しめるのが日本料理のいいところ


和食は世界遺産です







玖ノ皿


『キスとアワビの天ぷら』




キスの上に乗っているのはカラスミ

カラスミの塩っけと白身のたんぱくのハーモニー


さっきの松茸の写真は撮れなかったけど

手前のアワビと同じくらい肉厚でした

アワビも松茸も薄っぺらいのしか食べたことがないのでゴージャス気分

こういう所でしか体験できないかも








拾ノ皿


『ハタの煮つけ』




これも漫画で知っていた九州の『クエ』

『アラ』とも呼ばれ勘違いされやすい魚

ハタハタなんかとも間違えやすい名前だけど高級魚


白いご飯が欲しくなる~~

ちゃんと白米をいただきました


うちの母親はこの煮汁をご飯にかけて食べるのが好きです

白いご飯に関しては人それぞれ論がありまが

食べ物で誰かを思い出すのも食ならではなのかもですね


(この日は店主の父親の11回忌でありこの煮魚が大好物だったとのこと)









食後のデザート



『マンゴーと桃のスウィーツ』



果物×果物

桃をすりつぶすなんて


まさに常識とは思考停止であり、発想とは既存の素材と素材の化合物

やりすぎ都市伝説でのアップルマンゴーのエピソードを思い出す
「僕のビジネスのルーツはアップルマンゴーなんですよ!北国のりんごと南国のマンゴーという対極にあるものをかけ合わせて、新しい物を作るこれがビジネスだよ!」
これに感銘を受けたのがSジョブスでのちにIPadを作ったとのこと


凄かった、これぞ創作系の真骨頂




なんだかんだ二時間くらい

コンサートや映画を鑑賞し終わったかのような時間を過ごした

カウンターでの食事はLIVEでの超特等席

仕入れから仕込み調理配膳まで店主が一人で仕事し接客までしてくれる

これぞ食のエンターテインメント!


ごちそうさまでした♪








ちょうど店を出た時には雨が止む

さっきまでいた松戸方面だけは晴れているが東京方面には稲光が見えた

天にも祝福された気分

なんかついていたな~と思うだけでもいい25周年記念日でした



次の30周年目指してGO!































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南極観測船「宗谷」へ

2023-05-20 | 名所



映画「南極物語」に感化され、お台場にある「宗谷」を見学しました

映画はなんとなく知っている程度だったのだが

改めて観るとほんと凄い

日本で初めて南極大陸に挑むのも偉業なんだけど

南極で犬のロケもほんと大変だと思った

1958年(昭和32)の実話を25年後の1985年(昭和58)に映画化

昭和30年代のテクノロジーで極寒の地へ行くのは北海道に行くのと全然違う

その10年後に人類は宇宙に出て月に降りるんだけど

そのくらいの偉業に思える






元々は南極観測用に造られたものではなく

戦前に造られ戦時中は特務艦として活躍し

戦後は外地の引き揚げ組を乗せて任務を終える

その後大改造が行われ南極観測船となる経緯


船内へ



士官の食堂

食堂は2か所あり調理室は別にある

乗組員は100人以上いるので

作る方も大変だったと思われる




当時の水と食料はちゃんと計算されて持って行ったもよう

戦時中は現地調達と無理難題がしいられた

飲み水は南極の氷も溶かして利用された

日本の名水は赤道を越えても腐らないといわれるほど定評があったらしい




当時の防寒服

防水機能とか保温機能はどんなレベルだったのか?

濡れたり汗をかくと大変な事に





部屋は個室と2段ベットが主

海賊のように大部屋でハンモックでは寝ていなかった

缶ピースのたばこは映画でも使用





観測隊員の食堂室

このころにはすでに冷蔵庫があったのか?

テレビ・冷蔵庫・クーラーの三種の神器が普及したのが30年代後半



下にエンジンルームがありエンジンの説明がある



8気筒のディーゼルエンジン(新潟のメーカー)

これが南極の氷を裂いて進むパワーの源

補給はどうしていたのだろうか?

説明を見逃した




食料の倉庫も大事

糧食小出庫と冷凍小出庫がある

130人分の命の源

オーストラリアかニュージーランドで補給できたらいいけど

戦後10年だとまだ日本の評判はよくないはず

ほんと、どうしていたのだろう??





調理室

ずいぶん薄着なような

芸人の小堺さんのお父さんも乗ったことがあるようです




日本から南極へ船で行くには

寒さ対策だけでなく暑さ対策も必要

なぜならば赤道も越えないとならないからだ

南極と赤道の温度差はいかに





そして忘れてはならないのは「タロとジロ」

2匹しかいないのではなく生き残ったのがこの2匹

10匹以上はいたんだけど南極において引き上げたのでした

この話がまた泣ける





通路はこんな感じでそんなに狭くはない

もちろん、トイレもお風呂場も完備

無いモノはなんだろう?





医務室もちゃんとある

医師免許を持った人も乗組員

マルチナ才能が求められる




通信室もある

情報は大事

インターネットやGPSは軍事技術からの払い下げ

まだこの時代はないけど

通信伝達はいつの時代も欠かせないものだ

(東京タワーの完成は翌年の昭和33年)





犬はいるのに猫は?

ちゃんといました、三毛猫のタケシ

あ、こたつは見かけませんでした

各部屋に暖房器具は見かけなかった




スクリューの展示はデッキに

飛行機はプロペラだけど2つあった方が安定感はあるかも

二つあれば一つ壊れてもなんとかなるのかな


2つあった方が曲がる進路変更が容易になる





船長室

個室だけどそんなに特別ではないようだけど

操舵室に近い場所にある





操舵室

飛行機で言うコクピットであり電車の運転席な場所

船の花形はここ




いろいろとメーターだらけ

風とか速度を表示

当たり前だけどアナログ、デジタルはまだない

面舵とか取舵などは日本語表記

取り舵の取は「酉」で西の方向の左の方角をさす

海洋民族ならではの日本の表現





海図室

現代だとナビケーション

なんと「神棚」もある

宗谷神社といい強運の船として崇められている

戦時中も沈まないで生き延びたからかなりの運を持っている




ここ

高い位置で操縦するんだけど船長が操縦するわけではない

船長は命令をするポジション

他の乗り物とは違う




甲板はヘリコプターが停まれるようになっている

ヘリとか戦車があれば犬ソリは使わないで良かったと思うけど

バンエイ馬をなぜ使わなかったのか?

犬だったからこそ南極で生き延びれたのかな




タイタニック号じゃないけど予備の船も完備

万が一のために備えは必要

大量の人とモノを運ぶのは船が一番なのかも

氷の海に落ちたら一発で体温が奪われ泳いでいられない




以上

見落としはあると思うが

宗谷でした

















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神仏習合名残ポタリング

2023-04-22 | 名所
日本の神社仏閣の歴史

神仏習合の時代が長かったんだけど

神道と仏教が一緒なのを否定

でも奈良平安鎌倉室町江戸時代には存在していた事実

今回はその名残探索


といっても今回は偶然に巡り会っただけ

なんとなく引っかかる神社仏閣に寄ってみたらそういうことだったのだ







①流山市西深井にある『浄観寺(じょうかんじ)』

真言宗豊山派。新龍山

江戸時代初期創建

本尊は薬師瑠璃光如来






同じ敷地内に神社らしきものが

水桶には『卍』のマーク

鈴が鰐口になっている

ご本尊が不明で他にも祠がある

そもそもお寺と神社の見極めは難しい

建物のスタイルより何を祭っているのかが大事

鳥居はない


本来の神道は自然崇拝が基本

先祖崇拝の流れで人を祭るようになったとか

そこに仏教が混ざっていく

ロックンロール







②流山市平方の香取神社(経津主命)

創建は不明だが明治維新前にはあった

2の鳥居まである村社格





拝殿がお寺のスタイルなのが珍しい

元々はお寺だったのか?

神紋の三つ巴も少し特殊




社殿のリフォームの記念碑があるのだがよく分からない

なんでお寺っぽいスタイルにしたのか?


平方には『福性寺』という真言宗豊山派の寺院がある

ところがもう一つ同名の『福性寺』が存在するも

情報がない

この辺一帯が寺の領土だったのか?

それともグーグルマップの誤植か?







③江戸川区一之江の第六天宮

入口の表札には妙覚寺の名前がる

別当院

妙覚寺は、弘安7年(1284)等覚院日全上人が開山





境内には鳥居があるも狛犬は見当たらない

第六天とは第六天魔王

仏教系なので廃仏毀釈されていることが多い





神紋は九曜紋

九曜紋といったら平家の千葉一族に多く見られる

妙覚寺は日蓮宗でやはり千葉一族

妙見菩薩を信仰し旧江戸川の妙見島も関係があるとのこと

妙見神社なども同じく仏教色が強いので替えられた神社は多い


お宮の名が残っているのは珍しい









④同じく江戸川区二之江の『妙勝寺』

徳治2年(1307)に開山

起源によれば妙見社を祭ったのが始まり

平家の末柄が建てたとされる

水神宮と妙見社があったが習合色は見られない寺

隣に二之江神社がある





妙勝寺にあった八幡神社とここにあった香取神社とを合祀し

⑤二之江神社と改名


神様と神様を合わせるのは合祀で、仏様と神様を合わせるのを習合という

明治時代に神仏分離し現代にいたる


この周辺は妙の付く寺が意外に多い

妙見信仰と関連がありそう














⑥流山市三輪野山の茂呂神社

江戸時代の地図には『三輪大明神』と表記されている

古くは神宮寺もありは、坂道に『神宮寺坂』とグーグルマップに載っている

平安時代の延喜式神名帳の載っているから習合していなかったと思いきや

たしかにあるはずの狛犬が見当たらない

拝殿は寺みたいでもある





気になるのは屋根の千木と鰹木

基本的には『外削ぎは祭神が男神であり、内削ぎは祭神が女神になっている』とされ

出雲系の大国主は男性で、伊勢系の天照大神は女性

本殿が神明造りになっている


鰹木の本数は『奇数は男神、偶数は女神』とされ

7本なので男性

・・・例外もあるらしいのだが例外の方が特異性が高そう





まとめ

①は同じ敷地内で神社と寺を分離

⓶は神社に寺の名残

➂は寺に神社の名残

⓸は寺から神社を分離

⑤は隣の敷地に分離された神社

⑥は神社から寺を分離


明治維新後に神仏分離で廃寺になったのが多いときく

神社も多いので合祀したり

廃仏毀釈で神社だけを残し改名して今に至っている


神社とお寺は昔から変わらずあるから尊いと思っていたけど

実はいろいろと時代背景に反映されていたのだ

神社やお寺に感じていた不自然さの正体

自然崇拝⇒仏教伝来⇒神仏習合⇒神仏分離⇒国家神道⇒宗教の自由

日本は一神教ではなく『八百万の神』という感覚は昔も今も変わってないような気がする

それを無宗教というのは違うと思う



今回は流山市と江戸川区の2か所を周ったのだが

江戸川サイクリングロードを葛西臨海公園へ向かったのだが

風が強く途中から街中を走る途中に見つけました


流山は清水公園へ行った帰りに街中を走り見つけたのでした

『見つけたと』いう表現は、同じ神社仏閣でもなんか違う感覚

『ここはなんかありそう』という珍しいものを発見するのが楽しい

この違和感に気づく勘覚が好きです


では















































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富士塚登山(松戸市編)

2023-03-15 | 名所
今回は松戸市内にある富士塚を3つ登ります

基本的に富士塚は『浅間神社(せんげん』にあるのですが

低い所も入れるといろんな神社にもあります




まずは

小山にある『浅間神社』へ

旧松戸街道と国道6号のクロスした場所に鎮座してます





標高20m

山の定義は難しいようですが

江戸川で削られた台地に形成された山

その影響か弁財天もあります


そして神紋が『左一つ巴』

白旗神社を合祀したからかは謎

(巴御前と関係があるのか??)




森の中を登る階段は天然記念物クラス(極相林)がひしめく

神秘感が増します

ちゃんと合目も記されています




途中に『猿』の石造があるが、申といったら山王(日枝神社)

お稲荷さんといったら『狐』が定番

ここは山の神を祭る系





山頂に到着

2匹とも子を抱える狛犬がお出迎え

『木花咲弥姫命』と『源義家』を祭るも組み合わせが気になる

木花咲弥姫命は『かぐや姫』のモデルとも言われる





『剣が峰』は本物の富士山にもある一番高い山

富士山とは複数の山の総称を呼ぶ

脇の祠に浅間神社の神紋が見られる

白旗神社の神紋が見つけられず

松戸市内で笹竜胆の家紋を見かけることは無いのは何でだろう?

家康と同じく武士の棟梁を祭るのはご法度なのか?

廃仏棄釈の影響はいかに












竹ヶ花へ


『雷電神社(らいでん)』

旧水戸街道ぞいに参道が北西から入ります

丘のような山のような古墳のような地形です




手水舎の龍が個性的

神紋は三つ巴

雷様といったら三つ巴の太鼓なイメージ






階段を上がります

五合目辺りに石造が並ぶ

稲荷は読めるが他は読めない






山頂に到着

標高16mくらい

それなりに広いスペースになっている

参拝し横の塚へ

今回は富士塚が主





浅間神社です

脇にも祠があるが読めず

何故か傾いている


噴火石が富士ぽくもありここだけ盛った感じもある

でもこの山全体が富士塚と認識されている

地図には認識されていないのはなんでだろう






山頂は平らになっていて見晴らしもいいが住宅街

下山ルートが山道そのもそ

雨の日は危険





途中に石造があり大天狗、小天狗など書かれている

『御嶽石尊大権現』は富士塚にそこそこ祭られているが

本来は大山阿夫利神社にあるらしい

大山祇神は父なのでややこしい

5合目に当たるこの辺が小天狗か

(神仏分離したので神仏習合の時代と混乱)




隣に公園があり出ると作があり竹が植わっていた

これが名の由来、竹が花?

『はまのこどもの遊び場』という『はま』の意味も気になる




竹ヶ花湧水公園は隣だけど

ここにも池らしきものがある

弁天様かと思ったら弘法大師様が祭られていた

廃止されて寺があったのかな?





根本へ


金山神社

JRと新京成線に挟まれた三角地帯

参道が歩道橋なのは珍しい




妙見社があるが元々あったのか?移転してきたかは謎

妙見の傍に千葉氏あり

この辺一帯が『根本城』だったといわれるが

鉄道と宅地造成で面影が消えつつある


『清水』とある、こっちが今回のメイン

『冨士溝』という山岳信仰の一つ

富士山に登った人たちが記念に石造を作る風習がある

このツアーガイドをする人を『御師』とよぶ






5合目に『金山神社本殿』

単純に金が埋蔵されているんじゃないかと思うけど

『金山大権現(金山比古命)』は鉱山や鍛冶の神とされる


弘法大師、水戸黄門や松平定信の伝承がある

彫刻もしっかりされているので『かくれざとう』の伝説も信憑性を増す

その場所がどこだったのか?が今一番気になる問題





竜ではなく獅子?

黄金の獅子のイメージか

小金や金町がるとなると金の根元はここか


山頂へ


見晴らしのいい場所

標高19m弱

富士山の方角はマンションでカット




富士嶽浅間大神

記念碑がたくさんあり富士山愛がたまらない

下山は裏のルート





小御嶽大神

小天狗みたいなものなのか?


そして三峯神社・・・なぜ

山つながりだけど

祠らしい洞窟はみつからず・・


(三峯神社には『盗賊除け』のご利益あり)







こんな感じにちゃんと5合目とかの印はある

表は階段道だけどうらは土道で8の字のような

一筆書きで周れるのかな






山頂は浅間神社なのだが下の鳥居は金山神社と表記

合祀していないのか?そもそも別別なのか?

こうやってみると富士塚があるとは誰も思わない

山岳信仰は修験道要素が強いので奨励されていないのかも



ここは『かくれざとう』の伝説の地

この山のどこかに隠れて一本の木から薬師如来像を3つ彫ったとのこと

それが地名の由来になる根本・中根・浦部の寺に奉納されている


富士塚は江戸時代に流行った新興宗教

その前は城だったとすると隠れ座頭の穴はすでに消滅しているかも

池田弁天が水源地で

武器の製造地はこの金山なのか?

鍛冶山の地名は岩瀬に2つあるが特定できず


ここを中心に西に金町、北に小金と、東に鎌ケ谷と金の付く地名があるのは偶然ではないような



おまけだけど



隣の『岩山稲荷神社』

名前はお稲荷さんだが溶岩が積まれている

富士塚ぽい







伏見稲荷も山にあるから問題はないけど

何かしらの意味はあるように思える









































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馬橋三ヶ月城考察

2023-01-03 | 名所
通説では、馬橋城(小金城)は三中のところか

三ヶ月の三日月神社の北側の台地と言われる

三中の南竜房の地名の周りには城之腰や城之越という地名が残る

しかし三ヶ月の方には城らしき地名は作台や上ノ台といった感じ







唯一の手がかりは三日月神社にある石碑の文献

【1198年に千葉頼胤が三ヶ月台にお城を築かれた鬼門にこの神社を祭ったとされる】

千葉氏といったら妙見神社なんだけど、神紋も違う




今は高台に鎮座する感じだが昔は神社の高さの台地だったとのこと

昭和の区画整理で台地は削られ新しい道ができる

この状態で昔を想像するのは難しい




北向いのマンションの方が島谷台といい

お城の推定場所となっている

鬼門といったら北東が一般的なのだが??






純粋に神社の南西の位置は線路の方になってしまう

JRの地下通路のあたりより南

西の平地に館を構えるものか?

三ケ月台は高台のことだけど

三ヶ月は今の西馬橋1丁目までの範囲なので間違いないけど

腑に落ちない





白くなっているのが整地された場所

6号線に向け上り坂に



昔の名残を見つけるのは難しい

神社の位置は変わっていないはずだけど情報が乏しい

スーパーマーケットの辺りが作台で三ヶ月台の小字名が残る場所

遺跡が出ていないのが怪しく思う






ところ変わって『蘇羽鷹神社』

この神社の名も特殊で側高神社と同じとされ

香取神宮第一の摂社といい歴史はかなり古い系

蘇羽鷹神社は『光明寺』の別当寺ともいわれ萬満寺系ではない


ここに千葉頼胤の居館が二ツ木台にあったと記される

蘇羽鷹神社は萬満寺の鬼門に位置する

おそらくだけど三ケ月台と二ツ木台は同じ高台エリアを指すのだと思う

今も三ヶ月と二ツ木の境界線はややこしい

(余談だかフタツギとミツキがややこしくてミコゼに訛ったのかも)






そして萬満寺

【1256年に小金城主の千葉頼胤が大日寺を建てたのが始まりとされる】

1198年と1256年とでは58年の差がある

三日月神社の方が古い

すると蘇羽鷹神社はその後か同じくらいに建てたこととなる


この千葉頼胤は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。千葉氏の第8代当主。とあり

1239年~1275年まで生存(三日月神社と年代が合わない)

鎌倉中期は執権北条の時代

1274年と1281年に元寇があり九州に遠征

佐賀県の小城市に三日月町の地名があり肥前千葉城も今に残る

その本城の北に妙見社(遺跡)があるので間違いない


熊本にも千葉城があり千葉氏の勢力は広がったが

身内同士の内紛があり千葉氏は滅んでいったらしい

代わって原氏、高城氏が住み着く





松戸の小金城(大谷口城)といったら高城氏が有名で千葉氏の一族ともされる

戦国時代に佐賀の千葉城の出身で松戸の栗ヶ沢に移転してくる

その頃には馬橋城はなくなっている

松戸市周辺は戦国時代のこの大谷口城の出城が多く残る


天守閣のあるお城は信長の時代からとされる

それまでの城というのは館とか砦のようなもの

鎌倉初期はお寺のような造りが主流


鎌倉城があったのかというと無くて

鎌倉の街が山に囲まれていて町自体がお城のような役割

京都の町も山に囲まれているので中国のような城壁はないのが日本流

山城スタイルは戦国時代から主流になる


三中の所も山とは言わないが高台に囲まれ前に川がある地形

プラタモリで見た足利本家の地形と似ている

鎌倉よりも鎌倉時代のものが残っているのが足利というけど

松戸には平安・鎌倉時代の情報が乏しく

博物館は室町時代から登場する

縄文・古墳時代の情報は多いが奈良時代からは空白に近い





三ヶ月は地元では『城山(ジョウヤマ)』と言い伝えられる高台

高台に人が住み着くには『水』が必要

王子神社に『当時は水の乏しい砂丘で諏訪神社を誘致した』と記されている

島谷とか入谷津などの地名があると当時は入江みたいな地形だったのかも

川の近くに館をかまえたとなると水運の利権をおさえていたのかもしれない

となると、鬼門に三日月神社という信憑性が怪しい

大日寺(太陽)、三日月神社(月)、蘇羽鷹神社が星ならば

神紋の三光紋(月星)となるのだが

妙見神社は中根にあり直線で並んでしまう・・・

実は北斗七星の配置が鬼門除けとするのかも?


南から

明治神社・妙見神社・萬満寺・三日月神社・蘇羽鷹神社・光明寺・福昌寺

明治神社は昔は妙見社で福昌寺は広徳寺の末寺

赤城神社が幸谷城の説もあり福昌寺系なら配置的なら赤城神社

三中からは西に結界を張ったように見える


調査はづづく



















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旧水戸街道考察(馬橋編)

2022-12-30 | 名所
旧水戸街道が萬満寺の前で右折するのなんでだろう?

千住宿から松戸宿までほぼ坂道のない平坦道も

この馬橋から坂を上りまた下り再び上って

小金宿に行くルートになったのだろうか?



左折して今の新松戸の方から坂一つ上れば行けるのに

あえて難所の道を選んだのか?

下総台地の入口はこの萬満寺前からはじまる








万満寺門前町はほぼ南北を結ぶ直線

浅草寺の雷門前も旧水戸街道で右折するのと似ている

浅草寺と同じ役割が万満寺にあったのだと思える


右折すると


バス停のところに『厳島弁財天』がある

小字名『弁天』という地名が残るほどの神社だけど

池もなくなり小さくなってしまった


ここから坂を上っていく


江戸見坂と言われるが、江戸はかなり左の方

最近だとスカイツリーの方角が江戸城

富士山の方が見えたのではないかと思われる

(坂の上から萬満寺方面、11.9m).






八ヶ崎の交差点に『水戸街道』の道標がある

ここで印西に行く道と水戸に行く道に分かれる

壱里塚もあり『蘇羽鷹神社』までは国道6号と同じ道





二ツ木の交差点辺りが坂の頂点(標高24m)

昔は三ヶ月もここと同じくらいの丘だったようで

土地開拓で坂道にしたもよう




蘇羽鷹神社前で国道6号と分れる

ここから下り坂

この蘇羽鷹神社を通る意味はあるのだろうか?

神社のところは縄文遺跡でかなり古くからある




2つめの道路標識

ここで八ヶ崎・三ヶ月・二ツ木の台地が終わる

わざわざこの高台を上ったのが今回の謎

ここから下りまた小金の坂を上がる




直線ではなく少しカーブして下る

国道6の方は人工だけど、この道は自然にできたものなのか?







ここが坂の一番下、ここから再び上り坂になる

スリバチの底はだいたい水路がある

ここまでなら平坦道で来れるルートがある




この道が古道

国道で遮断されて通れなくなった道

萬満寺を左から三ヶ月の丘を迂回するルートは存在していた


なのに、一山超えるようなルートにしたのだろうが?

なるべく楽で安全なルートの方がいいと思うのだが




ま、平面の地図だと右から行っても左から行っても

距離的には大差はないように見えるけど

高低差からいったらなるべく坂は上りたくない

下るのも大変




萬満寺の裏は城山とよばれる高台になっていた

60年代に宅地開拓で山が削られた

そこに千葉頼胤の館があったとされるが遺跡はなかったらしい

(元祖小金城はここだったともいわれる)

萬満寺(大日寺)、蘇羽鷹神社、三日月神社は鎌倉時代創建


旧水戸海道は鎌倉街道の下ノ道だともいわれる



萬満寺の横にある王子神社に当時の馬橋の様子が記されている

『馬橋一帯は砂丘で水が乏しかったため諏訪神社を歓請』

砂丘なのに水が乏しい?というのは砂漠のようなイメージか??

この先の横須賀まで砂洲だったら歩けないから坂を上がっていったのかも

江戸時代とは地形が違っていたと思われる

(長津川があるので津の可能性もあり茜津驛の候補地)


江戸川じたいも江戸時代に人工に造られた川という

古くは太日川(ふといがわ)と呼ばれていた

太日の由来が大日寺だったら?ここ馬橋は重要な地なはずだけど

鰭ヶ崎の東福寺の方が歴史は古いので違うかも



新しい情報が入り次第追記

では




























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高輪ゲートウェイ駅探見

2022-10-26 | 名所
久しぶりに電車に乗りました
(今年初)

今年は鉄道開業150年

今頃ですが高縄ゲートウェイ駅へ



駅構内は吹き抜けの明るい感じ

天気の心配はいらなさそう

設計者は隈研吾

木材を使うのが特徴

国立競技場も彼の作




二階が入口でまだ一ヵ所しかなく

構内もまだ未完成


改札口はJRぽい




エキナカは無人場売店のみ

窓口には人はいる


スタバがあるも



いったん外に出なくてはならない

微妙なエキソトナカ

商魂が排除されている




傘のサービスとコインロッカーのサービスはある

公衆電話は見つけられなかった

今どき





インフォメーションサービスはタッチパネルのガイダンス

一番必要なのはトイレかな

ベンチは木目




トイレもおしゃれ

昔の黒い壁のような便器ではない

トイレと言ったらタイルが常識だったような




くつろげるスペースは展望テラスの前

外には出られないがレインボーブリッチが見えた

電車好きは電車を眺める


1階へ


電車のホームは一階

東京上野方面

京浜急行は坂を上っていく




品川渋谷方面

いずれ品川駅と一体化されるらしい

駅前は開発中




エキナカもそろそろ完成しそうなところもある

まだ乗車人数が少ないから大丈夫そう

いずれは人だらけになるのか




気になる柱を発見

なんの扉?

意味はありそう




他にはモニターが縦型に2つ

ブラウン管時代は横だったような


ラッシュ?

混み具合もこれを見れば対応できそう




その他、今流行りのピアノ

ご自由にどうぞなやつ

あとは大きいモニター

映像は必需

正面は見ずらいけど横から見やすい工夫




そして最後に

『駅名』が書いてある看板が少ない

昔だと柱や吊るした看板があったけど

完全に完成してから付けるのかな?

唯一無二なので書かなくても認識できるのか?

3年後にどうかわるのか楽しみ

では




















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ライズツアー(水元公園編)前半

2022-09-27 | 名所


今回は近場の水元公園へ

片道10kで園内を散策すると往復27kくらいなコース

ちょっとした避暑地でもあります


葛飾橋から右折して

金町関所跡の方から坂を下って向かいます

オニバス池口からIN


はす池

菖蒲が終わると蓮の季節

泥でも咲く花は美しい




今回は『小合溜』を一周します

水元公園は都内最大級の広さです

自転車も走れるのがいい





菖蒲園エリアを抜け橋へ

水元大橋

橋の西の方が『釣り堀エリア』

東は三郷公園




噴水広場

売店と近くに食事処がある

トイレは色々とあるので安心


ポプラ並木



水元公園の見どころは森林

特に『メタセコイア』は生きた化石と言われるくらい希少

個人的にもお気に入りのエリア




森林道がつづく

夏は日蔭でいいです

烏がうるさいですけど






道は学習が必要







場所によっては通行止めに

※スズメバチ注意







小合溜は『S字』になっているのでショートカットもできる

キャンプ広場やバーべキュー広場もあるので

この辺で折り返すのもいい

(中央広場一周)








橋のところに『カワセミの里』

カワセミの池がある

水元公園はバードウォッチングも有名

(カワセミを見てみたいです)





公園の出口





つづく












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ライズツアー(水元公園)後半

2022-09-20 | 名所
つづき



閘門橋

明治のレンガつくり

土木建築文化遺産





埼玉県

大場川沿いを進む

『鎌倉』の地名の名が残る

葛飾区の方にも鎌倉があるけど関連性は如何に




旧有料橋(上葛飾橋)からくるとこの道が近い

埼玉側から水元公園に入る道は限られている

間に橋があるといいのだが


疲れていたら

ここからダイそーやホームセンターに向かい

上葛飾橋で帰れる




この辺から道が狭くなる

車道は狭いのであえて抜け道を

川沿いの道がある所と無い所がある





久兵衛通りから右折

小合溜沿いを走る

町工場の多いエリア







三郷公園入口

最初はここも水元公園だと思いました

こっち側の公園もなかなかいいです




桜の時期が最高です

広場も充実

向こう側に見えるのが水元公園





水元公園とはここで合流

閘門橋からここまで水元公園にはアクセスできません

この辺の県境は曖昧なんだそうです




一周しました

ま、一周しなくてもいいけどなんとなく

疲れたので休憩





今回のベストポジション

日蔭で風通しのいい所

人気が無くて最高でした


(べスポジを求め園内を散策するのもお勧め)




その他、時間があれば

『しばられ地蔵』の南蔵院と

ボルダリングの『クライミングセンター』をおさえるといいです


では
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松戸神社①

2022-07-01 | 名所
今回は松戸神社の探索


前回は『虎』探したのですが見つからず


今回のテーマはなぜ『フクロウ』?




基本的情報は

1626年創建のヤマトタケルを祭る神社

古くは『御嶽権現社』で木曽の御嶽山をご神体とする

明治の神仏分離で松戸神社に改名

鳥居は伊勢神宮系の神明タイプ







古地図で確認できるのは

・御嶽権現(松戸神社)

・秋葉(秋葉神社)

・松尾(松尾神社)

・庚申(庚申塔)

・痘瘡(痘瘡神)

配置が正確なのかは不明







正面参道は西側の旧水戸街道沿いから

二の鳥居の右の灯篭に注目

左は『∴』だが右は『∵』

ここだけ唯一さかさま

なぜなのかは不明

戦前の写真はちゃんと『∴』になっている





橋の名は『潜龍橋』

由来は不明

境内で唯一『朱色』のデザイン

魔除けの意味合いかも?







橋を渡ると『手舎』

龍タイプは最近できた模様

見どころは屋根の方






『朱雀・玄武・青龍・白虎』の四神獣が揃う

虎を確認できるのは唯一ココ


風水の基本は

・北 玄武 黒 山 土

・東 青龍 青 川 水

・南 朱雀 赤 海 火

・西 白虎 白 道 木


陰陽五行だと、木火土金水

中央が麒麟 黄色 金 となるが

仏教は、空 風 火 水 地 を五要素とする


松戸神社のお祭りに四神像を祭る『神幸祭』がある





こちらがメインの松戸神社拝殿

境内の中心にはあるのだか

参道からの正面にはない

『天子南面』なんだけど微妙なズレ

なんでだろう

御嶽山に向いているのか?





参道からの正面は『秋葉神社』

ご祭神は『火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)』

『火伏の神』で静岡の秋葉山が本宮

東に配置され西に向く










その隣というか松戸神社の対面が『水神社』

水神と言ったら『亀・龍・蛇・河童』が眷属なんだけど『狛犬』

後から移転してきたと南に配置し西を向く


その横に『龍』のオブジェ

ご神水


最近は『蛍』の飼育をしている













そして隣は秋葉神社の対面が『金毘羅神社』(隣は市の神)

ご祭神は『大物主神』で香川県に本宮がある

金毘羅様はインドの神でワニの化身とされる

山の名は『象頭山』

金毘羅様は『船乗りの信仰』でもある

祠の中には『天狗の面』が奉納されている

秋葉神社も天狗と関連がある・・・


ここで気づいた人もいると思うけど

木・火・水・金とくれば『土』はどこ?


水神さん以外は『山岳系の神社』

『日本においては水神は田の神と結びついた。田の神と結びついた水神は、田のそばや用水路沿いに祀られていることが多い。』

『また、水源地に祀られる水神(水分神(みくまりのかみ))は山の神とも結びついている。農耕以外の日常生活で使用する水については、井戸・水汲み場に水神が祀られる。』ウキ情報


隣へ



松尾神社

『お酒』の神様で『亀』とリンクしている

古地図にも載っていて松戸神社の横隣なので重要度は高い




問題は対の



『フクロウ』のオブジェ

なぜフクロウなのかが今回のメインテーマ

鳥の仲間だけど、どこの眷属か不明


『ふくろうは「福来朗」や「不苦労」などの字があてられる幸運を呼ぶ吉鳥。 ヨーロッパでは知恵の象徴とされています。 取り囲む花々も縁起の良い意味を持っています』
『ふくろうは漢字で書くと「梟」ですが、「木」の上に「鳥」の略体が使われているのは、昔、ふくろうの死骸を木の上にさらして、小鳥を脅したことに由来する』とのこと



松戸神社の日本武尊は『白鳥』


前回はこの亀・鳥・竜があるから『虎』があるはずと探した

亀は黒ポイ石で鳥は赤ぽい石で竜は青っぽい石だとすると

白っぽい石の虎があるはずだとにらんだのだが・・・

唯一虎がいない、見つけられず




本殿の扉には

なぜか北側に『青龍門』

西側に『白虎門』(消えかかっている?消したのか?)

北側に神田川が流れ、西に水戸街道があるからそうしたと推測する

山は東側にあるので玄武だと思うが無い


間違いなく風水を意識している神社

『土』『虎』はどこ?

『戊寅(つちのえとら、ぼどのとら、ぼいん)は、干支の一つ。
干支の組み合わせの15番目で、前は丁丑、次は己卯である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の寅は陽の木で、相剋(木剋土)である。』


秋葉神社の火之迦具土大神の名に土はあるが


つづく













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