ライズ外伝

仕事以外の趣味のコーナーです。
主にお出かけが多いです。
ポタリングしてます。

旧水戸街道ポタリング(元旧道編)前

2018-11-24 | 道中





『元々はこっちの道でした』と聴いたら

行きたくなるのが心情

我孫子宿から布佐・布川まで行ってきます





江戸時代の初期といったら

まだ利根川を銚子まで工事中

利根川が完成して取手ルートが確立


それまでは布佐→布川→竜ケ崎のルートとなると

戦国時代にも存在していた道ということ

我孫子市には『かまくら道』も将門ゆかりもあるので

かなり古くから存在していた街となる





左は取手、右は成田

石碑には『成田道』

成田山新勝寺は将門討伐のために建てられた寺とされる






『子の神』とは『子之神将』で大黒様と一緒に祭っているようです

足腰に病に効果のある信仰といわれます

右へ行くと市役所があり手賀大橋





成田まで40kくらい

高野山(こうのやま)

この辺りから難読の地名が続く





並木を見かけると古道感がます

『冠水注意』

基本は尾根道を走っているのだが

少し低い所に水が溜まるようです





東我孫子駅周辺は道を変更しています

『一里塚』があるのですが成田線を越えられなくなるので

富士見橋を渡る(富士山は見えない)

我孫子ゴルフ倶楽部はかなりの名門のようです





下ケ戸(さげと)

ガスタンクがでかい

下り坂






岡発戸(おかほっと)okahotto

坂がそこそこある


ほっと





坂を登ると

『都部(いちぶ)』

名前からして都ぽい

けど普通な感じ





『八坂神社』に立ち寄る

狛犬の耳が大きいのが特徴

敷地面積のわりには質素





『中峠(なかびょう)』

こちらの方が利根川沿いに『芝原城』があり

栄えていたような気がします






右に行くと『湖北駅』

左は古利根沼へ

古利根には茨城県の飛び地がある





根本とはあるが村としての名がないような

中峠宿通りも古地図には表記されていないけど

繁華街だったのは確かなようです







『一里塚』です

出発して2本目なので8k地点

湖北村は大きいけど明治22年になってから誕生(中里)

(なんと、マツモトキヨシはこの村の出身)





日秀(ひびり)の『首まがり地蔵』です

将門にゆかりのある寺なので成田の方角を拒否しているそうです

ここは『日秀観音』で、道の向いは古戸(ふるど)





『日秀』はかなり重要な地で

『相馬郡衙正倉院』があった跡地

南相馬郡の『於賦驛(おふ)』がここだったと推測されています


古代官道がここを通らない訳はないという理由

市川の下総国府からここを通って常陸国府の石岡へのルート

古代道は直線が基本なので井上・茜津・於賦が特定されやすいのだが

いまだに不明と決定的ではないようです


鎌倉時代に入ってからの『鎌倉道』もこの周辺で発見されています

でもかまくら道はかなり細い

手賀沼は水路だったのか?今の水戸街道を通ったのか?

正解が分からないのが楽しい


つづく
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旧水戸街道ポタリング(元旧道編)中

2018-11-23 | 道中
つづき




古代官道と驛は何処だったんだろうか?

日秀を通り石岡へ行ったのだろうか?

郡の重要な地は通ると思うのですが

『香取の海』はどんな規模だったのだろうか?

これぞ古代ロマン




日秀から『新木(あらき)』へ

旧名は『荒木村』

昔の名を中心にしなかったり変えるのはなんでだろう





坂を下り坂を登る

すると『葺不合神社(ふきあえず)』

元々は沖田村の弁財天だったようです





入口から下って入るのは個性的

本土寺も下って入るパターン

水没したら通れないんだけど


1186年の創建とあるが

葺不合神社の本殿は『奈良時代』の創紀とされている

元の葺不合神社はここから300m北東にあったという



この神社の彫刻は素晴らしい

岩井にある将門神社の彫刻に似ている

古そうだったけど明治に建て替えられたものらしい





となりの『長福寺』にも寄ってみる

ここも彫刻が施されている

作者は同じとのこと





新木も広い

『気象台記念公園』を通過


余談だが、今回の神社仏閣では

相馬霊場札所めぐりをしている人達をみかけた







『布佐』に入る

布佐も広い

木が多くなってきた






木の多い所は古民家や神社が多いはずだが

大きな唐獅子!と思ったらライオン

豪邸だった


(布佐の一里塚を見逃してしまった)





一里塚を過ぎると”竹内神社”

(竹内神社の創始は承平年中(931~938))

神社は離れていたので寄らず

柳田国男の碑があるらしい


坂を下る




『布佐愛宕八坂神社』

変則的な入口

八坂だけに坂の途中にあるのか


って、歴史的には『703年創設』とのこと

合祀して元の場所はちがう所

竹内神社と関連アリ





『延命寺』と『勝蔵院』を過ぎると『栄橋』

この辺りにお寺が集中している

1590年代の秀吉天下統一時モノ

江戸初期にあったと証明される道

(我孫子市も寺が経営する幼稚園を多くみかけた)


橋の所でとりあえずゴール


ここから利根川に出て渡し船で布川へ

行くのが元の水戸街道なのだが

江戸初期には香取の海はどうだったのか気になる

ここの低地も水の底だったのでは?

その頃はすでに陸だったのか?

成田までも陸路で行けたのか?

利根川を引く前の地形を知りたい


つづく
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旧水戸街道ポタリング(元旧道)後

2018-11-22 | 道中
つづき




布佐(ふさ)という名前、下『総』と関連があるのだろうか?

向い側は『布川』で西には『布施』がある

ここは北相馬郡と南相馬郡と印旛郡の狭間







利根川が銚子まで開通してから水運が発達

江戸に魚を送る道を『鮮魚街道』とよび

布佐の町が栄えた







布佐観音に到着

利根川が完成した江戸時代に

ここから松戸まで陸路で魚を運んでいました

布佐から水戸街道と鮮魚街道の2つのルートが存在

重要な拠点に思えます





そこから少し行くと『都(みやこ)』

簡単にこの名を付けていいのだろうか

京の都の東、東の京の都が東京都

単純に古代官道はココを通ったのだろうか?

・・・って、昭和に付いた地名でした





やはり橋のある辺りがメインな気がします

橋を渡り布川へ

昔は渡し船





取手とはやはり違う感じがする

でも橋を渡り右に行くのは同じ

松戸は川を渡って左折



北相馬郡布川村

内宿・浜宿・中宿・上柳宿・下柳宿などの

地名が残っている


偏見だが、昔は栄えていましたみたいな

取手に替えられてしまいました

でも元々はここでしたのような






が、イメージがなんか違う


しばらく走ると『柳田国男記念館』の文字が


行きます





古地図でもこの辺は大通りなのですが

普通な感じが・・

右折すると到着





柳田国男と言ったら民族学者で『遠野物語』が有名

オカルト研究のパイオニア的な存在の人物です

天狗やカッパ、座敷童、サンガ、マタギなどの研究の第一人者





自分もそういうのが大好きで

師匠と仰いでいます

まさかここで出会えるとは思いませんでした







記念館を後に帰る途中に気になる神社が

屋根が『矢印』とは面白く寄ってみる

するとなんと、鎌倉街道の情報が


鎌倉道は上道・中道・下道の3本があり

相模→下総→常陸のルートがここを通っていたということに

収穫がありました





途中に気になったたい焼き屋さんがあり変わり種を

『ピザたい焼き』

お好み焼きはいままであったがピザ風は初めて

チーズとウインナーとビザソースで・・・

発想が好きです



心残りは

『蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)』を見逃していた事

「みつち」神社ともいい、映画の『君の名は。』の

モデルにもなっているとのこと

関東の水宮では最古とされている神社


最古の神社と相馬郡衙があると古代道の確率は高い


なま街道も実は古代鎌倉道なのかも

平安時代の国分寺などは将門の乱で破壊されたとも言われる

武士政権になって武士が造った道と江戸時代にできた道は別

戦国時代は政治が安定していないので治水は行われていないはず

安定している時代だからこそ整備ができる


水戸街道は明治時代に『陸前浜街道』としてリニューアル

その後『国道6号』が別に出来て旧水戸街道となった

道の流れで街の発展が変わる

なんといっても鉄道の登場で大きく変わった


常磐線は水戸街道に沿ってひかれた

これまで水運で栄えていた街も鉄道により衰退

今は空の時代だけど空港が必ずしも栄えてはいない


では
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旧水戸街道ポタリング(下総編)壱

2018-11-02 | 道中




前回に引き続き『旧水戸街道』

今回は『松戸宿』から『取手宿』まで

明治の地図には松戸と市川が『驛』となっている


我孫子は『宿』だが小金は『町』

中新宿もあるが宿場町ではない

廃藩置県後に二転三転して県名が決まったようです


色んな疑問を見つけながらのスタート




金町の関所から江戸川を渡ると

是より『松戸宿』

御料と『江戸道』の字が気になる





本来ここがメインストリートなんだけど普通な感じがする

左折して大通りに出る

郵便局周辺に『本陣』があった





松戸神社の昔は『御嶽宮』で名前を変更

水戸黄門の弓が奉納されている

古民家が残っているが高層マンションも増えてきた






春雨橋を渡ったマンションの角に昔の松戸宿の図がある

納屋河岸の通りを過ぎ駅前の道へ


お寺もそこそこあり寺町的要素もある宿場町

古城もあるので城下町として機能していたようにも思える

間口が狭く奥行きのある店は秀吉以降に建てられたとされる








駅前の通りの角に水戸街道の説明がある

その次のあたりに一里塚があったらしいが名残はない

松戸宿は根本の手前まで

(吉祥寺に根元の由来の木像がある)


古代官道の茜津駅は松戸ではともいわれる

馬の津の郷か?待つの郷か?

更級日記に出てきたのが松戸の由来





真っすぐ進のだが鉄道が道を阻む

歩道橋を渡ると

竹ヶ花、南花島と華やかな村名がつらなる





道なりに進む

国道6号に出て合流

旧道は坂の無い低地を走る





6号線の右側は山になっていて神社や寺はそっちにある

高台の方が水が上がらないから適しているはずなんだけど

松戸宿から街道は低地を走るのが気になる


戦国時代は高台の方は出城の支城があり

道を監視していた可能性もある


鎌倉時代くらいまでさかのぼると

この辺は風早荘の上本郷で

風早神社に館があり中心地であったとされる


幕末には吉田松陰が逃げ込んだ寺もある





6号線の馬橋中根立体から左に入る


松戸の根本に対しここらを中根と呼ぶらしい

一本の木から先中本と3つに分けて3体の木像を作り

それぞれの寺に納めたといういわれがある


とすると先根か根先があるのではないかと想像するが

印西市浦部の歓喜院に祀られているようです

水戸街道ではなく鮮魚街道の浦部という名だった


そんな中根には『妙見神社』と『城』の小字名が残る


城之越、要替(要害)、亀の下など

ここを中心とした呼び名になっている

城といっても砦や館レベルだと思うけど

名が残るってことは重要にも思える





そこからちょっとすると橋がある

これが『馬橋』

村の名前の由来はここ


この橋の下に流れる川は『長津川』

馬と津の名があると『馬津里』から松戸になったのは

ここではないのかと思われる

茜津もここの津の可能性もあるはず


『船附』という小字名も残っている





何もなさそうな町だけど小林一茶もこの町にきている

昭和初期には画家の山下清も住んでいたこともある


街道の突き当りに『萬満寺』がある

門前町なんだけど認識はない




萬満寺は鎌倉時代に創建とあるのでこの道も町もかなり古い

豊臣秀吉の名もある

この寺の裏山に城があったので地元では城山と呼んでいる

『三ヵ月』と書いて『みこぜ』と呼ぶ地名が寺の裏一帯


三ヶ月は月星の家紋からとってつけたと言われるが

三日月と三カ月は違う

神社の名は『三日月神社』


そして萬満寺の前身は大日寺

月と太陽が対になっている

松戸市内の村名は木火土金水日月の7曜にちなんでいる

のは偶然なんだろうか

妙見信仰は北斗七星にちなんでいる


三村、七右衛門、九郎佐衛門など数字の付く新田もある

九曜紋にちなんでいるとも思える

松戸市は数字の付く町名が多い





ここから登坂になる

この坂を江戸見坂といい日本橋からきて最初の登坂になる

関東平野から下総台地に


『厳島弁財天』があり

バス停はここまで

ここから駅まで徒歩となる



金毘羅様や厳島神社は海の神様で船乗りの信仰とされ

馬橋村は砂地だったといわれがあり『津』だった根拠に思う

市川(井上驛)から2里(8k)の地点





坂の中腹で再び6号と合流

石標がある、印西方面は右に進む

この先に『一里塚』の小字が残る






二ツ木の『蘇羽鷹神社』を右折

交差点が街道で一番高い位置でまた下っていく

この神社は萬満寺の鬼門に位置する


木が二本で『二つ木(林)』で林氏が収めた地と言われる

3ヵ月の前はフタツキ(二ヵ月)の可能性もある

三日月神社も蘇羽鷹神社も山形の月山に関連する






坂を下っていくと

ナニコレ百景

松戸市内でそこそこ見かける光景


焼酎の甕

流山のみりんか焼酎といわれ

焼き物の陶器でできていて丈夫らしい


向い側の教習所は立山で

館山→『舘』の名残といわれるが

遺跡情報はない





再び坂を上り6号へ

この坂下まではわざわざ山を登らなくても来れる

けど、なぜこのルートなんだろうか、気になる





『一月寺』を過ぎると小金宿に到着

一月寺は虚無僧で有名

さっきの三ヶ月、二ツ木からの一月寺

関連性がありそうな気がする



昔の旅籠屋が残っている

大名は『本陣』に泊まるとされる

この辺一帯を『小金領』ともいう

戦国時代は北条の傘下でこの東葛地区を支配していた

高城氏の小金城(大谷口城)がある


つづく
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旧水戸街道ポタリング(下総編)弐

2018-11-01 | 道中
つづき




水戸街道の宿場町は『鍵の手』というように

直線ではないL字型に曲がる道が多い

自然ではなく意図的に作られている


家先も道に平行ではなく斜めに建てられたいるのも特徴







.
小金宿は直進すると本土寺の参道につながる

本土寺は平安時代は豪族平賀氏の屋敷だったとされ

鎌倉時代に寺となる





2か所に渡り小金宿の説明がある

小金城の城下町として栄えていた時代があり 

本来は市の中心地は小金町なんだと思う

残念だけど、豊臣秀吉に敗れ衰退する







八坂神社が街道筋にあったのだが移転

水戸街道沿いには八坂神社(牛頭天王様)は多い

下総の一の宮は香取神社なのだが祇園精舎に関係がありそう







坂を下り6号へ

低い所にはだいたい川が流れている

そしてこの横に『根木内城』がありました

6号線がお城を分断する形に走る





戦国時代のものだけどこの時代に低地に城を造るのは珍しい

単純に攻め込まれやすい所には造らない

両脇に川が流れお堀の役割があるかもしれないけど安易だ

街道筋に建てた事に大きな意味がありそうだ






また坂を上がっていく

ここまで松戸市、庚申塚もある

住所は柏市『中新宿(なかしんじゅく)』

ここに宿の名があるのが気になる





ここから流山市向小金

小金は松戸市でしょと思うけど小金の向い

流山市に水戸街道があるのも驚き





香取神社に『一里塚』の記がある

小林一茶の句も残っている

この辺りから牧場地帯に入る





並木道の名残らしき風景から再び柏市に入る

流山市と柏市の市境は『野馬除土手』が多い

道の入口には木戸があり馬の侵入と番所的な役割をする


新木戸に『旧日光街道』の入り口がある


日光東照宮にはこちらから行くルートもある

なぜこんなところから日光に行くのか気になる

道は1本だと逃げ場がなくなる

財布も2つあった方が落としても全滅しない

そういう考え方に思う


元々日本橋から千住宿までは日光街道と並走

そこで分岐して再び南柏から日光へ向かう

東周りなので『日光東往還』とも呼ぶ





柏市もそれなりに古い民家や神社があるようにみえるが

明治以降に造られたもよう(豊四季は開拓地)

江戸時代は牧場だったから何もない






柏神社の手前に木戸があり牧場の境になる

柏神社の前身は八坂神社

柏の名の由来は『河岸場』が訛ったと言われている







16号にでると『旧水戸街道入口』とある

(出口もあるのかなと気になるが)

そこから坂を下る








常磐線を越え大堀川の呼塚橋へ

特に情報はみあたらない

河岸場で栄えていたはずなのに






この辺に『呼塚河岸』と言われる河岸場があった

名残の常夜灯は東に移転

ここから陸路で流山の加河岸に運ばれた







昔は水戸街道の近くまで『手賀沼』がありました

この河岸は主にお米を運んだ模様

成田詣には、ここから船を使う旅人もいたそうです


今の利根川は家康が銚子までひいて

現在の江戸川もできたとされる

手賀沼も開拓され新田も作られる

新田とは江戸時代に造られた田圃をよぶことが多い



はるか昔はこの辺まで『香取の海』だったとなると

茜津がここでも可笑しくないような

通説では『(於賦駅=おぶえき)は相馬の郡衙、我孫子市の湖北』だが

「おぶ」が訛って「よぶ→よば」になったと言われればそんな気にもなる

柏市では『藤心』の方だという説がありますが

古代官道と驛の場所がまだ特定されていません


つづく
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