つづき
春雨橋から赤圦樋門へ移動
ここが完成したころはまだ『逆川』と呼ばれていた
江戸川と同じ高さなのであまり機能しなかったのこと
そして今の江戸川の形とは違い
樋野口は今の三郷側の領土でした
1731年に直線にして切り離し樋野口は2つになる
旧樋古川が旧江戸川の名残
赤圦水門
名前の由来は分からない
昔の江戸川はこの辺まできていた
自力で分岐点へ
道が狭い
大きい木があり自転車は通れなかった
堂の橋
この先に『納屋河岸』があった
川と川に挟まれたこのエリア
ここで荷を積み代え日本橋に送る
小学校前になると道が広くなる
坂川の碑がある
川沿いが通れなく迂回
川沿いに建っている家の違いはなんだろうか
流山街道に出ると
『水神宮』
文政4年(1821年)に再造
明治大正にも修繕
平成にリニューアルされ、北東を向く
『樋古根川』を渡る
ここが古江戸川の名残
古ヶ崎五差路に出る
自力で現坂川へ
どの辺まで旧江戸川かは不明だが
古ヶ崎樋門までの川は古くからあった模様
ここの水門から上流に逆流するので
今のルート案になった経緯
六間川の方が古くからあるようです
旧古ヶ崎浄水場
昭和11年から平成19年まで稼働
現在は『ちば野菊の里浄水場』より我が町に配水
水源は利根川水系江戸川
古ヶ崎
坂川は一級河川で國土交通省の管轄
明治時代は明村となる
庚申塔
成田山の文字も見える
下矢切の字もあるが関連が不明
隣に墓地がある
石造が向こう向きなので読めない
川が氾濫すると『土葬』の時代には流された
川より西は栄町西
小学校前の辺りが『一本橋』ではないかのこと
『長津道橋』と表記され
ここから江戸川に流れるのが昔の長津川
今は『横六間川』
駅前バス通りを越えると
『川通稲荷』
1つの町にお稲荷さんが2つあるのは珍しい
この辺は飛び地が多く支配者が別だからと推測される
そしてゴール
約34k
この地域を『小金下谷』と呼ぶ(六和地区とも)
逆川の時代は三年に一度収穫できればいい方だったが
坂川となり明治後半から『下谷三千石』と呼ばれるようになる
松戸の有名な白玉粉もルーツはココのモチ米
煎餅なんかは幻となり現代にいたる
おわり
春雨橋から赤圦樋門へ移動
ここが完成したころはまだ『逆川』と呼ばれていた
江戸川と同じ高さなのであまり機能しなかったのこと
そして今の江戸川の形とは違い
樋野口は今の三郷側の領土でした
1731年に直線にして切り離し樋野口は2つになる
旧樋古川が旧江戸川の名残
赤圦水門
名前の由来は分からない
昔の江戸川はこの辺まできていた
自力で分岐点へ
道が狭い
大きい木があり自転車は通れなかった
堂の橋
この先に『納屋河岸』があった
川と川に挟まれたこのエリア
ここで荷を積み代え日本橋に送る
小学校前になると道が広くなる
坂川の碑がある
川沿いが通れなく迂回
川沿いに建っている家の違いはなんだろうか
流山街道に出ると
『水神宮』
文政4年(1821年)に再造
明治大正にも修繕
平成にリニューアルされ、北東を向く
『樋古根川』を渡る
ここが古江戸川の名残
古ヶ崎五差路に出る
自力で現坂川へ
どの辺まで旧江戸川かは不明だが
古ヶ崎樋門までの川は古くからあった模様
ここの水門から上流に逆流するので
今のルート案になった経緯
六間川の方が古くからあるようです
旧古ヶ崎浄水場
昭和11年から平成19年まで稼働
現在は『ちば野菊の里浄水場』より我が町に配水
水源は利根川水系江戸川
古ヶ崎
坂川は一級河川で國土交通省の管轄
明治時代は明村となる
庚申塔
成田山の文字も見える
下矢切の字もあるが関連が不明
隣に墓地がある
石造が向こう向きなので読めない
川が氾濫すると『土葬』の時代には流された
川より西は栄町西
小学校前の辺りが『一本橋』ではないかのこと
『長津道橋』と表記され
ここから江戸川に流れるのが昔の長津川
今は『横六間川』
駅前バス通りを越えると
『川通稲荷』
1つの町にお稲荷さんが2つあるのは珍しい
この辺は飛び地が多く支配者が別だからと推測される
そしてゴール
約34k
この地域を『小金下谷』と呼ぶ(六和地区とも)
逆川の時代は三年に一度収穫できればいい方だったが
坂川となり明治後半から『下谷三千石』と呼ばれるようになる
松戸の有名な白玉粉もルーツはココのモチ米
煎餅なんかは幻となり現代にいたる
おわり
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