今日は、ヘルパーさん初日!
父が実家(四国)で一人暮らしをしていたころには、一年ぐらいお願いしたことがあったが・・・・・こちらに住居を移してからは、今日が父にとって“初めてのヘルパーさん経験”だった。
私は、二人しかいない我が家に、誰かが入ってくれることが凄く嬉しかった。
それに、四国にしか友だちがいない父にとって、私以外の人間と接する機会は、非常に貴重である。
依頼して具体的になったときには、密かにウキウキしてしまった。
たとえ、お金を支払って介護サービスを受けるとはいえ、私自身は「とてもとても有難いことだ」と、感謝の気持ちであふれていたのだが・・・
しかし実際は、慣れていない二人ゆえ、いろいろとあったようだ。
まさに、“ボタンの掛け違い”――。
昨晩、ゆっくりと打ち合わせて、ご説明したことが・・・適切には伝わっていなかったようだ。
見守り、コミュニケーション(話をすること)、献立、運動リハビリについて・・・
すべてにおいて、(若干ではあるが)ボタンが掛け違ってしまったようである。
そのうえ、父の体調についての“現状”を認識していないヘルパーさんは、かなり無理な散歩を強いる結果になってしまった。
内臓疾患(肝臓)の状態や、日頃のサイクルなども説明したのだが、そのニュアンスは相手の理解度によって“全く別のニュアンス”にすりかえられてしまっていた。
足の状態については克明に説明して、「散歩は今後良くなったら」という補足も付け加えていたのだが・・・、そういうコメントは意識の中から外れてしまっていたようだ。
今日は、ヘルパー依頼した二時間のほとんど(具体的には一時間半)を、「散歩」に費やしてしまったのだと言う。歩けない父は、動けなくなってしまい・・・、ヘルパーさんも困り果ててしまったようだ。道端で休む場所もなく、足が曲がらないので座り込むこともできず、お互いにとって“無理な散歩”をしてしまったみたいである。
私が帰宅すると、父の足は“象”のそれのように、パンパンにふくらんでいた。
あまりにもすごいので、温浴ケア(大きな洗面器にお湯をはって足を温める)をして、ぐっすりと寝られるようにしたところである。
今夜の膨張した足を見たときには、一年前に当地に来てすぐのことだが、迷子になって帰り道がわからなくなった時のことを思い出した。警察に保護され、連絡を受けて引き受けに行った時の“父の両足”――パンパンにふくれて、歩きつかれて、親指のツメが剥がれ落ちていた。
本当にせつなかった。あの足を思い出してしまったのだ。
軽い認知症のために、自分の住所を言えず、住所を書いた紙や財布も持っていかず(忘れてしまう)・・・オートロックのため(カギを忘れて)部屋にも入れず・・・・・
とにかく、当時のマンションでは、本当に様々なトラブルがあった。
田舎の大きな家で、一人のびのびと住んでいた人間が、ウサギ小屋みたいなコンクリートの塊りに押し込められてしまったのだから。
ヘルパーさんに対しても、批判をしているわけではない。返って、私たちの期待すること(できるだけ早く歩けるようになること)を優先してくれたことによって、「散歩」をしようとしたわけだし・・・悪意などあるはずもなく、“ボタンの掛け違い”のほとんどは、「良かれと思ってしてくれたこと」なのである。
しかし、これらの経緯の中で感じたことがある。
それは・・・「伝達することの難しさ」だ。
人間は、通常「言葉」を用いて意志を伝える。
「1+1=2」というような判然としたことを伝達する場合は、共通認識があるので問題ない。
しかし、それ以外の事というのは、どうしても的確には伝わらないものだ。
自分の言葉で伝えた後で、“私の言ったことを相手は分かってくれただろう”と期待する(勝手に理解する)ものだが、これが曲者(クセモノ)だったりする。
今日のボタンの掛け違いもしかり――、とにかく、「ニュアンス」が伝わらない。
「程度」が伝わらない。「質」が伝わらない。「プライオリティー」も伝わらない。
言葉の意味も其々に違うので、「具体的な事例を示し、いやというほど言葉を尽くして説明しないと、こちらのニュアンスは伝わらないのだなぁ」とあらためて思い知らされた。
父にしてみても、初対面に近い関係のために、どうしても真意を言えなかったり、伝えようとしてもうまく伝えることができなかったり・・・(おそらく耳が悪いので、聞き取れていないことも多かったと推測され)・・・そうして、勝手に思い込んだり、勘違いしたり、誤解したり、あきらめたり・・・そういう繰り返しだったのだろう。
自信が無くなったヘルパーさんは、薬を飲む父をいさめたことによって、その不安な気持ちが、父にまで伝染してしまっていた。
私が帰宅すると、部屋中の薬を机の上に集めて、「薬は大丈夫かな?」と聞いてきた。
“どういうこと?へんだなぁ”と思ったのだが、ヘルパーさんの言葉や行為から、何らかの不安材料が、ふつふつと湧いてしまったのだろう。
ことの流れを報告されて、「なるほど」と人間心理について納得した次第である。
まさに、言葉で伝わらないものがある一方で、“勝手に伝わってしまうものがある”ということであろう。心の不思議を感じてしまう。何故伝わってしまうのか、私にはわからない。
これに関しては、父との関係の中で、常に自分自身が“身をもって感じていること”でもある。
今日の【希望】は・・・・・
「今日ご一緒にいて、よくわかりました」というヘルパーさんの最後の言葉・・・。
やはり、自分で経験して、見て、聞いて、初めて分かることがあるのだろう。
次回は、うまくいきますように!
「おたのみしまっせ!」
父が実家(四国)で一人暮らしをしていたころには、一年ぐらいお願いしたことがあったが・・・・・こちらに住居を移してからは、今日が父にとって“初めてのヘルパーさん経験”だった。
私は、二人しかいない我が家に、誰かが入ってくれることが凄く嬉しかった。
それに、四国にしか友だちがいない父にとって、私以外の人間と接する機会は、非常に貴重である。
依頼して具体的になったときには、密かにウキウキしてしまった。
たとえ、お金を支払って介護サービスを受けるとはいえ、私自身は「とてもとても有難いことだ」と、感謝の気持ちであふれていたのだが・・・
しかし実際は、慣れていない二人ゆえ、いろいろとあったようだ。
まさに、“ボタンの掛け違い”――。
昨晩、ゆっくりと打ち合わせて、ご説明したことが・・・適切には伝わっていなかったようだ。
見守り、コミュニケーション(話をすること)、献立、運動リハビリについて・・・
すべてにおいて、(若干ではあるが)ボタンが掛け違ってしまったようである。
そのうえ、父の体調についての“現状”を認識していないヘルパーさんは、かなり無理な散歩を強いる結果になってしまった。
内臓疾患(肝臓)の状態や、日頃のサイクルなども説明したのだが、そのニュアンスは相手の理解度によって“全く別のニュアンス”にすりかえられてしまっていた。
足の状態については克明に説明して、「散歩は今後良くなったら」という補足も付け加えていたのだが・・・、そういうコメントは意識の中から外れてしまっていたようだ。
今日は、ヘルパー依頼した二時間のほとんど(具体的には一時間半)を、「散歩」に費やしてしまったのだと言う。歩けない父は、動けなくなってしまい・・・、ヘルパーさんも困り果ててしまったようだ。道端で休む場所もなく、足が曲がらないので座り込むこともできず、お互いにとって“無理な散歩”をしてしまったみたいである。
私が帰宅すると、父の足は“象”のそれのように、パンパンにふくらんでいた。
あまりにもすごいので、温浴ケア(大きな洗面器にお湯をはって足を温める)をして、ぐっすりと寝られるようにしたところである。
今夜の膨張した足を見たときには、一年前に当地に来てすぐのことだが、迷子になって帰り道がわからなくなった時のことを思い出した。警察に保護され、連絡を受けて引き受けに行った時の“父の両足”――パンパンにふくれて、歩きつかれて、親指のツメが剥がれ落ちていた。
本当にせつなかった。あの足を思い出してしまったのだ。
軽い認知症のために、自分の住所を言えず、住所を書いた紙や財布も持っていかず(忘れてしまう)・・・オートロックのため(カギを忘れて)部屋にも入れず・・・・・
とにかく、当時のマンションでは、本当に様々なトラブルがあった。
田舎の大きな家で、一人のびのびと住んでいた人間が、ウサギ小屋みたいなコンクリートの塊りに押し込められてしまったのだから。
ヘルパーさんに対しても、批判をしているわけではない。返って、私たちの期待すること(できるだけ早く歩けるようになること)を優先してくれたことによって、「散歩」をしようとしたわけだし・・・悪意などあるはずもなく、“ボタンの掛け違い”のほとんどは、「良かれと思ってしてくれたこと」なのである。
しかし、これらの経緯の中で感じたことがある。
それは・・・「伝達することの難しさ」だ。
人間は、通常「言葉」を用いて意志を伝える。
「1+1=2」というような判然としたことを伝達する場合は、共通認識があるので問題ない。
しかし、それ以外の事というのは、どうしても的確には伝わらないものだ。
自分の言葉で伝えた後で、“私の言ったことを相手は分かってくれただろう”と期待する(勝手に理解する)ものだが、これが曲者(クセモノ)だったりする。
今日のボタンの掛け違いもしかり――、とにかく、「ニュアンス」が伝わらない。
「程度」が伝わらない。「質」が伝わらない。「プライオリティー」も伝わらない。
言葉の意味も其々に違うので、「具体的な事例を示し、いやというほど言葉を尽くして説明しないと、こちらのニュアンスは伝わらないのだなぁ」とあらためて思い知らされた。
父にしてみても、初対面に近い関係のために、どうしても真意を言えなかったり、伝えようとしてもうまく伝えることができなかったり・・・(おそらく耳が悪いので、聞き取れていないことも多かったと推測され)・・・そうして、勝手に思い込んだり、勘違いしたり、誤解したり、あきらめたり・・・そういう繰り返しだったのだろう。
自信が無くなったヘルパーさんは、薬を飲む父をいさめたことによって、その不安な気持ちが、父にまで伝染してしまっていた。
私が帰宅すると、部屋中の薬を机の上に集めて、「薬は大丈夫かな?」と聞いてきた。
“どういうこと?へんだなぁ”と思ったのだが、ヘルパーさんの言葉や行為から、何らかの不安材料が、ふつふつと湧いてしまったのだろう。
ことの流れを報告されて、「なるほど」と人間心理について納得した次第である。
まさに、言葉で伝わらないものがある一方で、“勝手に伝わってしまうものがある”ということであろう。心の不思議を感じてしまう。何故伝わってしまうのか、私にはわからない。
これに関しては、父との関係の中で、常に自分自身が“身をもって感じていること”でもある。
今日の【希望】は・・・・・
「今日ご一緒にいて、よくわかりました」というヘルパーさんの最後の言葉・・・。
やはり、自分で経験して、見て、聞いて、初めて分かることがあるのだろう。
次回は、うまくいきますように!
「おたのみしまっせ!」