今、「遣り遂げること」

2005年09月24日 | 雑感 -
今日は、朝一番で「整形外科医院」へ行った。
父は、リハビリとヒザへの注射を施してもらい、自力で歩いて帰宅。
隣のお宅の車が、我が家の前に数台並び(連休だからね)、歩行ルートを妨げている。
「少し歩かなくちゃ駄目だなぁ」
「まぁ、それもリハビリだよ」
自分の中で、私の“思考”がウチワ話しているみたいだった。
雨が降っているので、私が傘をさしかけ、~ゆっくり~ゆっくり~と、足を運ぶ父。
「転ばないように」―ただそれだけを思いながら、その足元に視線を落とす。

昨夜も車列は並び、隣の家からは“楽しげな笑い声”が聞こえてきていた。
パーティでもしていたのかなぁ?
ご友人の家族が訪問しているみたいで、帰り際にも賑やかに挨拶する声が響いていた。

そういうとき、(私には全く関係ないのに) なんとなく“取り残されている感”がする。
「お隣は楽しそうで良かったなぁ」という気持ちよりも、「私も楽しみたいなぁ」という“自分よりの気持ち”が優っている状態だと言えば、わかりやすいだろうか・・・。
これは、おそらく“自分のやりたいことが充分できていないのではないだろうか”という、
“論理的ではない被害者意識にも似た想い”が、潜在的に巣作っているからだろうと思う。
  (実際、友人と食事に行ったりすることが、ほとんど無くなってしまったからなぁ)
そして、実際はそうでなくても、「自分を取り巻く社会から、自分自身が“切り離された場所”にいる」ような雰囲気がしてしまうのだろう。
「疎外感」とか・・・「隔離」されているような「孤立感」のようなものだ。
※これらは全て、“以前の私”のライフスタイルや価値観から感じることである。
  (かつての私は、連日深夜まで仕事をする“仕事だけ人間”だった)
 長きに亘って作られた思考スタイルは、すぐには変わるものではない。
 その思考に縛られ、自由を奪われ、囚われきって、自分らしさを無くしていたのが、
 同居をはじめてすぐあたりの私自身だった。
どちらにしても、「快適か否か」という観点からは、今も(まだまだ)充分ではない。

同様に、現在の“父の立場”に想いをはせてみると、
“若い頃とは違う身体の不甲斐なさに四苦八苦している”ために、同じように「閉塞感」を感じているのではないかと思う。
“思うようにならない気持ち”と、“自分自身の現状”、そして、“むなしさ”・・・。

だから、この二人の精神状態と現実生活に「希望を見出す」のは大変なことだったりもする。
このことは、いつも考えていることだ。
・・・また、あえて見つけようと模索していることが、私の「希望」だと言えなくもないが(笑)。

そうして、こういう行為を、何度も何度も、繰り返していくうちに、
父との生活を“違う見方”で見て、解釈するようになってきた。
完全に受容できているわけではないにしても、うまく一緒にやっていけなければ、
私自身の心の中で “日々粉雪が舞い続ける”だけである。
自己の思考や感情などと、徐々に“折り合いをつける作業”を繰り返しながら、
私の中で、やっと(具体的に)芽生え創めている幾つかの「希望」―。
これらを考えるとき、キーワードのように、いつも忽然と“意識する言葉”がある。
それは・・・
 仏陀が残した「悟り」に対する簡潔な定義である。

   ――「悟り」とは、「苦しみの終わりである」――

仏陀は、これ以上のことは何も語らず、残さず・・・
苦しみが取り除かれた後に“残るもの”についても、あえて言及していない。
もしかすると、これは「悟りの正体は、貴方が自分自身で見つけなさい」ということであり、
「悟りの定義は、人それぞれによって違うものだ」ということだろうか。
それとも、「悟りなんてものは、誰もが到達できるゴールである」ということなのだろうか・・・。

私は無宗教者だし、「悟り」というものに過剰に反応しているわけではないが、
自分にとっての「苦しみ」って、“いったい何なんだろう”と思う。
そして、“苦しみの終わりにどのような境地が待っているのか”に関しては、
“あれやこれやの想い”をめぐらせることがある。
そして、同様に、“介護の終わりにどのような人生(私自身)と出会うのか”についても、
あれやこれやと・・・想像力を働かせて、イメージを膨らませている。
それは父との別れを意味することでもあるが、新しい旅立ちを表わす世界観でもある。

「今、大事だと思うこと」は、後悔しないように「遣り遂げること」・・・これに尽きる。
もしも、自分が納得するように遣り遂げられなければ、
将来出会うであろう“私自身”の中に、大きな“わだかまり”ができてしまうだろう。

だから、いつも思うんだ。
「介護」は、現在の私の中で、“とっても大きなものなんだなぁ”・・・って。
コメント (2)