メシを炊く父

2005年09月26日 | 出来事 -
父が、炊飯器にご飯をしかけてくれている。
体調が芳しくないのに、今日で何日にもなる。

以前から、よくやってくれていたが、具合が悪くなってからは久しぶりだ。
初日は、びちょびちょ・・・・・水が多すぎて、炊き上がった炊飯器のふたを開けたら、
どろどろの炊き汁がこぼれてしまった。
二日目、“まぐれ”かどうか判らないが、ちょうど良い加減で炊き上がっていた。
「美味しいね」「ちょうど良いね」「うまく炊けたね」「ホント、ちょうど良いね」
有難いと感謝して、くそめちゃ何度も何度も褒めまくったら・・・

  三日目も炊いてくれた。

それから、毎日、炊いてくれている。水加減は、ほどほど良い感じである。

いつまで炊いてくれるのだろう・・・。
おかげさまで、“冷凍炊きたてご飯”が、たくさんストックされた・・・。

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適応能力を発揮すること

2005年09月26日 | 介護日記 -
さっきまで、元気だったのに・・・
30分前までは、フツーみたいな感じだったのに・・・
急に身体がだるくなったり、動かなくなったりして、息づかいが荒々しくなる。
「はぁ~、はぁ~、はぁ~」
熱があるように顔は赤くほてって、明らかに苦しそうな雰囲気だ・・・。

今日も、近くの八百屋さんまで出かけたら、状況が変わってしまっていた。
しかし、このようなことは本当に“ごく最近”のことで、以前には無かったことだ。
それだけ、“基礎体力が後退している”ということなのだろう。

父は(数日前)風呂場で動けなくなってから、お風呂に入ろうとしなくなった。
我が家の「ウサギ小屋のような風呂場(ウサギ風呂?)」は、特に敬遠したいみたいだ。

だから、昨日「スーパー銭湯」に誘ったら、とても上機嫌でお風呂に入ってくれた。
嬉しそうに笑ってくれて、その笑顔を見ていると、“ちっちゃなシアワセ”を感じてしまう。

   ※父は、大のお風呂好き―。
    昔からスーパー銭湯も行きつくしている。
    四国でいるときも、当地にいるときも、
    スーパー銭湯には(二人で)頻繁に足を運んでいる。

私も、お風呂が大好きだから、たまには「リラックスしましょう」という想いがあった。
しかし、昨日の私は・・・いつものように“平穏な気分”で入浴することができなかった。
以前は、男女別だというのを理由に、のんびりサウナや露天風呂を中心にリラックスできていたものだが・・・、昨日の私は、そういう楽しみ方ができなかった。
館内放送が気になったり、時計の針が気になったり、“何か事故が起きたらどうしよう”と不安に感じたり、かなり精神状態が乱れていたように思う。
「起きてもいないことを不安に感じて、落ち着かない」~なんて、本当に“おバカなこと”だけれど(それは分かっているのだけれど)・・・つい心は、そんな思考をしてしまう。
そのことに気がついたときには、すぐ「やめなさい!」と指令を発するようにしているが、
その頻度が多いと、さすがに疲れてしまうのだ。

私の心が、荒れている。
父の体調が、ほんの少しの時間で激変するために、安心していられないのだろう。
“何をしていても、緊張していなければならない”と、自分で勝手に思い込んでいる。
「緊張している」ということは、ある意味で「ストレスに直結している」ということだ。
“常時、気がぬけない”という不安定さが、こういう気分を引き起こしているのだろう。

刻々と変わっていく父の体調――その状態に合わせて、
私自身の気分や適応体制も、変えていかなければならない。
そのことをキチンと意識していないと、私自身が渦の中に埋没してしまう危険性がある。
現状を把握して、私の「心の状態」&「心の傾向」をキャッチした上で、“状況に適応していくことが重要なのかもしれない”と思う。

今後のことを考えると、父の体調が・・・目を見張るほど良くなることはないだろう。
おそらく、徐々に後退していくことは間違いないし、すでに現存する“体調の波”も(今以上に)大きくうねる可能性がある。
私は、それに適応して、“もっともっと気丈になる必要があるのではないのか”と(おぼろげに)感じている。
決して無理をする必要はないが、努力をしていくことに越したことはない。
そういう自分を客観的に持ちこたえることで、自分の中の適応能力を(多少なりとも)発達させることにもなるのではないだろうか。

私自身も、時間と共に変化して、成長していけると良いのだけれど・・・。

道は遥か遠いが、簡単にあきらめたり、妥協したくはないなぁ。