怒涛のような一週間の間に、多くの人と 会った。
スケジュールは、「過激」 「過重」 「衝撃的」 という表現が
あうような日々だった。
一つだけ、自分の中で「気がついたこと」があったので、
忘れないように、ここに記しておく。
ものすごい立場の人や、肩書きのある人と会って、
たとえ「この人は素晴らしい」と感じたとしても・・・
「心底凄い人なのか」というのは、少ない情報では解らない。
一般的に世俗に出ている他人の情報は、操作されている可能性があり、
私は実際に経験した「自分の感覚しか信じない」。
たとえば、顕著な例として、その人の周囲の人は関係なく、
その人が“尊敬する人”や、“信頼する人”と会ってみると・・・
なぜ「信頼しているのか」という観点で、冷静に考えることができ、
新しい視点での判断材料となる。
自分が感じた“ある人”のストレートなイメージや、現実から離れて、
興味深い“人と人とのネットワーク”を 知ることになる。
たとえば、一般的に・・・
Aさんが世の中的に「凄い人だ」と評価されていても、
Aさんが信頼しているBさんが怠惰で約束を守らない人だと、
Aさんの「人を見る眼」というか・・・「人を判断する眼」を、
疑わざるを得ないし、ある意味ではAさんの評価も下がってくる。
あるいは、Aさんに対する“違った価値基準”が 産まれる。
Bさんの何が良くて信頼しているのか・・・という冷静な要素である。
それは異質な好奇心の基で、新しい人間像を知ることになる。
人は・・・
つきあう人や、交友を重ねる人に、少なからず影響を受ける。
そのため、どうしても、平衡感覚を失ったり、自分の判断よりも、
話術のたけた他人の意思にひっぱられる人もいる。
また、気がつかないところで、悪影響を受けることもあるのだ。
実際、この事実は、対極のケースにも言えることで、
自分にとって「ベターな影響を与えてくれる人」と付き合うべきで、
その判断基準は、其々に違うものだ。
だからこそ、「朱にまじわれば赤くなる」と同じように、
自分自身の存在感と判断力が曲げられることのないように、
付き合う人や、まじわる人も、あらかじめ考えていくべきだという
印象を持った。
選択というほどではないにしても、大切なことだと思う。
今週、経験したことは、この事実を顕著に表わしていて、
自分の中では「新しい興味」が湧いたことで、人間観察の基準が
ひとランク上がったようにも思う。
この一週間は、仕事関係の人ながら、そういう明確な感情を持った。
真面目な人、丁寧な人、誠実な人、怠け者の人、嘘つく人、大雑把な人、
いろいろな人がいる中で、私の立場は(うまく平均的に)原理原則に従い、
私の仕事をしていけばいい・・・だけだ。
何が起こっても、シンプルに考えれば、その場の対応も、返答も、態度も、
その場で決定できる。
あたふたする必要もなく、ただシンプルに本質だけを受け取ればよい。
「立場」と「人間」は、同義語ではないし・・・
そのことに影響されることもない。
毅然と、自分の考えを誰に対しても主張することができれば、
そして、信念に則って、そのことを重ねて続けていければ・・・
相手の態度が変わってくるものである。
肝心なことは、途中で「あきらめないこと」。
ただ、それだけである。