09年12月、民主党の幹事長(当時)の小沢一郎は韓国で次のような演説を行った。
「江上波夫によれば、朝鮮半島南部、今の韓国、この地域の権力者が九州に辿りつき、三重県まで海伝いに来て、奈良県に入り、奈良盆地で政権を樹立しました。これが神武天皇であり、これは日本の神話で語られています」
「当時、朝鮮半島には、新羅、百済という国がありました。古代のものの本にも、大和朝廷と新羅や百済の交流の中で、通訳を使ったという記録はありません」
「平安京を作った桓武天皇の生母は百済の王女さまだったと天皇陛下自身認めています」
「これはあまり私が言いますと、国に帰れなくなりますので、強くは言いませんけど、たぶん歴史的事実だろうと思っています」
この発言には韓国人に阿るような響きがあり、日本人としては許し難いが、それはさておき、小沢氏が引用した江上波夫の説を、その著書『騎馬民族国家』(中公新書 1991年刊)から抜粋してご紹介する。
騎馬民族による原住民族の征服、すなわち日本国家の実現は、二段の過程で行われた。第一段は任那(加羅)方面から北九州への侵入、第二段は北九州から畿内への進出であり、第一段は4世紀前半における崇神天皇を中心とする氏族連合によって実現され、第二段は4世紀末から5世紀初めの間に応神天皇を中心とする氏族連合によって実行された。
その騎馬民族の出自は満州東部・北朝鮮で、南朝鮮の伽羅(任那)を経由して、日本に渡来した。崇神になった人物は、当時の任那の王であった辰王であり、この時、韓倭連合国を樹立したのである。
騎馬民族による征服であると考える根拠は
(1) 古墳文化の急激な変化:前期古墳文化と後期古墳文化の間に根本的な違いがあり、副葬品にも変化がみられること。応神と仁徳の陵はピラミッドに匹敵する規模であり、その時に統一国家が確立されたことは間違いない。
(2) 馬の渡来:弥生時代および前期古墳時代には日本には馬がいなかったが、その後急速に増えたこと。
(3)日本と朝鮮における神話の類似性:『日本書紀』・『古事記』にある天孫降臨神話は、朝鮮の伽羅や高句麗の建国神話に類似していること。
(4)『紀』『記』に示される伝承:スサノオノミコトは新羅経由で出雲に降臨したという記述が『紀』にあること。ニニギノミコトが高千穂の峰に天下った時の『記』の記述が韓国(カラクニ)にふれていること。
(5)崇神の名前:神武の和風謚号は始馭天下天皇、崇神のそれは御肇国天皇であり、ともにハツクニシラススメラミコトだが、神武は架空の人物だから崇神が事実上の始祖。その名前ミマキイリヒコ(御間城入彦)のミマは「任那」を、キは「宮城」を意味する。
小沢の演説において、神武天皇に関する部分は江上説では語られておらず、明らかに間違いである。しかし、ヤマト朝廷の始祖が朝鮮半島からやってきたという部分は江上説の通り。桓武天皇の生母が百済人だったということも、『紀』に記述がある。韓国人の聴衆に迎合しようとする小沢の意図は理解できるが、軽率な間違いがあったことは残念である。
さて、敗戦後、神話が否定され、『紀』『記』の記述にも疑問が持たれて混迷の極にあった史学界は、昭和23年に発表された江上の騎馬民族征服王朝説によって衝撃を受けた。
当時としてはあまりにも大胆な説であったし、その説には矛盾点もいくつかあったために、史学界は江上説を否定した。江上は、最初の発表から見解を少しずつ修正し、最終的な説を昭和67年に発刊した『騎馬民族国家』(平成3年に改訂版)にまとめた。
上記の抜粋は平成3年版による。 昭和23年の江上説発表後、各地で古代遺跡が発見され、文献の研究も進むにつれて、「騎馬民族による制圧」かどうかはともかく、ヤマト朝廷の始祖が朝鮮から渡来したという江上説に同調する学者・研究家が増えている。
その一方で、「日本の支配者集団が海外から渡来してきたという、決して証明されない幻想をいまだに抱いている人は多い」(『天皇誕生』遠山美都男著 注1 中公新書 2001年刊)のごとく、ヤマト朝廷渡来人説を否定している学者もいる。
また、佐原真は江上とNHK放送において、「騎馬民族は来た? 来なかった?」という激論を戦わせ、その対談をまとめた本も出版された(1993年)。ただし、江上説に対する佐原の反論は、「ヤマト朝廷は騎馬民族的というより、農耕民族的性格が強かった」というものであり、支配勢力が朝鮮半島から来たのかどうかという議論ではなかった。
次回「崇神と応神」では渡来人説をいくつか紹介し、その信憑性を検討する。
注1. 遠山美都男:1957年生まれ、学習院大学講師、史学博士 著書多数