数カ月前ハーヴェストクラブ熱海に宿泊した翌朝、ウォーキングに出かけてホテルのすぐ前に≪興亜観音前≫というバス停を見つけた。「興亜とはアジアを興すという意味だろうか」と好奇心を抱き、辺りを見回したがそれらしき建造物が見当たらない。その代わりに≪興亜観音入口≫なる道標があった。
その入口から、エクササイズのつもりでジグザグ状の急坂を歩き出したが、行けども行けども細い坂道が続く。「なんだこれは、≪前≫ではなく≪登山口≫ではないか」と不平を言いつつ登ること約30分。やっと観音像に辿りつき、そこから見下ろす相模湾の絶景に満足して、石碑も読まずに来た道を戻った。そして、興亜観音は頭の中から消えていた。
ところが、最近になって《正論別冊 「南京」斬り》に「興亜観音と昭和殉難者たち」という記事を見つけた。「えっ、なんで興亜観音が南京事件と関係があるの?」と思いつつ読んで、その由来に驚いた。
興亜観音とは、終戦後A級戦犯として絞首刑になった松井石根大将が、戦争中の昭和15年(紀元二千六百年)に日支両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため、退役後住んでいた家の近くに私財を投じて建立したもの。そして、松井大将と同時に絞首刑になった東条英機首相など6人の遺骨が密かに観音像のそばに埋められた*。(正論別冊より)
松井大将がA級戦犯にされたのは身に覚えのない南京事件の責任を問われたものであり、汚名を着せられたことはさぞ無念だったろう。興亜観音の由来も知らず、石碑の文面さえも読まなかったことは赤面の至りである。改めて興亜観音に詣でて、松井大将の霊に敬意を表する機会を持ちたいと思う。
ところで、「南京大虐殺」は先般のアパホテル事件でにわかにスポットライトを浴びることになったが、「正論別冊」から得た知識を私流に解釈すると、次のようになる。
日本軍が南京に攻め込んだとき、支那軍の指揮官が逃亡し残された支那軍には、(1)軍服を脱ぎ棄て民間人に紛れ込む、(2)日本軍に投降する、という選択肢しかなかった。
(1) 民間人の服装をして戦闘を続けたグループは、死亡すると民間人が戦闘に巻き込まれたように見えた。そして、その中には実際に民間人もいた可能性もある。
(2) 投降してグループは数万人。彼らは投降してから、日本軍を襲った。これを鎮圧するために、日本軍は武力を使用せざるをえなかった。また、あまりにも投降兵が多く、日本軍は彼らに与える食料がなかった。そこで投降兵を船に乗せて対岸に放逐しようとしたところ、対岸にいた支那軍は日本軍が渡河しようとしていると勘違いして、味方を機関銃で掃射した。
この二件が捕虜と民間人の大虐殺として針小棒大に伝えられたのであって、両方合わせてどんなに多く見積もってもせいぜい2万人。中国が主張するような三十万人にはほど遠い。そして、「虐殺」という表現には「強者が弱者を見境なく殺す」というニュアンスがあるが、実際は単なる戦場での不幸な出来事だったにすぎない。
一方、ウェブサイトにある外務省の見解は「日本政府としては、日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えております」とあり、大虐殺を肯定しているような感がある。これでは中国につけこまれるのは当然だ。
今更、外務省が見解を変えるわけにはいかないだろうから、民間が反論するしかない。その点で、アパホテルの実行力を高く評価する。
*注 七士の遺骨は愛知県三ヶ根山国定公園にも埋められた。