「『老後不安不況』を吹き飛ばせ!」(大前研一著 PHP新書)によれば、「バブル以降のいわゆる《失われた25年》の期間に個人金融資産は1000兆円から1700兆円に増えた。この巨額の金融資産の保有者の大半は高齢者で、支給される年金の3割を貯蓄し、一人平均3500万円ものお金を残して死んでいく」。
大前氏は「日本の景気低迷の主因はこの1700兆円にもなる金融資産が固定化して、しかもそれが増えていること。高齢者がもっと人生を楽しむようにライフスタイルを変えれば、この金融資産が流動化し、景気低迷から脱却できる」と主張する。
では高齢者はなぜ貯蓄を増やすのか。大前氏の主張を要約すると次のようになる。
「老後に、もし大病にかかったらどうするか、もし予想以上に長生きしたらどうするか、という漠然とした不安があるから、高齢者が貯蓄するのだ。しかし、年金があれば一応生活できるし、大病にかかっても医療保険制度で守られているのだから、あまり心配せずにもっと人生を楽しむことを心掛けてはどうか」
「そもそも日本の高齢者は勤倹貯蓄を善とする価値観で生きてきたから、欧米社会に較べてきわめて低欲望社会になった。だから、欧米型の経済理論は日本では通用しないのだ」
「日本には日本独特の制度が必要であり、その具体策として、所得税・住民税・相続税・法人税・消費税すべて廃止し、その代わりに資産税と付加価値税を新設すべきである」
私は大前氏の著作はかなり読んだし、主張には共感するところが多い。大前ファンと言ってもいい。しかし、この「『老後不安不況』を吹き飛ばせ!」(以下本書)には納得しかねる点がかなりある。
まず、「巨額の個人金融資産が景気低迷の元凶である」に疑問がある。個人金融資産は死蔵されるのではなく、金融機関を通じて市場に放出され、経済の血液として機能している。特に、銀行が国債を買う資金は国民の預金であり、銀行預金があるからこそ国家財政が保たれている。だが、こんなことは大前氏は百も承知だろうし、これを議論しては話が先へ進まないので不本意だが控える。
次に「金融資産が25年に1000兆円から1700兆円に増えたのは、高齢者が年金を使い切れずに貯蓄したからだ」には納得しかねる。
標準的年金生活者は日常の支出をなんとか年金受給額内に収まるように、努力していると思う(私がそうだし、友人達も同様)。金融資産が総額で増えた理由は、富が特定の人々に偏在しているからである。つまり、年金が余るのは株式配当や不動産賃貸など別の収入が潤沢にある人々―3泊4日の列車の旅に95万円も投じるとか(笑い)―の話であって、標準的年金生活者にとっては年金受給額が多すぎるということはないはずだ。
問題は税制改革の内容である。大前氏は諸税を撤廃して、資産税と付加価値税の二つに集約すべしと説く。
大前案の資産税とは、固定資産と金融資産すべてに1%課税するというもので、現在ざっと法人・個人合わせて5000兆円の資産があるから、その1%として50兆円の税収となる。そして資産税の長所は資産を多く保有している人ほど税額が多くなること。
次に付加価値税とは、生産から流通まであらゆる段階で、売価から仕入れコストを差し引いた金額つまり付加価値に対して課税する制度であり、大前氏はその税率を10%にすることを提案している。今、日本のGDPは約500兆円だから、その10%ならこの税収は50兆円になる。
資産税と付加価値税の両方合わせて税収は100兆円となり、現在の国家予算をまかなうに足りる。
しかし、この大前案にはかなり無理がある。
まず、資産税について。私自身を含め、資産が少ない人々は大前案に賛同するとしても、資産が多い人々は保有する資産を貴金属やタンス預金に変えるとか、ドルに換えて海外の金融資産を買うなどの対抗策を講じるだろう。円の急落など、経済の大混乱を招くこと必至である。
付加価値税は実現性に問題がある。売価の捕捉はともかく、何をもって仕入れコストとするかの基準の設定が不可能。例えば、仕入れコストがない漁業者はどう扱うのか。粗利が薄い卸業者と原価が非常に安いブランド装飾品のメーカーを同列に扱っていいのか。部品が何万点にもおよぶ自動車のコストを算定するには膨大な書類が必要になり、手間がかかりすぎる。大前氏も付加価値税に関しては1ページしか費やしておらず、熟考した結果とは思えない。
大前氏は、金融資産流動化策として税制改革以外にもいくつかの提案を示している。
●なんでもかんでも医師に診てもらうことをやめて、軽い病気なら市販の薬で間に合わせるような制度にする。つまり、病気の再定義を行う。
●介護人材が不足しているが、それには移民を活用すべし。
●救急車は有料にすべし。(コメント:賛成だが、本書の趣旨とは無関係ではないのか)
●土地の容積率を緩和すべし。
さて、大前氏は金融資産を流動化させる方策として、個人がやるべきこともいくつか挙げている。
●定期収入を生み出すことを考える。例えば、住居の一部を外国人旅行者のための民泊として提供する。(コメント:部屋を貸すほど大きな住居に住んでいる人はごく限られ、その中で民泊に賛同する人はさらに限られる)
●ベンチャー企業に投資する。(コメント:ベンチャー企業の業容次第によっては、株式投資の方がリスクが少ない)
●趣味の幅を広げて充実した人生をおくる。(コメント:ごもっとも。しかし、本書の趣旨とは無関係)
本書にはいろいろ難点はあるが、日本が低欲望社会だという大前氏の指摘はその通りだと思う。例えば、標準的日本人の国内旅行は1泊2日かせいぜい2泊3日だが、アメリカではバケーションは1週間が普通である。もっと人生を楽しむようなライフスタイルを目指そうという大前氏の提言には賛同である。