これも「古代史の謎は海路で解ける」からの話題である。
私はかねてより「武烈天皇崩御のあと後継者がいなかったため、敦賀にいた応神天皇5世の子孫である男大迹王(をほどのおおきみ)が請われて第26代の継体天皇(在位推定507-531年)になった」という記紀に記された史実に違和感を持っていた。その違和感とは、5世の子孫ならほとんど他人であり、朝廷から生活費が支給されていなかったはずだから、敦賀のような田舎でどのようにして生計を立てていたのかという疑問である。
「古代史の謎は海路で解ける」によれば、応神天皇の時代に秦氏などの朝鮮半島からの移住者が若狭・敦賀地区に増えたが、受け入れたのは敦賀港の主にして鉄鋼企業の主でもあった応神帝であった。敦賀の気比神宮はじめ多くの神社が若狭湾沿岸にあるが、すべて応神帝を祀ったもの。しかし、記紀には応神帝の敦賀周辺における事跡が記されていない。おそらく大和朝廷が近畿(河内)から始まったとする系譜に組み立てたかったためだろう。
応神帝から事業基盤を引き継いだ継体帝は、さらに船を荷物を載せたまま敦賀から琵琶湖まで運ぶシステムを作り上げた。枕木に油を塗って船を滑らせ、さらに百済から連れてきた馬に曳かせて、山越えした*。琵琶湖を渡れば、あとは難波まで淀川がある。継体帝は鉄鋼企業兼総合物流企業のオーナーだったのである。
敦賀は古代における日本の交易・物流の中心地だったことを知って、継体帝がなぜ敦賀に住んでいたのか、合点がいった。また、応神帝から事業を引き継いだという縁があったことも、次の帝に選ばれた理由ではなかろうか(これは私の想像)。
*各地に船越という地名が残っているが、それは船を山越えさせた名残りである。