頑固爺の言いたい放題

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邪馬台国畿内説を検証する (1)

2010-12-26 17:31:44 | メモ帳

邪馬台国論争において、北九州説と並んで畿内説も有力で、畿内説を唱える人達のほとんどは考古学者である。確かに畿内特に奈良県桜井市には遺跡・古墳が多く存在する。

 

『倭人伝』にある記述「卑弥呼以死大作冢径百餘歩殉葬者百餘人」からして、卑弥呼の墓に比定するには、「卑弥呼が死んだ時に大きな塚を作った。その直径は150メートルほど。女の奴隷が百余人殉死させられた」という条件を満たすことが必要。すなわち、墓は円形墳で、百人以上の女性の骨が発見されるはず。さらに、卑弥呼が死んだのは248年と推定されるので、副葬品はその当時のものでなくてはならない。

 

考古学の見地から、卑弥呼に関係があると推定されるのが奈良県桜井市の箸墓古墳。築造は3世紀半ばという説もあるが、後半という説が有力になった。

 

 

 箸墓古墳

 

もし箸墓の築造が3世紀中葉であるなら、卑弥呼の死とタイミングが合う。『日本書紀』によれば、箸墓の被葬者は崇神天皇の祖父の姉または妹の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)である。巨大な箸墓は大王に相応しく、モモソヒメには不相応の感があるが、実際の築造者である崇神天皇の権勢を誇示したものと考えれば納得がいく。神憑りする巫女であることが、「呪術に長け、人々を惑わす(鬼道能惑衆)」卑弥呼とイメージが合うため、モモソヒメを卑弥呼だとする説もある(白石太一郎など)。しかし、『倭人伝』によれば、卑弥呼は王として共立されたのだから、『紀』に記された史実と合わないという矛盾がある。 

 

一方、『倭人伝』にある卑弥呼の墓は直径150メートルほどの円形墳であるのに対し、箸墓古墳は全長276メートル(計測によっては290メートル)と巨大な前方後円墳だから、ここにも矛盾が生じる。「方形の部分はあとから付け加えたのではないか」と主張する学者もいるが、最近の発掘調査では全部一度に築造された可能性が高いとされる。

 

さらに、考古学が発達し、副葬品の土器の形態と模様から判断して、箸墓の築造は270-280年以降であるとする学説が有力となり、モモソヒメ=卑弥呼という説は消えた。それでも、箸墓のある纏向地区に邪馬台国があったと推定する考古学者は多い。

 

続く

 


邪馬台国畿内説を検証する (2)

2010-12-26 17:29:03 | メモ帳

 

巻向説を含め畿内説では、前回述べたように、邪馬台国は北九州から南方向にあるという『倭人伝』の記述は東の間違いとしなくてはならない。さらに、巻向説では「女王国から東へ千里ほど海を渡ると、また国がある」という記述とも矛盾する。すなわち、邪馬台国は海に面しているか、または非常に近くて、さらにその海を東へ進める場所であるから大和ということはなく、この部分も『倭人伝』の誤りとしなくてはならない。

 

さて、『倭人伝』によれば、「倭国は30数カ国からなり、長い間戦乱に明け暮れていたが、協議して鬼道(呪術)に長けた邪馬台国の女性すなわち卑弥呼を王に擁立し、連合国となったら平和になった。しかし、卑弥呼の死後(南にある狗奴国との戦争において戦死した可能性もある)また戦乱となり、卑弥呼の一族の13才になる女性、壹與(トヨ)を王にしたら戦乱が収まった」という。

 

この歴史を踏まえて、大和岩雄は「北九州にあった邪馬台国は、卑弥呼の死後おそらく250年代に大和の巻向に遷都した。箸墓の被葬者は壹與である。遷都の理由は、魏から“親魏倭王”の金印を授与された卑弥呼の時代と違って、魏の国力が弱まり北九州にいる意味合いが薄れたこと、そして政権の勢力圏が東に伸びて、大和の方が地理的要因においてベターになったことである。倭人伝の編者陳寿は遷都の情報を得ていなかったので、『倭人伝』にはそれが記載されなかった。そのために、邪馬台国の場所についての論争が果てしなく続く結果となった」という見解を発表した(『箸墓は卑弥呼の墓か』2004年大和書房)。

 

安本美典もかねてより邪馬台国東遷説を唱えている(『最新邪馬台国論争』産能大学出版部 1997年)。安本は邪馬台国を福岡県夜須町および甘木市周辺に比定し、北九州と畿内に同じ地名が多いのは、政権が移転した際、地名も同時に持ち込んだからだという。安本説のユニークな点は、天照大御神伝説は卑弥呼の投影としていること。日本では247年と248年(卑弥呼の没年)と、続けて皆既日食があり、それが天の岩戸伝説だという。そして、『紀』にある神武天皇の東征は270-280年としている(『天照大御神は卑弥呼である』心交社2009年)。

 

 


邪馬台国の謎を解く (1)

2010-12-19 18:00:13 | メモ帳

 邪馬台国の所在地については、北九州説と畿内説(奈良県桜井市纏向遺跡説が多い)が主流だが、吉備、東北、房総、四国、沖縄など、四百箇所も候補に挙げられてきた。畿内説と北九州説の論拠はネットで無数にみつかるが、http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-3-4.htmは比較的うまくまとめてあるので、これをご覧頂くことにする。

 

畿内説は、『魏志倭人伝』の記述“南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月”に関して、南は東の間違いであると推測する。実際に14世紀に書かれた『混一疆理歴代国都之図』では、九州が北端にあり、本州などはその南に連なる形になっているから、南北の間違いが決してなかったとは言い切れない。

 一方、北九州説では“水行十日陸行一月”の部分に間違いがあると推測する。

 

ともあれ、学者たちは自説にとって都合が悪い部分を、『倭人伝』の誤りとする傾向があるが、『「邪馬台国」はなかった』(注1)の著者、古田武彦は『倭人伝』に誤りはなく、そのまま読み解くべきだと主張する。今回は北九州説の代表として古田武彦説を取り上げる。

 

古田説の論点の一つは邪馬台国という名称。畿内説では邪馬台がヤマトを意味するという前提に立つが(北九州説でも福岡県山門郡大和町周辺とする説がある)、原本では邪馬壹国となっている。古田は「邪馬台の台は臺の簡略体で、臺は皇帝の居場所を示す神聖な字だから蕃族の国名に使用することはありえず、編者の陳寿がそんな重大なミスをするはずがない」と主張する。実際に、邪馬臺国と書かれている文献もあるが、古田によれば、「それは『倭人伝』を書き写した時におきた間違いである」。そして、「邪馬臺(台)国の誤りと推測するのは、大和であってほしい学者たちの願望に過ぎない」と批判する。

 

さらに、古田はこれまで学者たちが解けなかった距離と方角の矛盾を論理的に解決した。

 

『倭人伝』による邪馬壹国への行程と距離の説明は次のようである。

 

1)行程: 

帯方郡→(水行および陸行 七千余里)狗邪韓国→(海上千余里)対馬国→(海上千余里)壱岐国→(海上千余里)末蘆国(佐賀県松浦)→(東南へ陸行 五百里)伊都国→(東南へ百里)奴国→(東へ百里)不弥国→(南へ水行二十日)投馬国→(南へ水行十日、陸行一月)邪馬壹国

 

2)距離の補足説明:

帯方郡―邪馬壹国 “自郡至女王国万二千余里” 12,000余里

狗邪韓国―邪馬壹国 “周旋可五千余里”     5,000余里

  帯方郡から倭国の北端の狗邪韓国までは、1)にあるように7,000余里だから、12,000マイナス5,000となって、計算が合う。

 

 


邪馬台国の謎を解く (2)

2010-12-19 17:49:19 | メモ帳

 多くの学者たちは、邪馬壹国へ行く順路として、投馬国の次か(直進説)、または伊都国の次(放射線状説)と考えるが、古田は「“女王之所都”はこれが最終目的地だから加えられた記述であり、“水行十日陸行一月”とは出発地点の帯方郡から最終目的地の邪馬壹国までの全体の所要日数である」と推定する。すなわち、「水行十日とは朝鮮半島沿岸の水行、狗邪韓国から対馬国までの水行、対馬国から壱岐国までの水行、壱岐国から末蘆国までの水行を全部合わせたものである。陸行一月とは、朝鮮半島内の陸行、対馬国と壱岐国内での陸行、末蘆国から邪馬壹国までの陸行の三つを合わせたもの」

 

そして、「帯方郡→狗邪韓国→対馬国→壱岐国→末蘆国伊都国の行程説明では、それぞれ必ず“行”、“渡”または“度”という動詞が使われているのに対し、伊都国→奴国、不弥国→投馬国、投馬国→邪馬壹国の行程説明には至があるだけで動詞が使われていない」と指摘し、「奴国と投馬国は人口が多い大国だから言及したのであり、行程の主線ではなく傍線だ」と論じる。

したがって、「不弥国の次の行先は邪馬壹国であり、邪馬壹国を説明する部分“南至邪馬壹国”にも動詞がなく、そして距離または所要日数を書いてないのは隣接しているからだ」と説明する。

 

距離については、古田は『倭人伝』に示される各国間の里数と現在の地図上の距離を比較し、1里は7.5~9キロであることを割り出した(注2)。そして、不弥国の位置を福岡市西区姪の浜7.5キロの場合)から博多港付近(9キロの場合)に比定し、その南方向に邪馬壹国への入り口があると考える。

 

 

 

 『「邪馬台国」はなかった』が最初に刊行されたのは1971年で、古田はその後、考古学的見地からの研究を重ね、自説を補強してきた(『ここに古代王朝ありき』2010年9月)。古田説は論理的に説得力があり、それに真っ向から異を唱える学者・研究家はいないが、だからといって古田説が定説になったわけではない。

 

(注1)『邪馬台国はなかった』が、「邪馬壹国ならあった」という意味。タイトルをセンセーショナルにする出版社の販売戦略だろう。

 

(注2)安本美典は『天照大神は卑弥呼である』(心交社200912月)において、『倭人伝』における1里を90~100メートルと推定しているから、古田説に近い。但し、邪馬台国の場所は記紀との関連から、福岡県朝倉郡筑前町に比定している。安本説については、別の機会に詳述する。