東京五輪は開催されるべきである。その理由は最後に述べるとして、まず朝日新聞の「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」という社説(5月26日)に反論することから始めたい。以下、その社説から引用する(赤字)。
何より大切なのは、市民の生命であり、日々のくらしを支え、成り立たせる基盤を維持することだ。五輪によってそれが脅かされるような事態を招いてはならない。まず恐れるのは、言うまでもない、健康への脅威だ。
この先、感染の拡大が落ち着く保証はなく、むしろ変異株の出現で警戒の度は強まっている。一般へのワクチン接種が始まったものの対象は高齢者に限られ、集団免疫の状態をつくり出せるとしてもかなり先だ。
そこに選手と関係者で9万を超す人が入国する。無観客にしたとしても、ボランティアを含めると十数万規模の人間が集まり、活動し、終わればそれぞれの国や地元に戻る。世界からウイルスが入りこみ、また各地に散っていく可能性は拭えない。
この論者は現状認識を誤っている。その理由は次の通り。
◎派遣される選手と関係者(以下、「五輪関係者」)は、各国で十分PCR検査を受けてから日本に入国するはずであり、そうでなければ日本の入国審査で撥ねられる。到着後もPCR検査を繰り返すことになっているから、「五輪関係者」はコロナ陰性者だけである。要するに、日本国内に“コロナ安全地帯”が形成されるということである。
◎むしろ懸念は来日する「五輪関係者」が日本国内で感染することだが、彼らは日本では公共交通機関を使用せず、特別に提供される車を使用することになっている。そして、外部と接触しないことになっているから、日本国内で感染する可能性はゼロである。しかも、彼らはワクチンを接種しているはずである。
◎外国人の観客はいないはずだから、観客席における感染は日本人だけの問題である。無観客かどうかは五輪開催の可否とは無関係である。そして、無観客にするか否かは今後の感染状況によって決めればいいことだ。
そして、朝日は次のようにも主張する(赤字)。
人々が活動を制限され困難を強いられるなか、それでも五輪を開く意義はどこにあるのか。社説は、政府、都、組織委に説明するよう重ねて訴えたが、腑(ふ)に落ちる答えはなかった。
それどころか誘致時に唱えた復興五輪・コンパクト五輪のめっきがはがれ、「コロナに打ち勝った証し」も消えた今、五輪は政権を維持し、選挙に臨むための道具になりつつある。国民の声がどうあろうが、首相は開催する意向だと伝えられる。
そもそも五輪とは何か。社会に分断を残し、万人に祝福されない祭典を強行したとき、何を得て、何を失うのか。首相はよくよく考えねばならない。小池百合子都知事や橋本聖子会長ら組織委の幹部も同様である。
朝日は<五輪は政権を維持し、選挙に臨むための道具になりつつある>と言うが、その主張は裏を返せば、“五輪中止は政権の失点”と認識し、五輪を中止させることで、政権の支持率を落とすことを狙っているように感じる。これはまさに野党の期待することであり、朝日は野党が期待する方向に国民を誘導しようと画策していると思われる。
そもそも、五輪開催はほとんどの日本国民が望んだことであり、上述のように五輪開催が国民の安全を損なうことにはならない以上、決めたことを実行しようと政府が努力するのは当然である。朝日の批判は的はずれである。
こうした中、今は国民の間では中止論が多数派のようだが、その理由は<外国人が来ると、感染が拡大するのではないか><コロナ感染が止まらず、お祭りどころではないだろう>という情緒的感覚だと思う。
確かに日本は暗いムードだが、中國は言うに及ばず、欧米諸国では人々は明るさを取り戻しつつある。例えば、先ほどダルビッシュ投手が出場している大リーグのTV中継を覗いたら、ヒューストンの球場の観客はウエーヴを楽しんでいた。これは肩を寄せ合って、「密」状態になっていないとできない。そして、マスクを着けている人は、全体の1―2割だった。
これはほんの一例だが、インドなど特別な国を除いて、世界各国は今やコロナから回復基調にある。そんな時に、日本が五輪開催を断念すれば、五輪敗戦国だと宣言するに等しい。朝日は<何を得て、何を失うのか>と問うているが、失うものは国民の自信と誇りであると答えたい。
本日の産経新聞の「東京五輪 失敗は中国の大勝利」という見出しの記事は、ウォールストリート・ジャーナル紙の<東京五輪の開催は世界が再び動き出したという重要なメッセージになる>で結ぶ記事を紹介していた。同紙は東京五輪の開催を自由主義諸国対専制主義国(中国)の戦いの象徴と見做しており、スケールが広い観点には、朝日との格の違いを感じる。
こうした流れの中で、日本が五輪を断念するとどうなるか。意気地がない日本人と蔑まれるのは必至である。ここは踏ん張って、五輪を立派にやりとげ、「やはり日本人は民度が高い民族だ」だと再認識させ、凱歌を上げようではないか。