頑固爺の言いたい放題

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三角縁神獣鏡の謎

2011-06-18 16:41:18 | メモ帳

 

「週刊新潮」誌平成23年6月16日号は「邪馬台国論争にケリをつける!? 卑弥呼の鏡の新証拠」というセンセーショナルなタイトルの記事を掲載した。この記事はどういうことなのか、から話を始めたい。

 

『倭人伝』に「魏帝が倭国から来た使節に銅鏡百枚を与えた」という記述がある。これを裏付けるかのように、中央部に神獣が描かれ、縁に多数の三角形の模様があることから「三角縁神獣鏡」と名付けられた銅鏡が畿内で出土し、その銘文を研究した学者、富岡謙蔵が魏国製と判定した。そして、それが邪馬台国畿内説を補強する材料となった。

 

 

ところが、昭和56年(1981年)に考古学者の森浩一は

    三角縁神獣鏡は中国ではまったく出土していない。

    同鏡は他の中国鏡に比べて大きすぎる。

    古墳内での扱いが、正眞の中国鏡は被葬者のそばに置かれているのに、同鏡は棺の外に置かれている。

という理由から、魏国産説に疑問を唱えた。

 

さらに時を同じくして、中国人の王仲殊(元・中国社会科学院考古所長)は、三角縁神獣鏡は魏国と敵対していた呉国の鏡のデザインと同じものであることから、日本に渡来した呉の工人が作ったものである、という説を発表した。

 

昭和59年(1984年)に開かれた日中合同古代史シンポジウムにおいて、日本側は「一部の三角縁神獣鏡に景初三年(239年)―卑弥呼が魏に遣使した年―や正始元年(240年)など、魏の年号が記されているから、魏帝が卑弥呼に与えるために特鋳したものである(だから中国では出土していない)」と主張した。これに対し中国側の王仲殊は「当時、魏は呉と敵対していたから、敵国の年号を入れるはずがない」と反論した(竹田昌暉著「三百年間解かれなかった日本書記の謎」からの引用)。

 

その後、同鏡の出土が続いて400面を超え、魏帝が卑弥呼に与えたものとしては数が多すぎるという矛盾がでてきたこと、および魏国には存在しなかった景初4年という銘のものも現れたこと、により倭国製造説が優勢となった。

 

そうした論争をまとめるかのように、安本美典は「最新邪馬台国論争」(平成9年)において、次のように述べている。

 

“三角縁神獣鏡はこれまでに460面も出土しており、魏の下賜品としては多すぎること、おもに4世紀代に築造された古墳から出土していること、群馬県や鹿児島県などからも出土しており、卑弥呼の鏡としては分布範囲が広すぎること、科学分析によれば同鏡は魏が存在した華北ではなく、華南・華中産の銅が使われていること、デザインも華南・華中であること、から判断して倭国製である。4世紀に倭国にやってきた東晋(江南)の鏡師が華中・華南の銅を使って製造したものだろう。”

 

一方、前出の竹田昌暉は「大和朝廷の始祖は呉が滅亡した時に日本列島に流れてきた残党である」という説を唱え、その時に工人も一緒に渡来して、倭国において三角縁神獣鏡を製造し、呉軍の首長すなわち大和朝廷の始祖が先住民に与えて宥和政策に使用した」という倭国産説を唱えた(平成16年)。

 

三角縁神獣鏡が倭国産であっても必ずしも邪馬台国畿内説を覆すことにはならないが、密接に関連しているため、その後も邪馬台国畿内派と北九州派の間に論争が続いている。例えば、大平裕は「日本古代史正解 纏向時代編」において考古学的見地から安本美典に反論しているが、あまりにも専門的なのでここでは省略する。

 

こうして白熱した論争が続いている最中に、冒頭に述べたように「週刊新潮」が論争に終止符を打つかのような見出しの記事を掲載したというわけだ。

 

その記事は “唐代の公文書の集成『全唐文』に「魏は倭国が望むものを特注品として与えた」と読める文章が発見された。また、実在しないとされてきた「景初4年」という年号が別の古文書に発見された。この発見は邪馬台国が畿内にあったことを窺わせるものだ”と論じている。

 

「週刊新潮」のライターはどうも邪馬台国畿内派らしい。前段の「発見」が後段の「邪馬台国が畿内にあったことを窺わせるものだ」という結論を導くことにはならないからだ。かりに「魏帝が特注品を倭国の使節に下賜した」のが事実としても、出土した三角縁神獣鏡がすべて魏製ということにはならない。また、「景初4年という年号が実際に使われた」としても、それが魏国産説を否定する証明にはならない。さらに、こうした議論が邪馬台国がどこにあったかを結論づけるものではない。明らかに論旨が飛躍している。「発見」そのものには意義はあるが、三角縁神獣鏡がどこで作られたかという論争にも、ましてや邪馬台国論争にも終止符を打つことにはならないと考える。

 

注 景初は3年で終わり、次の年号は正始である。

 

 

 


大和朝廷と邪馬台国の関係

2011-06-11 09:37:45 | メモ帳

 

2世紀末から3世紀半ばにかけて存在した邪馬台国と、4世紀に出現したと思われる大和朝廷。この両者はどのような関係にあるのか。この命題については、学者・研究家それぞれみな違う意見を述べているが、大別して邪馬台国は大和朝廷の前身であるとする説、邪馬台国は大和朝廷によって滅ぼされたとする説、邪馬台国は平和的に大和朝廷に継承されたとする説、両者はまったく無関係であるとする説の四つに分けられる。

 

(1)  邪馬台国は大和朝廷の前身であるとする説 

●安本美典説 (「天照大神は卑弥呼である」心交社 2009年)

邪馬台国は現在の福岡県朝倉市(旧甘木市)に278年まで存在した。卑弥呼とは天照大神である。神武天皇は278年に即位し、280~285年ごろに邪馬台国を率いて東征し、ヤマト朝廷を開いた。神武の崩御は298年。畿内には北九州の地名と同じものが多い。これは北九州から畿内に集団移住があったことを示す。また、畿内では3世紀に造られたと思われる銅鐸が多く出土するにもかかわらず北九州で出土しないのは、畿内の先住民が神武一派により滅ぼされたからである。

 

(2)邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされたとする説 

●若井敏明説 (「邪馬台国の滅亡」吉川弘文館 2010年)

仲哀天皇とその后である神功皇后は大軍を率いて北九州の反ヤマト勢力を制圧せんと試みたが、仲哀は敵の矢に当たって戦死(365年前後)。その後、神功が指揮をとって敵の本拠地、筑紫の山門(ヤマト)に攻め入って367~369年ごろ田油津媛(たぶらつひめ)を誅殺した。これが邪馬台国の滅亡である。

(若井説を正しいとすると、邪馬台国は卑弥呼やトヨが活躍した頃からさらに百年ほどは存在したことになるが、そのような証拠はない)

 

●関裕二説 

「天孫降臨の謎」PHP2003

「古代史 封印された謎を解く」PHP2005

古事記に「神功皇后が山門の女首長を殺した」という記述がある。「山門」は邪馬台国北部九州説の最有力候補地であるから、その「女首長」とは卑弥呼であろう。したがって、神功皇后とは邪馬台国の女王・卑弥呼のあとを継いで擁立されたとする台与(トヨ)ではないかという推測が生れる。

神功皇后(トヨ)は魏に対して自分が卑弥呼の宗女だと偽称し、親魏倭王の金印を得た。ヤマト(仲哀天皇の正妃の子)は神功皇后を恐れて撃たんとしたため、神功はその子応神とともに日向に逃れた。そして後日ヤマトに攻め入り、応神が皇位についた。神功を支えたのは武内宿祢であり、蘇我氏の始祖である。神武、崇神、応神は一人の事績を三分割したもの。8世紀の朝廷は蘇我氏を倒した後裔であるから、武内宿祢は『記紀』から抹殺した。伊勢神宮の外宮に祀られた豊受大明神とはトヨではないか。

 

●江上波夫説 (「騎馬民族国家」中央公論社)

4世紀前半、辰韓の辰王が北九州に来て、邪馬台国(または狗奴国)を滅ぼし、崇神天皇となった。4世紀後半または5世紀初めに夫余族が侵入して、応神天皇になった。応神は北九州から東征し、大和盆地の在地勢力を統合して統一国家である大和政権を建てた。『記紀』にある神武天皇の東征は応神の事績である。

 

●相見英咲説 (「倭国の謎」講談社新書 2003年)

邪馬台国は畿内大和にあった。中心地は纏向である。『倭人伝』にある投馬国は出雲で、同じく狗奴国は濃尾平野にあった。火火出見(ホホデミ 神武天皇)は卑弥呼が統治していた邪馬台国(大和)に220年ごろに九州からやってきて官職についた。神武以下8代の開花までは邪馬台国の高官だっただけで、王ではなかった。9代の開花天皇の時に(西暦300年ごろ)、その子の崇神とともに邪馬台国を滅ぼして、倭国の王(大和朝廷)となった。朝廷は邪馬台国の存在を記録から抹殺し、神武から倭国の王だったことにして、万世一系の天皇観を創造した。

 

●大平裕説 (「日本古代史正解」講談社 2010年)

邪馬台国=原ヤマト政権は纏向(奈良県)に存在したが、卑弥呼(天照大神)の死とともに弱体化し、これを打ち破ったのが饒速日命(にぎはやひのみこと)と長髓彦の連合軍。さらにこれを滅亡させたのが神武天皇で大和朝廷の初代天皇となった。

 

(3)大和朝廷は邪馬台国を平和的に承継したとする説 

●竹田昌暉説 (「2300年間解かれなかった日本書記の謎」 徳間書店 2004年)

邪馬台国は纏向(ヤマト)に存在した。女王卑弥呼とは天照大神で、その墓は纏向の箸墓。一方、中国では280年に呉の滅亡という事件があり、その時に呉の残党が日本列島にやってきて、一部は河内に、一部は日向に定着した。日向に定着した一派が後に天孫降臨として、『記』に記された。その首長である神武が310年ごろに東征を開始し、315年に大和に入って、饒速日命・長髓彦連合軍に勝利してヤマト朝廷が始まった。神武の勢力は邪馬台国を平和裡に接収した。

 

(4)大和朝廷と邪馬台国は関係がないとする説

●松本清張説 (「清張古代史記」日本放送出版協会 1982年)

邪馬台国は北九州に存在し、半島南部にいた倭人と親密な関係にあった。ヤマト朝廷を樹立したのは、北方騎馬民族(たぶん夫余族)で、半島からやってきたが、北九州にいた勢力(すなわち邪馬台国を中心とする連合国)との戦闘を避け、瀬戸内海を通過し河内に上陸して、大和に政権を樹立した。その時期は4世紀の半ばであろう。『記紀』に民衆説話が多く取り入れられているのは、先住民族との宥和政策を物語る。

一方、清張 は「古代史疑」(中央公論社 1959年)では次のように述べている。

「3世紀の終わりから4世紀の初めにかけて、中国と朝鮮半島における政治情勢に変化があり、その時に半島から北朝鮮または満州系の種族が北九州に渡来し、狗奴国を服従させ、さらに女王国も手中にして、それらの合体した勢力が畿内に移り、以前から存在していた部族国家を征服して統一政権を樹立した」

 

●八幡和郎説 (「本当は謎がない古代史」ソフトバンク新書 2010年)

1-2世紀当時、日本列島にいくつもの小王国があった。邪馬台国もその一つにすぎず、日本の歴史から見ればその存在は重要なことではない。そして、邪馬台国がどこにあったにせよ、4世紀になってヤマト朝廷が日本を統一した頃、邪馬台国はすでに滅亡していた。

 

まさに十人十色。古代史の学者・研究家はそれぞれ違う説を唱える。ほかにもいろいろな説があるが、きりがないので、このへんでやめておく。確たる物証がない以上、どの説も想像の域をでるものではない。これは永久に謎として残るのではないか。