「週刊新潮」誌平成23年6月16日号は「邪馬台国論争にケリをつける!? 卑弥呼の鏡の新証拠」というセンセーショナルなタイトルの記事を掲載した。この記事はどういうことなのか、から話を始めたい。
『倭人伝』に「魏帝が倭国から来た使節に銅鏡百枚を与えた」という記述がある。これを裏付けるかのように、中央部に神獣が描かれ、縁に多数の三角形の模様があることから「三角縁神獣鏡」と名付けられた銅鏡が畿内で出土し、その銘文を研究した学者、富岡謙蔵が魏国製と判定した。そして、それが邪馬台国畿内説を補強する材料となった。
ところが、昭和56年(1981年)に考古学者の森浩一は
① 三角縁神獣鏡は中国ではまったく出土していない。
② 同鏡は他の中国鏡に比べて大きすぎる。
③ 古墳内での扱いが、正眞の中国鏡は被葬者のそばに置かれているのに、同鏡は棺の外に置かれている。
という理由から、魏国産説に疑問を唱えた。
さらに時を同じくして、中国人の王仲殊(元・中国社会科学院考古所長)は、三角縁神獣鏡は魏国と敵対していた呉国の鏡のデザインと同じものであることから、日本に渡来した呉の工人が作ったものである、という説を発表した。
昭和59年(1984年)に開かれた日中合同古代史シンポジウムにおいて、日本側は「一部の三角縁神獣鏡に景初三年(239年)―卑弥呼が魏に遣使した年―や正始元年(240年)など、魏の年号が記されているから、魏帝が卑弥呼に与えるために特鋳したものである(だから中国では出土していない)」と主張した。これに対し中国側の王仲殊は「当時、魏は呉と敵対していたから、敵国の年号を入れるはずがない」と反論した(竹田昌暉著「三百年間解かれなかった日本書記の謎」からの引用)。
その後、同鏡の出土が続いて400面を超え、魏帝が卑弥呼に与えたものとしては数が多すぎるという矛盾がでてきたこと、および魏国には存在しなかった景初4年㊟という銘のものも現れたこと、により倭国製造説が優勢となった。
そうした論争をまとめるかのように、安本美典は「最新邪馬台国論争」(平成9年)において、次のように述べている。
“三角縁神獣鏡はこれまでに460面も出土しており、魏の下賜品としては多すぎること、おもに4世紀代に築造された古墳から出土していること、群馬県や鹿児島県などからも出土しており、卑弥呼の鏡としては分布範囲が広すぎること、科学分析によれば同鏡は魏が存在した華北ではなく、華南・華中産の銅が使われていること、デザインも華南・華中であること、から判断して倭国製である。4世紀に倭国にやってきた東晋(江南)の鏡師が華中・華南の銅を使って製造したものだろう。”
一方、前出の竹田昌暉は「大和朝廷の始祖は呉が滅亡した時に日本列島に流れてきた残党である」という説を唱え、その時に工人も一緒に渡来して、倭国において三角縁神獣鏡を製造し、呉軍の首長すなわち大和朝廷の始祖が先住民に与えて宥和政策に使用した」という倭国産説を唱えた(平成16年)。
三角縁神獣鏡が倭国産であっても必ずしも邪馬台国畿内説を覆すことにはならないが、密接に関連しているため、その後も邪馬台国畿内派と北九州派の間に論争が続いている。例えば、大平裕は「日本古代史正解 纏向時代編」において考古学的見地から安本美典に反論しているが、あまりにも専門的なのでここでは省略する。
こうして白熱した論争が続いている最中に、冒頭に述べたように「週刊新潮」が論争に終止符を打つかのような見出しの記事を掲載したというわけだ。
その記事は “唐代の公文書の集成『全唐文』に「魏は倭国が望むものを特注品として与えた」と読める文章が発見された。また、実在しないとされてきた「景初4年」という年号が別の古文書に発見された。この発見は邪馬台国が畿内にあったことを窺わせるものだ”と論じている。
「週刊新潮」のライターはどうも邪馬台国畿内派らしい。前段の「発見」が後段の「邪馬台国が畿内にあったことを窺わせるものだ」という結論を導くことにはならないからだ。かりに「魏帝が特注品を倭国の使節に下賜した」のが事実としても、出土した三角縁神獣鏡がすべて魏製ということにはならない。また、「景初4年という年号が実際に使われた」としても、それが魏国産説を否定する証明にはならない。さらに、こうした議論が邪馬台国がどこにあったかを結論づけるものではない。明らかに論旨が飛躍している。「発見」そのものには意義はあるが、三角縁神獣鏡がどこで作られたかという論争にも、ましてや邪馬台国論争にも終止符を打つことにはならないと考える。
注 景初は3年で終わり、次の年号は正始である。