頑固爺の言いたい放題

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謝罪に関する朝日新聞元主筆若宮氏の意見

2014-09-14 16:23:42 | メモ帳

文芸春秋十月号に≪「慰安婦検証記事」、朝日OBはこう読んだ≫という特集があり、その中にある元主筆若宮啓文氏の寄稿に次の一節がある。

そもそも慰安婦が「強制的に狩り出された」というのは、吉田証言があろうがなかろうが、韓国では基本的な認識です。何をもって強制連行というかには議論がありますが、河野談話が認めたように、総じて強制性があったことは否定できない。

慰安婦問題が韓国における反日イデオロギーの主要な武器になったのは、故吉田誠治氏の歴史捏造に朝日新聞がお墨付きを与えたからである。吉田氏の捏造以前には、「強制連行」なる情報は存在しなかった。したがって、この3行は若宮氏の思い込みに過ぎない。

 さて、日本や朝鮮では昔から公娼が存在した。ウィキペディアにある妓生(キーセン)の項目をご覧いただく。妓生には、私も1970年代にずいぶんお世話になったので、懐かしいかぎりです(笑い)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%93%E7%94%9F

第二次大戦当時は(その後もしばらくは)、売春婦の存在は日韓社会の常識だった。貧困のために身を売る女性はたくさんいたし、女性が不足した時は新聞広告で募集した。そして広告が掲載された朝鮮の新聞も残されている(6~7年前に保守派の雑誌で広告実物を見たことがある)。強制連行など必要なかったのである。朝日新聞は第三者による調査委員会をつくるそうだが、調査すればするほど「強制連行はなかった」という結論に到達するはずである。公明正大な調査に期待する。

また、「強制性があったことは否定できない」と若宮氏は主張するが、「強制性」とは日韓両政府が韓国内の反日世論を和らげるために作った玉虫色の表現にすぎない。いまさら「強制性」とは何かを論ずることは無意味である。

若宮氏の論文には次のような一節もある。

朝日が過去の報道を訂正しても、慰安婦問題の本質とはまったく関係がなく、問題は存在しつづけるのです。…当時の価値基準では問題なかったという人がいますが、だましたり脅したり、人身売買したりして女性を集めることが、果たして当時に基準でも許されただろうか…

若宮氏は、女衒(ぜげん)の非倫理性を日本政府または日本軍の責任にしたいようだが、それは筋違いである。それでも日本政府は大乗的見地からあえて慰安婦を救う基金を設けたが、反日派の反対(もしくは妨害)で慰安婦たちが受け取ることがなかったと聞いている。人道問題はそこで終わっているはずだ。

若宮氏の主張は、論点をすり替えることで、朝日の責任をできるだけ薄めようとしている感がある。

 

 

 

 


怨霊になった聖徳太子

2014-09-09 15:18:17 | メモ帳

日本人なら誰でもその名を知っている聖徳太子。17条の憲法制定、遣隋使の派遣など輝かしいな業績があり、そして法隆寺という立派な寺に祀られているのになぜ天皇になれなかったのか―またはならなかったのか。私はこれをかねてより疑問に思っていたが、≪逆説の日本史≫(井沢元彦)を読んで納得した。そして、聖徳太子にはほかにも数多の謎があることを知った。その要点をここに記しておきたい。なお、聖徳太子という諡号は死後100年以上経ってから贈られたものなので、ここでは本名の厩戸皇子として話を進める。

厩戸皇子は「失意」の人生を送ったと推測される。その根拠の一つは天皇になれなかったことで、その理由は叔母の推古天皇が長生きした(75才で死亡)からである。しかし、天皇になれるチャンスがあったことも事実でる。

そもそも、推古天皇は最初の女帝だが、なぜそのような前例にないことが可能になったのか。推古の前の崇峻天皇(厩戸の伯父)は東漢直駒(やまとあやのあたいのこま)に暗殺されたが、その暗殺の目的はなんだったのか。だれが得をしたのか。

東漢直駒(渡来人)に暗殺を命じたのは蘇我馬子である。その東漢直駒は厩戸の妃(蘇我馬子の娘の刀自古娘)と密通していたことで(崇峻を暗殺したことではなく)、蘇我馬子によって殺された。そして、厩戸の妃の刀自古娘は自殺した。崇峻のあとを継ぐ第一順位者は厩戸だったが、そのために暗殺の黒幕と目されたらしく、かえって厩戸が即位する妨げとなった。そこで即位したのが推古天皇。彼女は竹田皇子という息子を即位させたかったが、まだ若年だったために自分が即位した。ところが、その竹田皇子が若死してしまったので、そのまま天皇の地位に居座った。

このストーリーは日本書紀に書いてあることだが、不可解な点がいくつかある。まず、蘇我馬子が暗殺を命じておきながら、理由はともかくその下手人を殺していること。それになぜ暗殺を命じたのか。結果的に得をしたのは推古天皇だが、それによって蘇我馬子が得をしたとは思えない。ともあれ、厩戸はさんざんな目にあったわけで、精神的ショックは大きかったろう。

「失意」の根拠はそればかりではない。厩戸皇子は先に死んでいた母親の間人皇后の墓に妃とともに埋葬された。ところが、合葬された妃は正妃ではなく、三人いた妃のうちでもっとも身分が低い女性だった。これは異常である。しかも、その妃は厩戸が亡くなる前日に死んだことになっており、そして厩戸が「一緒に死のう」と言ったという文書が残されている(「太子伝歴」)。これについては、厩戸がその妃と心中したと推測すると、前後のつじつまが合ってくる。

さらに合点がいかぬことは、母親の墓に合葬されたことと殯(もがり)の期間が短かったこと。“もがり”とは一定期間(数カ月から数年)霊魂を慰め、その間に墓を用意することで、現代仏教の49日に相当する。そして、異常な死の場合は“もがり”の期間が非常に短いのが通例であり、厩戸は同じ月に埋葬された(「聖徳太子」梅原猛)。つまり、独自の墓が造らず、“もがり”も行われず、ありあわせの母親の墓に合葬された。厩戸ほどの身分と事跡を考えれば、“もがり”が長くて、立派な墓に葬られて当然だが、そうはなっていないのは不自然である。

厩戸が「失意」の人生を送ったという状況証拠はもう一つある。それは、諡号に“徳”が入っている天皇は、例外なく無念の死を遂げていること。聖徳太子以後、諡号に“徳”が入った天皇は、36代の孝徳、48代の称徳、55代の文徳、75代の崇徳、81代の安徳、84代の順徳の6人だが、皆不遇の人生を送り、無念の死を遂げている。

 例えば、崇徳天皇は23才の若さで譲位させられ、息子に天皇位を継がせることができなかった。そしてクーデターを起こしたが敗れ(保元の乱)、讃岐に流された。讃岐から写経を送ったが、朝廷に拒否され、天皇家を呪いつつ憤死した。太平記にも大魔王と記されている。明治天皇が即位の際に崇徳の陵に使者を送っている事実からも、崇徳が後世の天皇家に怨霊として怖れられていたことがわかる。

さて、当時、権力者としてもっとも大切な資質は“徳”だとされていた。だから、失意のうちに死んだ天皇の諡号に“徳”をつけることで鎮魂したのではないか。怨霊となって祟ることがないように計らったのではないか。厩戸の死後100年以上経ってから、聖徳という諡号が贈られたが、それは“徳”が入った諡号を贈ることで鎮魂するようになった最初の例ではないか。(聖徳太子以前には、仁徳天皇や懿徳天皇がいるが、この“徳”は本来の意味であろう)

厩戸皇子を鎮魂しなくてはならない理由はもう一つある。それは、息子の山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて、一家心中に追い込まれたこと。この事件で厩戸の血統が途絶えた。そして、後年蘇我本家は天智天皇によって滅ぼされたが、当時の人々特に朝廷と蘇我一族は厩戸の怨霊の仕業と考えたのだろう。

天皇家の大スターである聖徳太子は、不遇な人生を送ったことで、後年怨霊として怖れられたのである。