『日本古代史正解 纏向時代編』大平裕著(講談社2010年5月)は邪馬台国畿内説に立って、北九州説を批判しており、その論点には傾聴すべきものが多々ある。また、神武天皇と欠史八代の天皇の実在を論証していることも高く評価できる。しかし、納得できない点が数ヶ所ある。
一つは、北九州説(というより安本美典の甘木説)をルート、距離を無視した荒唐無稽な話と批判しているが、それでは古田武彦の大宰府周辺説(『邪馬台国はなかった』)をどう評価するか。古田説は『倭人伝』の記述がすべて正しいとして結論を導きだしているが、大平裕は古田説を知らないのではないか。
もう一つは、当時の人口を分析して、北九州説は成り立たないと批判していること。
『倭人伝』によれば、倭国の戸数は次のようになっている。
国名 戸数
対馬国 1,000
一支国 3,000
末蘆国 4,000
伊都国 1,000
奴国 20,000
不弥国 1,000
邪馬台国 70,000
投馬国 50,000
上記合計 150,000
狗奴国、 その他21国 記述なし
『倭人伝』に示された戸数の記載があるものだけで15万戸。1戸5人として、人口は75万人。これにその他21カ国と狗奴国があり、少なめに見て5万戸、多めに見て10万戸を加えると、総戸数で20万戸から25万戸、人口にして100万人から125万人となる。
一方、『人口から読む日本の歴史』(鬼頭宏著、講談社学術文庫)によれば、奈良時代の北部九州(対馬・壱岐・筑前・肥前・豊前・豊後)の比率は、全人口451万人の8%なので、『倭人伝』に記された倭国の人口100万人が同じ比率であったとすると、日本の人口は1250万人だったことになる。当時の満州と朝鮮半島を合わせた人口は128万人という記録があり、当時の日本の総人口はその10倍となって、つじつまが合わない。
その論理には明らかな誤りがある。投馬国と狗奴国は明らかに北九州ではないし、その他21ヵ国も北九州ではない可能性が強い。したがって、『倭人伝』に示された北九州の戸数は、上記の15万から投馬国の5万を差し引いた10万であるはずで、1戸4-5人として北九州の人口推定は40―50万となる。
大平裕は邪馬台国時代における北九州の人口比率を論じながら、北九州以外の地域(投馬国、狗奴国など)の人口も加えて、それに奈良時代における北九州の人口比率を掛けて、日本の総人口を1250万人と計算したが、これは単純なミスだろう。
下に示す表は『正解』に記載されたもので、出所は前出の『人口から読む日本の歴史』。ただし、『正解』に記載されているのは「南九州」から上の部分であり、「上記合計」から下の部分と「比率」は同書の記述に基づいて私が補足したもの。
そもそも、邪馬台国時代(3世紀)における北九州の人口比率を奈良時代と同じとすることに無理がある。3世紀は、北九州は大陸の文化と移民を受け入れる窓口で、大いに栄えたであろう。上の表は奈良時代に畿内と畿内周辺の人口比率がそれぞれ10.1%―11.2%で、合わせて21.3%だったことを示すが、それならば3世紀における北九州の人口比率は15%ほどであっても不自然ではない。北九州の人口を40-50万程度として、それが全日本の15%だったとすれば、日本の3世紀における総人口は 260-330万人だったことになる。その数字は奈良時代の人口450万人と比較しても整合性がある。
邪馬台国北九州説の 難点は、『倭人伝』による当時の北九州の人口である40-50万人が、奈良時代に34万人に減少したこと。これは王権の移動に伴って人口が移動したと考えればつじつまは合うが、やや理解し難い点である。
結論として、人口問題は邪馬台国北九州説を否定する材料にはならないと考える。