日本の対中国・韓国の外交政策は、先の戦争に対する贖罪意識に影響されているように感じる。この贖罪意識がどのように醸成されたかを調べた結果、その原点の一つは「中国の旅」(本多勝一著)(以下本書)であることに気づいた。
だが、私はこれまで本書を読んだことがない。本書が刊行された1971年当時、日本にいなかったということもある。そこで、最近ネットで探して入手したというわけである。
さて、本書は、「戦争中の中国における日本軍の行動を、中國側の視点から明らかにすること」、そして「侵略された側としての中国人の『軍国主義日本』像を具体的に知ること」を目的に、朝日新聞の本多記者が1971年に中国各地を取材した結果をまとめたものである。(同書「まえがき」より)
「まえがき」通り、本多氏は日本軍が中国民衆に対して、いかに残虐であったかをたんたんと述べている。「たんたんと」というわけは、本多氏が一切自分の意見や感想を述べず、中国人の発言をそのまま記述していること。だから、本多氏は聞いたことの裏取りはしていない。つまり、本書は“聞き取り調査の集大成”なのである。
本書から、日本軍の残虐な行動をいくつか拾ってみよう。
1942年7月、当時の黒河省*において、労務者(労工)として徴用された呉さんの体験談を本書19-20ページから引用する。(赤字)
*(注)1932~1945年に存在した満州国の一部で、現在の黒竜江省の一部
呉さんは強制的に村役場に引っ張られた。他の四人とともに瀋陽市の労務係まで連行され、ここから貨物列車に乗せられた。兵隊に警備された貨物列車には、狩り集められた労工が満載され、真っ暗な車内に身動きもできないほど詰めこまれたうえ、大小便も車内でやらされて、家畜以下の惨憺たる「旅」となった。・・・・
一行はムシロのテントに収容され、戦備工事をさせられることになった。野生の草や、腐った粟、豆カスなどの、家畜のような食事がつづいた。力が出ないので活発に働くことができない。日本人の監督がしょっちゅう殴りつけた。未明からテントを出て、夜は暗くなって帰る強制労働の日々が続いた。
あるとき、二人の労工が脱走したが、まもなくつかまって連れ戻された。二人は裸にされて後ろ手に縛られ、木の枝にぶらさげられた。・・・木の棒や天秤棒で二人をたたきのめす。気絶すると水をぶっかけた。再び乱打、気絶。また冷水。・・・まだ生きている二人は、飢えた軍用犬のたむろする中に放り込まれた。中国人を「餌」として食うことに慣れている軍用犬の群れは、たちまち二人にとびかかり。音をたてて食った。
この記述にはいくつかの疑問点があるが、それは最後(次回)に述べる。
▼平頂山事件
1935年8月、抗日義勇軍ゲリラが日本軍の拠点を攻撃し撤退したが、日本軍はゲリラが平頂山一帯のに潜んでいると断定し、民全員を殺戮した。
この事件が実際に起きたことは確認されており、この事件をテーマにした著作も3点ある。そして、Wikipediaにも記載されている。
なお、本書では虐殺された人数を3,000人としているが、Wikipedia によれば、この集落の人口は1,300人で、犠牲者は600人だったという説もある。
▼南京大虐殺 (1937年12月)
本書230-231ページから引用する。(赤字)
虐殺は、大規模なものから一人~二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行われ、日本兵にみつかった婦女子は片端から強姦された。紫金山でも2千人が生き埋めにされている。こうした歴史上まれにみる惨劇が2カ月ほど続けられ、約30万人が殺された。
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本書に記載されている日本軍の残虐な行動は、いずれもある程度は真実だったと判断する。その根拠は、証人が本多氏に当時の傷跡を見せたりしてストーリーに信憑性があること、写真や文書が残されていること、骸骨の山が残っていること、などである。
しかし、疑問点も多い。これについは次回に述べる。