「神武天皇以下第9代までの天皇は、日本書紀による虚構である」が、多くの学者や研究家の通説である。
その理由として真っ先に挙げられるのが9人の天皇の超人的寿命。百才以上の長寿天皇がゾロゾロいるのはありえないというわけだ。序文に掲げた歌の文句にあるように、神武天皇が即位したのが紀元2600年(660BC)であることとつじつまを合わせるために、異常に長寿の天皇を捏造せざるをえなかったというのが通説である。
もっとも、古代においては、春と秋の収穫期ごとに1年経ったと数えたという説もあり、これに従えば超人的長寿は半分になるから納得がいく。
そのほか、東征という事績が記されている神武はともかく、9代までの他の天皇(欠史8代)の事跡がまったく紀に記されてないのは不自然だということも虚構説の根拠となっている注1。
「神武以下第9代までの天皇は虚構である」とはいっても、天皇族が九州から大和に移ってきたことには史実としての信憑性があるから、「東征は第10代の崇神天皇の事跡であるが、初代天皇の即位時期を古くするため、事績を二人に分割し、初代を神武とした」(関裕二注2)という見解がある。この説は言うまでもなく、第2代から第9代までの天皇は実在しなかったことを前提にしている。
一方、嘘を書くにしても、そんな子どもだましの嘘を書くのは解せない。やはり9人の天皇は実在したのではないか、という説を唱える学者もいる。 相見英咲(注3)は、欠史9代の天皇は実在したと考え、次のような見解を唱える。
「天皇族はホホデミ(火火出見尊)という通称がある神武天皇の時に(220年前後)に九州から大和にやってきて、邪馬台国に仕えた。ミマツヒコという実名があった第5代の考昭天皇は任那に派遣された長官であり、オオヤマトネコヒコという実名があった第7代の孝霊天皇と第8代の孝元天皇は北九州に派遣された長官だった」
つまり、相見説によれば、神武から第9代の開化までは、実在はしたが、国王ではなかったのである。
「邪馬台国は卑弥呼の死後(250年ごろ)勢力が衰え、4世紀に入ってから天皇族が邪馬台国を滅ぼして新しい倭王(日本国王)になった。それが第10代の崇神天皇(318年崩御)だ」
「倭王となった時、天皇族は神武以来一貫して倭国を支配していたという形に整えるために、邪馬台国と欠史8代に関する資料を抹殺した。そのために、後年日本書紀を編纂する際、邪馬台国と欠史8代の時代になにが起きたかまったくわからなかった」
相見の見解は面白いし、筋が通っている。しかし、相見説は邪馬台国の所在地が大和であることを大前提としており、邪馬台国北九州説も有力であることから、現段階では一つの見方とせざるをえない。
さらに、同氏の見解は欠史8代の天皇たちの実名だけを頼りに組み立てた想像にすぎないことも弱点である。(注4)
学説のどれが正しいかを多数決で決めることはナンセンスだが、神武天皇実在説はまだ例外的存在である。
その例外の一人が鳥越憲三郎(注5)である。同氏は神武に始まる9代の天皇の陵墓の場所に法則性が認められることを根拠に、神武と欠史8代の天皇は実在したと主張した。
(注1)神武以下9代までは虚構であるという根拠はほかにもいくつかあるが、専門的なので省略する。
(注2)関裕二:1959年生、在野の古代史研究家、古代史に関する著作がもっとも多いのはこの人。
(注3)相見英咲:1950年生、大阪市立大大学院国史学卒業、著書「倭国の謎 知られざる古代日本国」講談社選書 2003年発行
(注4)○○天皇という謚号は日本書紀が編纂された後に淡海三船という学者が考えたものであって、それまでは実名で呼ばれていた。
(注5)鳥越憲三郎:1914-2007 元大阪教育大名誉教授、古代史、著書「古代中国と倭族」(中公新書 2000年)、「古代朝鮮と倭族」(中公新書 1992年)、「神々と天皇の間」(朝日新聞社 1970年)