当ブログ8月10日の記事「産業遺産登録センターを批判する日本人」のコメント欄に、爺は「徴用」について次にように述べた。(赤字)
国に協力することは日本人の責務という雰囲気だったから、拒絶する人はいなかった。当時は、朝鮮人も日本人だったし、朝鮮人でも軍隊に志願する人が多かったから、「朝鮮人は別だ」という議論は成り立たない。
では、なぜ「国に協力することは日本人の責務」だったのか。言い換えると、“徴用は、給料をもらうとはいえ、政府が個人生活を奪う措置であり、反発して当然なのに、日本人はなぜそれを当然と受け止めたか”である。
たまたま、今読んでいる「逆説の日本史、24巻、帝国憲法と日清戦争の謎」(井沢元彦著)に述べられている教育勅語にその答えがあった。
教育勅語は明治天皇の訓話であり、日本人の日常生活の規範を語るものだった。今でこそ教育勅語を信奉する人物は極右の異端者と見做される風潮があるが(例 森友事件における籠池夫妻)、内容はごく常識的で、「父母二孝二兄弟二友二夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆二及ホシ学ヲ修メ業を習ヒ以テ智嚢ヲ啓発シ」のごとく、人類の普遍的価値観を示したものである。
爺も小学校の高学年の時に、全文を暗記した記憶がある。難しい単語が羅列されているものの、何度も口に出して復唱しているうちに理解できた。当時の日本人にとって、教育勅語は精神的支柱であり、それを実践することが日本人のアイデンティティだった。
その一節に「一旦緩急アレバ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ」とある。直截的には兵役に服す心掛けを語っているが、広義には「徴用」に対する心掛けも含んでいると解せられる。当時の雰囲気としては、“戦地で戦っている兵隊さんのことを思えば、「徴用」ぐらい何でもない”だった。
「徴用」と言う言葉自体には強制的意味合いがあるが、教育勅語に示される思想が国民に浸透しており、「徴用」は「国民の責務」という意識だった。従って、were forced to work という表現は誤りである。
軍艦島をユネスコの世界産業遺産に登録するに当たり、韓国側は当初、登録そのものに反対していたが、中途から戦術を変更し、“were forced to work”という表現を認めれば登録に同意する“と言ったために、日本側はそれに同意した。そして、これが日本の致命傷になった、と爺は認識している。
では、朝鮮人の「徴用」に対する意識はどうだったか。
1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックのマラソンで孫基禎選手が優勝したとき、朝鮮の新聞が孫選手の胸の日の丸を消した写真を掲載した事件があった。このことから、朝鮮人の意識の底流には、反日精神があったことが窺われる。
この事件を除いて、1920年以降1945年の終戦まで、朝鮮において独立運動はおろか、反日的活動があった記録はない(ことによると、爺が知らないだけかも知れぬが)。
戦争末期においては、20代、30代の朝鮮人は、小学生の頃から教育勅語などの教育により、善悪は別として、精神的日本人化が浸透していた。だから、兵役に志願する朝鮮人が多数存在した(貧困も志願の動機だったが)。
その精神的日本人化の実態については、「韓国『反日主義』の起源」(松本厚治著)に資料とともに詳しく述べられている。
結論:「徴用」が行われた当時は、まさに「一旦緩急アレバ義勇公二奉シ」の時だったから、日本人は「徴用」を責務と受け止めたのである。朝鮮人も日本人と全く同じだったとまでは言わぬが、少なくとも現在の韓国人の精神構造とはまったく異なるものだったことは確かである。