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邪馬台国沖縄説

2011-02-02 12:36:34 | メモ帳

 『邪馬台国は沖縄だった!』(木村政昭著 2010年6月 第三文明社刊)は、邪馬台国が沖縄にあったという説を述べている。邪馬台国の場所に関し、ほとんどの学者・研究家が畿内説または北九州説を唱える中、沖縄説は突拍子もないように感じるが、沖縄説は『倭人伝』に記された邪馬台国の条件をかなり満たすことは事実である。

 

◆地理的条件

(1)「南至邪馬台国女王之都水行十日陸行一月」という記述が、玄界灘沿岸から水行二十日の場所にある投馬国の次に出てくる。木村説による魏の使節の行程は、有明海経由で投馬国(薩摩)にやってきて、そこから南へ水行十日で沖縄本島の北端に到着、次いで陸行一月で邪馬台国に着いたというもの。沖縄本島を縦断するのに一月はかからないが、木村は歓迎攻めで時間がかかったのだろうと推測する。

 

(2)「会稽東冶之東」という記述がある。会稽の東冶とは今の福建省福州に比定されており、その東方向とは、まさに沖縄本島である。

 

(3)「倭国を訪れてみると、島がくっついたり離れたりしている。その周囲は五千余里ほど」という記述があり、島国だという表現は沖縄にこそ相応しい。そして、五千余里とは九州南端から沖縄本島北端までを指すと考えられる。

 

(4)「女王国の北方に21ヵ国ある」という記述があるが、これは屋久島からトカラ列島、奄美諸島に存在した国々と比定できる。

 

◆風俗・習慣

「倭の地は気候温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな裸足である」「魚や蛤を獲るのに水に潜る」「産物は儋耳・朱崖(海南島)に同じ」という記述は、本土・九州よりも沖縄に相応しい。なお、海洋地質学を専門とする木村は、「弥生時代の日本列島の気温は今よりも平均1℃低かったが、トカラ列島から南では今と変わりなかった」と主張する。

 

 

では卑弥呼の宮殿はどこにあったのか? 木村によれば北谷(ちゃたん)沖に海底城郭があり、それが卑弥呼の宮殿の跡ではないかという。以下、『邪馬台国は沖縄だった!』から要旨を引用する(グリーンの部分)。

 

北谷の海底城郭の長径は900メートルで、幅は200メートル。世界遺産に指定されている中城(なかぐすく)城の長径は200メートルだから、その数倍である。この城郭は2200年前以降に造られ、4世紀ごろに水没したと考えられる。4世紀といえば、ちょうど中国の文献に倭国が登場しなくなった空白時代であるが、これは水没により邪馬台国が朝貢できなくなったことを意味するのではないか。

 

では『倭人伝』にある邪馬台国の戸数7万との整合性はどうか?

3世紀の沖縄本島の人口は9-10万人と推定されている。これを3-4人で割ると3万―4万戸となり、『倭人伝』に記された7万を大幅に下回るが、水没した戸数を考慮に入れると、7万戸は現実味を増す。

『隋書 東夷列伝』によれば、607年に煬帝の命で、1万余の兵が琉球に攻め入ったが陥落させることができず、男女数千を捕虜にして帰国したという記録があるから、沖縄はかなり人口が多い国だったことが窺える。

 

『邪馬台国は沖縄だった!』はユニークな労作であるが、木村説の問題点はヤマト朝廷との関連を示す文献や出土品がどこにもないこと。この点について、木村は「沖縄の邪馬台国は、南西諸島にあった他の国々とともに東遷(北上)したが、一路大和を目指したのでなく、稲作の適地を求めつつ徐々に移った。そのために、沖縄の存在感が薄れたのではないか」と推測する。そして、「畿内王朝と九州王朝は4~7世紀に並立していた」とも述べているが、これは沖縄の勢力はまず九州に移り、そこから畿内へ進んだという解釈だろう。

 

ところで、木村の調査によれば、与那国島の沖合の海底に東西270メートル、南北120メートル、高さ26メートルの城郭がある。一方、『漢書 呉地条』には、「会稽の海外に東鯷人あり、分かれて百余国となる」という記述があり、その東鯷人とは倭人だという。明らかに、沖縄には中国との文化交流を示す痕跡が数多く認められると木村は主張するが、その詳細については別の機会に譲ることにする。