頑固爺の言いたい放題

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倭国の地理的構造(2)

2010-11-26 12:22:57 | メモ帳

ここまでに登場した国々で、戸数の記載があるものは次の通り。

 

対海国(対馬): 千余戸

一大国(壱岐): 3千余戸

末蘆国: 4千余戸

伊都国: 千余戸

奴国: 2万余戸

不弥国: 千余戸

投馬国: 5万余戸

邪馬台国:7万余戸

合計 15万―16万戸

 

1戸当たり5人とすれば、倭国の人口は75万―80万人。このほかに21の旁国があるが、戸数(人口)は不明。

 

当時の日本列島の人口は200万以上ということはないだろうから(注)、倭国は列島最大の国だったに違いない。そして、中心的存在の邪馬台国の人口は約35万人だから、当時としては堂々たる大都市であった。

 

さて、『倭人伝』最大の謎は邪馬台国の場所である。

所要日数について、「水行10日、陸行1月」とは、and なのかor なのか分からない。いずれにせよ、南という方角が正しいとすれば、所要日数からして九州南部はおろか南西諸島にまで行ってしまう(実際に「邪馬台国、奄美大島説」もある)。だから北九州説をとる人々は、所要日数の記述に誤りがあると考えてきた。

一方、畿内説をとる人々は所要日数を正しいとして、方角は南ではなく、東の間違いではないかと考えてきた。

 

北九州説の欠陥を修正したのは榎一雄である。それまでは北九州説を唱える歴史家は、伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国のように直進的行程(図1の右)を考えたが、榎は伊都国以降は放射線状に歴訪したと考えた(図1の左)。

 

 

 

伊都国は小さい国だが、政治・外交の中心地で、帯方郡から来た使節が常駐していたらしい。だから、伊都国を中心に考えるのは筋が通る。それでも、北九州からゆっくり航海して10日を要したとすると、鹿児島県あたりまで行き着いてしまう。ところが、『倭人伝』によれば、その先に狗奴国があるはずで、不自然である。

 

前出の古田武彦は『倭人伝』に誤りがないという前提に立って読み解いた結果、邪馬台国は現在の博多周辺だという結論に到達した(前出『邪馬台国はなかった』)。その詳細については次回に述べる。

 

 

(注)奈良時代に租税制度が確立された時、日本の人口は7百万人だった。

 


倭国の地理的構造(1)

2010-11-26 12:06:04 | メモ帳

 既述のように『倭人伝』には曖昧な表現がかなり多く、邪馬台国の場所などに関して、古来あまたの議論が行われてきた。その議論の詳細は次回に述べるとして、今回は記述内容をそのまま説明する。

 

本論に入る前に、『倭人伝』に何度も出てくる距離単位「里」について説明しておきたい。

「里」とはどのくらいの距離なのかは、『倭人伝』に記述されたA地点とB地点の間の距離と比定できたA地点とB地点の現在の距離を比べれば割り出すことができる。計算過程は省略するが、1里は75メートル、百里は7.5 kmになる(『邪馬台国はなかった』古田武彦著2010年ミネルヴァ書房から引用)。

 

さて、帯方郡からの使節は半島南岸の狗邪韓国(後年の加羅・伽邪で、現在の釜山市の西、金海市あたり)から海を渡り、対海国(対馬)と一大国(壱岐)を経由して、九州北部の末蘆国(現在の佐賀県松浦郡に比定されている)に上陸した。

 

そこから陸路を東南へ5百里で伊都国(糸島半島に比定)に着く。狗邪韓国から対馬までと対馬から壱岐まで、壱岐から末蘆国までの距離がそれぞれ千余里だから、末蘆国から伊都国まではその半分で、あまり遠くないことになる。さらに東南へ百里で奴国、さらに東へ百里のところに不弥国がある。伊都国、奴国、不弥国はいずれも現在の福岡県西部と考えられる。ここまでは学者たちの間に異論はない。問題はこのあとである。

 

不弥国から「東へ水行20日」で投馬国に着く。「水行」とは海を船で進む意味だろうが、川を上るということも可能性としてはありうる。いずれにせよ、20日を要するとなれば、場所特定の意見は分かれる。日向(宮崎県)、周防(山口県東南部)、豊後(大分県南部)、出雲(島根県)、但馬(兵庫県北部)、薩摩(鹿児島県)などの諸説がある。

 

さらに、「南へ水行10日、陸行1月」で邪馬台国に着く。この文章の解釈をめぐって江戸時代から議論百出している。主な説として、北九州説と畿内説が拮抗し、いまだ論争は続いている。問題点は方角と所要日数であるが、これについては最後に述べるとして、倭国の地理的構成についての説明を続ける。

 

邪馬台国の周辺には21の旁国(邪馬台国の勢力下にある連合国と思われる)がある。ここまでで出発した帯方郡から1万2千余里である。

 

その先には邪馬台国と敵対する狗奴国がある。帯方郡から不弥国まで1万7百余里だから、不弥国から狗奴国までは12000-10700=1300余里の距離となり、あまり遠くない。邪馬台国の場所が畿内か北九州か特定できないため、邪馬台国の先にあるという狗奴国の場所も熊野であるとか、肥後(熊本県)であるとかの諸説がある。

 

そのほか邪馬台国の地理的条件として次の記述がある。

1)女王国(邪馬台国を指す)から東へ海を渡ること千余里、また国有り、皆倭種。

2)又侏儒国其の南に在り。人長三・四尺。女王を去ること四千余里。

3)倭国は、あるいは離れ、あるいは連なっている島々からなり、全部めぐると五千余里。

 

この内、(1)(2)は邪馬台国の場所が比定できないとその場所はわからないが、こうした国々の存在は、邪馬台国の場所を割り出す要件となる。すなわち、邪馬台国は海岸に近い場所にあり、海上を東に進むことができることが必要。

(2)の身長3-4尺(1-1.2m)のコビト国については、当時の住民の身長が低かったことは考えられるとしても、ことさらにコビト国というからには、他の国の住民の身長はもっと高かったのか。部族間で身長に差があるとは、やや疑念がある記述である。

(3)は倭国の大きさを示すものとして、場所比定の要件になる。

 

さらに『倭人伝』には、「其道里當在會稽東治」とある。會稽は現在の浙江省で、東治は福建省の福州あたり。「其」とは狗奴国を指すと考えられるので、狗奴国の方角は九州より南ということになり、つじつまが合わないが、この部分は會稽・東治から南西諸島経由九州へ渡る航路もあったことを示唆するだけで、方角を意味するものではないという見解もある(森浩一著 『倭人伝を読みなおす』P116)

 

 

 続く


邪馬台国は朝鮮半島にあった?!

2010-11-09 16:31:59 | メモ帳

 古代史最大の謎、邪馬台国。この謎解きに挑戦するには、邪馬台国について記した史書『魏志倭人伝』とはどういうものかを知っておく必要がある。

 三世紀前半から半ばにかけて、中国に魏、蜀、呉という三つの国があり覇権を争ったが、280年に晋が全土を統一した。この三国時代を背景に、劉備、曹操、孔明、関羽、張飛などが登場する長編小説が『三国志演義』であるが、邪馬台国に関する記述があるのはこれではなく、史書の『三国志』だ。これは魏の官僚だった陳寿が、魏が滅びたのちに仕えた晋の皇帝の命によって、すでに滅亡していた魏・蜀・呉の歴史をいろいろな人からの伝聞によって編纂したものである。

 『三国志』は魏史、蜀史・呉史の三編からなり、魏史は東夷伝・鮮卑伝・烏丸伝からなる。その東夷伝の中に倭人条があり、これが通称『魏史倭人伝』と呼ばれるもの。倭人条以外の条は、韓(辰韓、弁韓、馬韓)、濊(わい)、挹婁(ゆうろう)、東沃沮(ひがしよくそ)、高句麗、夫余となっている。いずれも中国の北東ないし北に存在した遊牧民族である。この構成を図示すると次のようになる(『歴史から消された邪馬台国の謎』豊田有恒著 青春出版社から引用)。

 

 これらの民族の内、もっとも倭人に関係が深いのは韓族である。『魏史東夷伝』によれば、「韓に三種あり、一 に馬韓、二に辰韓、三に弁辰(弁韓とも言う)。馬韓は西にあり、五十四国を有し、北は楽浪と、南は倭と接す。辰韓は東にあり十二国、北は濊貊と接す。弁辰は辰韓の南にあり、また十二国、南は倭と接す」(『卑弥呼の正体』 三五館2010年P.163)。

 この文面から、馬韓と弁韓の南に倭人が存在したことがわかる。文中の楽浪(郡)とは、帯方郡とともに漢の時代から続く中国の直轄植民地のこと。日本列島へ行った魏の使節はその帯方郡から出発した。

 

 在野の研究家山形明郷は著書『卑弥呼の正体』の中で、上記の記述に基づけば、三韓の位置は下の地図のようになる(斜線の部分)、という見解を述べている。通説では、帯方郡はソウル周辺、楽浪郡は平壌周辺に比定されているから、大きな食い違いがある。なお、朝鮮半島に百済、新羅、加羅(任那)が興るのは4世紀半ばであり、この地図はそれ以前の3世紀の勢力図である。馬韓は百済の、辰韓は新羅の前身と言われているから、韓族は3世紀末から4世紀初頭にかけて、南に移動したことになる。ともあれ、帯方郡が遼東半島にあったとなると、いわゆる『魏史倭人伝』(以下『倭人伝』)の解釈が大きく違ってくる。 

 

 

すなわち、『倭人伝』は「倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に依って、国邑をなす」という文章から始まるが、山形は「“帯方の東南の大海”とは黄海のことであり、この文章は倭人の国々が黄海に面した朝鮮半島にあったことを意味する。邪馬台国はその倭人の国々の一つである」と主張する。

 

 

  

そして、山形は下の地図における半月形の部分が倭人の領域であり、邪馬台国はこの中のどこか、つまり朝鮮半島もしくはその北西の遼東半島南部にあった、という驚天動地の見解を述べる。山形説は1995年刊行の『邪馬台国論争・終結宣言』に発表されたが、史学界に無視され現在に至っている。 なお、下図における→印(かすれて見えにくいが、沿岸部にある)は、帯方郡から倭へ向かう航路を示す。                                      

 

 史学界は山形説を無視し、反論もしていない。そこで、不肖私が反論を試みる。

 (1)『倭人伝』には、魏の使節が朝鮮半島南端から海をわたり、壱岐・對馬を経由して九州北岸にやってきたことを示す記述がある。その後に訪れた邪馬台国および他の国々の場所は明らかではないが、少なくとも朝鮮半島内に比定するには無理がある。

 (2)山形は倭人が半島の大きな勢力であったことを「邪馬台国・半島説」の根拠にしているが、半島から海を渡って列島に渡った倭人勢力がいたことを無視している。

 (3)『倭人伝』は上述のように、“倭人在帯方東南大海之中依山島”で始まる。この“山島に依って”の“山島”は日本列島を意味するのではないか。そして、この“山島”については、周囲の小島含めて“一周五千里”、という記述があり、半島西側沿岸にはこの描写に該当する大型の “島”はない。

 (4)“對馬からまた南へ千余里、瀚海を渡って一大国に至る”という記述がある。瀚とは “大きい”を意味するから、朝鮮海峡であろう。少なくとも、海を千余里も航海するのだから半島沿岸ということはありえない。なお、一大国とは壱岐を指すと思われる。

 端的に言って、山形説は『倭人伝』を捏造と批判しているに等しいが、それにしては列島に関する記述に具体性があり、とても創作物語とは思えない。

 しかしながら、帯方郡と楽浪郡の位置に関する通説が誤りであると指摘した部分は、引用した文献が豊富であることから、傾聴に値する。韓国人の言語学者姜吉云も『倭の正体』(三五館 2010年)において、帯方郡が遼東半島に位置したと指摘している。

 ともあれ、『倭人伝』は洛陽にいる編者が魏の使節の報告をまとめたものなので、曖昧な表現が多々ある。そのために、邪馬台国の場所を特定することができず、畿内説、北九州説など諸説入り乱れ、古代史最大の謎となっている。また、邪馬台国と大和朝廷との関係も謎のままである。

 邪馬台国の詳細については、次回に論じる。