11月26日に行われた「邪馬台国の会」の月例会での安本美典氏の講演「人文データサイエンス入門 第3回」の要旨は次のようであった。
2010年9月18日(土)の朝日新聞は「女王・卑弥呼が治めた邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の奈良纏向遺跡(2世紀末~4世紀初め)で、大型建物跡そばの穴から2千個を越す桃の種が出土した。…纏向遺跡からは昨秋、3世紀前半では最大の建物跡(東西12.4メートル、南北19.2メートル)が見つかり、卑弥呼の宮殿とみる研究者もいる」
この報道には二つの問題点がある。
(1) 出土した桃の種の年度測定は奈良県教育委員会によって実施されたはずだが、その結果は公表されていない。ちなみに、2014年11月18日の奈良新聞は、「天皇・皇后両陛下は纏向遺跡の出土物を見学し、『年代測定はしていますか』と質問した」と報道したが、その質問にどう答えたかは報道されなかった。
ともあれ、桃の種は2010年に出土し、それから7年も経過しているのだから年代測定は行われたはずで、その結果が発表されないのは不自然。なにか都合の悪いことでもあるのか。
(2) 朝日新聞は纏向遺跡を3世紀前半と断定しているが(下線部分)、年代が確定しているわけではなく、確定するためにも、出土した桃の種の年代測定を実施すべきである。
さて、安本氏は、邪馬台国の所在地を北九州朝倉市周辺と比定し、その勢力が後年大和に移動して大和朝廷になったという見解をとっている方である。しかし、上記(1)(2)の論点は、安本氏ならずとも、だれしも抱く疑問であろう。ただし、古代史についてまったく知識がない方にはわかりにくい部分もあるので、私なりに補足したい。
まず、(1)の論点について
邪馬台国がどこにあったかの論争は決着しておらず、大和説と北九州説が有力になっている。奈良市教育委員会はもちろん大和説の立場であり、出土した桃の種の年代測定の結果が同委員会の期待している年代とは違う結果が出たため、その公表を控えているのではないか、という疑念が生じる。つまり、情報隠蔽である。
具体的には、「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼が死亡したのは西暦247年または248年であり、桃の種の年代測定の結果が3世紀後半以降になった場合、纏向遺跡は卑弥呼の宮殿とは関係ない可能性が強くなるので、奈良県の立場と相容れなくなる、というわけだ。
次に(2)の論点について補足する。
朝日新聞は、“纏向遺跡を邪馬台国の有力候補地”と述べているのはまだしも、“3世紀前半では最大の建築物”(下線部分)としているのは、纏向遺跡を卑弥呼の活躍年代に合わせているわけで、文章そのものに矛盾が生じている。
同紙が邪馬台国大和説の立場であることを社説などの意見表明の欄で主張するなら構わないが、記事の中で中立ではない立場を表明するのはいかがなものか。
これは、森友・加計問題で一方的に安倍政権を批判したのとよく似た構図である。やはり、朝日新聞には情報操作が体質として染みついているのではなかろうか。