弥生時代に半島から日本列島への移住がかなりあったことは、最近の学界の統一的見解である。その民族の大半は倭人であったと思われる。弥生時代以降も、5世紀に半島からの移住者が多数いたことが『紀』に記されており、6世紀半ばにおける任那(加羅国)の滅亡と7世紀半ばにおける百済滅亡も、日本への亡命者が多数発生する契機になったことだろう。
ここで生じる疑問は、文明が急速に発展した4~5世紀以降はともかく、1世紀、2世紀という弥生時代後期において、多人数を輸送できる船があったのかということ。
遺跡から出土した土器や銅鐸には、30人以上乗れる船が描かれている(下のイラストを参照)。この程度のサイズの船が10隻以上の船団を組めば、かなり危険は少なくなるし、多人数の輸送は可能だったと思う。だから、弥生前期でも移民たちは海峡横断にさほどの困難はなかったのではないか。
福井県大石遺跡出土の銅鐸に描かれた舟
奈良県天理市清水風遺跡出土の土器片に描かれた船の復元画
さて『後漢書』には、「建武中元二年(AD 57年)、倭の奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭の極南界なり。光武賜うに印綬をもってす」という記述がある。この奴国は『魏志倭人伝』にも登場し、場所は玄界灘沿岸部と比定されている。さらに、18世紀に博多湾内の志賀島の田圃から、“漢委奴国王”と彫られた金印が農夫によって発見された。委は倭の簡便体であるから、この金印は『後漢書』の記述を裏付けるものと考えられる。
このAD57年における朝貢は日本列島にあった倭の奴国によるものであることが学界の通説だが、それに異を唱える在野の研究家がいる。それは『卑弥呼の正体』、『古代史の犯罪』(ともに三五館)の著者の山形明郷である。
山形(2009年没) はこの金印には疑念があると主張した。「倭王に与えられたものは印綬であって、金印ではない。さらに遺跡がまったくない場所から金印だけ発見されたのは不自然であり、同じ場所から金印以外なにも発見されないのも不自然だ。かりに本物だとしても、それは『後漢書』の記述とは無関係ではないか」。さらに、「当時、中国にとって日本列島は遥かかなたの慮外の地であったから、関心はなかっただろう。この倭は朝鮮半島にいた部族に違いない」。
加えて、この文章における“極南界”という表現にも疑念がある。倭国が朝鮮半島南部と日本列島にまたがる連合国であるという前提で考えれば、奴国が倭のもっとも南の国ということになるが、後漢の光武帝が倭を「海峡にまたがる連合国」と認識していただろうか。それなら、もっと詳しい説明があってよさそうなものだ。むしろ、この奴国とは、それから3百年後に『魏志倭人伝』に登場する奴国とは別で、朝鮮半島南部に存在した国という考え方もあるのではないか。しかし、こうした疑問を述べている学者・研究家は見当たらない。
もう一つの疑問は、朝貢の動機である。そもそも、朝貢とは地方の王が中国の皇帝に貢物を献上し従属を申し出ることによって、その王権に対する承認を取得すること。副次的に、周囲の敵対国に対する示威効果もあった。しかしながら、1世紀に中国が日本列島に攻め寄せてくる可能性はゼロだったし、周囲の敵対国も存在したかどうか疑問であるから、示威効果もなかったのではないか。つまり、日本列島にある倭国が中国皇帝に朝貢する必要性はなかったはずだ。
こうした疑問は今後の研究によって解明されるだろうが、通説通り倭の奴国が57年に九州あたりに存在していたとしたらどうなるか。
倭王が中国皇帝に朝貢したことは、当時の倭人が漢字の読み書きができ、朝貢という当時の国際外交儀礼も知っていたことになる。それなら、その倭人たちは朝鮮半島から渡来して、先住民族を支配してクニをつくっていた特殊な支配階級と解せられる。なぜなら、『魏志倭人伝』は「倭国には字がなかった」と述べているからである。
1世紀における倭国の朝貢がどうであれ、半島の沿岸部特に南部に居住していた倭人が、弥生時代前期から任那が滅亡した562年までの約900年間にわたって日本列島に移住し、九州北部から本州西部に定着して、弥生人の主要部分になったのだろう。
その後、半島側の倭人は史書から姿を消したが、それは移民による人口の減少もあったろうし、韓人と融合が進んだからでもあるだろう。その流れの中で、倭国とは日本国、倭人とは日本列島に住む民族という認識が生まれた。その結果、倭寇という言葉も生まれた注4。現在でも倭奴(ウェノム)とは韓国人の日本人に対する蔑称だから、韓国人にとって倭は今でも日本人を指すのである。
終
注4:朝鮮半島から中国沿岸を荒らしまわった盗賊が倭寇と呼ばれたが、実際には朝鮮人・中国人も多数含まれていたらしい。