「明治維新という過ち」(原田伊織著 毎日ワンズ刊)がベストセラーになっているらしい(購入した本の奥付に第18刷とある)。その帯封には刺激的な惹句が書かれている。曰く≪いまも続く長州薩摩社会。御所を砲撃し、天皇拉致まで企てた吉田松陰一派の長州テロリストたち、偽りに満ちた「近代日本誕生の歴史」≫
この著作のウリは、「これまでわれわれが教えこまれてきた幕末から明治維新にいたる歴史は、勝者すなわち長州・薩摩によって書かれたものであり、史実が歪曲されている」ことを暴く意外性である。いろいろな話題が盛り込まれており、ここでその全部を検証するわけにはいかないので、吉田松陰の評価に関する部分に絞って論じる。
吉田松陰の一般的認識を一言でいえば〈幕末から明治維新への大変革の時期に重要な役割を果たした長州下級武士の精神的支柱〉であろう。ところが、この著作では、松陰に関して、次のような記述になっている。
「今も信じられている吉田松陰像とは、大ウソと断じていい」
「松陰とは単なる、乱暴者が多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。…今風にいえば、地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族をやめないのでしょっ引かれただけの男である。ただ、仲間うちでは知恵のまわるところがあって、リーダーを気取っていた。といっても、思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治になってから山形有朋などがでっち上げた虚像である」
「そもそも、松陰の松下村塾とは、師が何かを講義して教育するという場ではなく、よくいって仲間が集まって談論風発、尊皇攘夷論で大いに盛り上がるという場であったようだ」
著者の原田伊織氏は教科書的歴史観を否定しているのだから、主流の歴史学者の評価と比較しても無意味だろう。そこで、歴史家としては異端者的存在である井沢元彦氏の「逆説の日本史、第18巻 黒船来航と開国交渉の謎」では松陰をどう評価しているか調べてみた。同書では次のように論じている。
≪この時代の人物の評価の一つの軸は、「日本人か、そうでないか」ということである。「そうでない」というのは、たとえば「長州藩士」であるとか「幕臣」であるとか「公家」であることを優先し、日本全体を考えることの出来ない人間のことだ。≫
≪吉田松陰は「日本人」であった。松陰とタイプは違うが、勝海舟もそうであり、後に勝の影響を受けて坂本龍馬と西郷隆盛は「日本人」になった≫
非常に肯定的な評価である。余談になるが、故司馬遼太郎の「竜馬がゆく」でも、≪他の志士たちは薩長土肥という視点しか持っていなかったのに対し、竜馬は日本という国をどうするかという大局観を持っていた≫ことが基本的テーマになっている。
「逆説の日本史」ばかりではない。ネットで調べても、「吉田松陰は明治維新の精神的主柱だった」とか、肯定的評価が圧倒的多数で、原田氏のような否定的評価は見つからない。
歴史を多数決で決めるのは正しい態度ではないが、原田氏の松陰論は常軌を逸している。ただし、その他の部分は「そうか。そうだったのか」と思わせる説得力があり、それなりに興味深い。
常識的歴史観を覆すという手法が、歴史書には珍しくベストセラーになった理由だろう。私もそれにつられて購入した一人だが、「正否はともかく、面白い本だ」と評価する。