昨年(2016年)12月の安倍・プーチン会談は、北方4島の返還に至らず、共同経済活動や元島民の4島訪問の仕組み改善での合意がなされただけで終わった。読売新聞に掲載された北方4島の地図を下に貼り付ける。
さて、「4島返還」とは、日本はかつて択捉島、国後島、色丹島、歯舞島を領有していたことを意味するが、どのようにして領有に至ったのか。以前読んだことがある司馬遼太郎の「菜の花の沖」に北海道、カラフト、千島列島の開拓に関する記述があるのを思い出し、再読してみた。
なお、「菜の花の沖」は高田屋嘉兵衛なる人物の一代記である。彼は船主にして船頭、そして商人でもあり、北海道・択捉島・国後島などの開拓・発展に尽力した人物。小説だが、数々の資料を駆使して記述しており、特にロシアとの関係に関しては、ほとんどドキュメンタリーの感がある。以下、「菜の花の沖」から4島に関する記述を拾ってみる。
ロシア人はパリで高価に売れる毛皮となる黒貂(てん)を追ってシベリアに進出し、黒貂を取りつくすと、次はラッコを追ってカムチャッカ半島からその南に連なる千島列島を南下した。1775年、ピョートル大帝は択捉島の北にあるウルップ島に植民団を派遣したが、1782年に撤退した。問題点は食糧難で、供給源として日本を想定し、交易を望んでいた。
1786年、江戸幕府から派遣された最上徳内がウルップ島を探検し、ロシアの植民団の住居跡を見た。
1791年、伊勢の国の住人、大黒屋光太夫が乗船の難破でロシアに辿りつき、エカテリーナ2世(女帝)に拝謁、国書を持った遣日使節ラクスマンとともに根室に来たが、幕府は鎖国を理由に長崎に行くように命じた。ラクスマンはそこで航海を断念。
一方、高田屋嘉兵衛は江戸幕府の要請により、1803年ごろから函館において、本土から技術者を呼び寄せ、井戸の掘削、港湾施設や造船所などインフラの建設、官船の建造に携わった。並行して国後・択捉でも蝦夷人(アイヌ)に漁網による漁獲法、塩蔵、搾油(本土に運びコメの肥料になる)などの技術を伝授し、アイヌ人の生活水準を飛躍的に改善させた。
ちなみに、当時の江戸幕府は11代将軍、徳川家斉(在職17087-1837)の時代。
ロシアでは、1803年能吏にして皇帝の覚えがめでたいニコライ・レザノフなる人物が半官半民の露米会社*を設立。南米のマゼラン海峡を回って、ハワイ、カムチャッカを経由、1804年長崎に入港。幕府に通商を求めたが、半年間長崎に留め置かれた後、鎖国を理由に追い帰された。江戸幕府は皇帝の国書も見ずに突き返した。
そのレザノフは長崎からカムチャッカに行き、そこで出会った2名の海軍士官を説いて日本攻撃に賛同させた。レザノフはこの海軍士官たちに、ただちに日本攻撃に向かうよう命令し、彼自身は皇帝に日本攻撃の承認を申請する手紙を送るとともに、シベリア経由で陸路首都に向かった。
2名の海軍士官は皇帝の承認なしに、小型軍艦で樺太(サハリン)にある江戸幕府の番屋を攻撃、食糧を掠奪して建物や船に放火した。
その後、彼らはエトロフ島でも幕府の番屋を襲撃し、食糧を奪って建物・船を焼き打ちした。2百名いた幕府の戦闘員の中には測量家・探検家として有名な間宮林蔵もいて、応戦したが結局山中に逃げ込んだ。
2名の海軍士官はオホーツク港に帰還したが、そこで軍法会議にかけられ、国家反逆罪を問われて投獄された。そして脱獄したが、誤って川に落ち溺死。一方、首謀者のレザノフは首都に向かう途中シベリアで病死した。
1811年、海軍少佐ゴローニンがロシア領の海域調査を命じられ、途中クナシリ島に来て食糧などを有料で供給するよう幕府の役人に依頼した。しかし、エトロフ島事件を知る役人たちはゴローニンとその部下を逮捕し函館で投獄した。
ロシアはゴローニンとその部下救出のために軍艦をエトロフ島に派遣し、日本の商船を拿捕したが、その船はたまたま前出高田屋嘉兵衛の持ち船で、嘉兵衛自身も乗っていた。その軍艦は嘉兵衛とその部下10人を拉致してカムチャッカに8ヶ月抑留したのち、嘉兵衛等を連れて再度エトロフ島にやってきた。そして、函館に投獄されていたゴローニン以下数名と嘉兵衛等を交換して一件落着となった(1813年)。ちなみに、同じ頃ロシアではナポレオン軍に攻め込まれ、激戦ののち撃退したという大事件が起きている。なお、ペリーによる黒船来航は1853年の出来事である。
1814年、日本とロシアはクナシリ島、エトロフ島など北海道に隣接する四島を日本の領土、エトロフ島の東北にあるウルップ島を中立地帯、その北方に連なる島々はロシア領とすることを文書で確認した。
以上の経過からして、北方四島が日本固有の領土であることはまぎれもない事実。したがって、1941年8月、ロシアが日本の降伏後、北方四島に攻め込んでそのまま現在にいたっているのは理不尽な行為であることが明白。現在でも北海道の地図に必ず四島が加えられているのは当然なのである。
*注 当時、ロシアはアラスカを領有しており、露米の「米」とはアラスカを意味する。