頑固爺の言いたい放題

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崇神と応神

2010-09-17 16:44:31 | メモ帳

天皇の謚号で神の字が入るのは、初代の神武、10代の崇神、15代の応神の3人だけで、ほかに応神の母親である神功皇后がいるのみであることから、天皇の謚号を考えた淡海三船はこの4人はいずれもヤマト朝廷の成立において重要な役割を果たしたと理解していたのだろう。

神武についてはすでに論じたが、崇神は事実上のヤマト朝廷の始祖であり、応神はヤマト朝廷を地方の王権から全国統一王権に発展させた功労者というのが通説である。

崇神と応神に関する古代史の大家たちの見解を概観してみよう。

前出の江上波夫の騎馬民族征服説を批判したのは井上光貞(元東京大学名誉教授 1917-1983)で、『日本国家の起原』(岩波新書1960年)において次のように述べている。

騎馬民族の特徴すなわち馬具、鉄剣などが出土するのは、4世紀末~5世紀前半における後期古墳時代の遺跡からであるが、江上教授は辰王が渡来したのは3世紀末としているから、100年の違いが生じる。

騎馬民族征服説を踏襲したのは早稲田大学名誉教授だった水野祐(1918-2000)である。 

紀元前200年ごろ朝鮮半島から渡来した北方アジア系騎馬民族のツングース族が南九州に渡来して、狗奴国(くなこく)をつくった。狗奴国は三世紀後半、北九州にあった邪馬台国を滅ぼし、九州統一国家を形成した。

当時大和に存在していた先住民族の原ヤマト朝廷(三輪王朝)は、始祖崇神のあと成務を経て三代目の仲哀の時に九州に出兵し、狗奴国を滅ぼさんとしたが敗れ(362年)、狗奴国が統一国家となった。その時の王が応神である。この王朝が仁徳天皇の時に難波に移動して、全国統一王朝になった(河内王朝)。『日本古代の国家形成』(講談社)より。

 水野は三輪王朝と河内王朝に継体天皇による近江王朝を加え、三王朝交代説を唱えた。そして、継体による近江王朝が現代まで続いているという見解を述べた。

前出の井上光貞は水野説をおおむね肯定しつつ、「応神は4世紀末か5世紀初めに朝鮮半島から渡来し、崇神王朝に婿入りしたのではないか」と水野説を修正する見解を述べた。

こうした史学界の重鎮たちの説に対する、在野の研究家石渡信一郎の説は画期的である。

朝鮮半島から渡来した加羅系武装集団は4世紀前半に邪馬台国を滅ぼして、北部九州に前進基地をつくった。その後、瀬戸内海を東進して吉備地方に次の前進基地を築き、やがて大阪湾から難波・河内を征服、4世紀半ばに大和盆地の東南部、三輪山麓の纏向に王都を築いた。

この集団を率いたのは、朝鮮の史書『三国遺事』から判断して、賀洛(から)国の首露王であり、これが崇神天皇である。首露王は南朝鮮にある加羅と、倭国(九州北部、西日本、および東日本の一部)を統治領域とする連合王国の王だった。奈良県桜井市にある纏向遺跡は、崇神王朝の遺跡であり、箸墓古墳には379年に亡くなった崇神が埋葬されている。

この説を裏付ける物的根拠は、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮所蔵の七支刀である。これは百済が高句麗から侵略をうけたときの倭国の支援への返礼として、倭王旨に献上されたもの。銘文に泰和4年とあるが、これは西暦369年に当たり、当時の王は崇神であるから、倭王旨とは崇神のことになる。

一方、『日本書紀』の神功記52年(西暦252年)には、百済の使節が来朝し、七支刀などの種々の宝物を献上したと記されている。この西暦252年を120年繰り下げると372年となり注1、製造の3年後に献上されたことになる。

なお、2009年11月11日の朝日新聞は、纏向遺跡は邪馬台国の中枢施設である可能性があると報道したが、石渡説に従えばこれは誤りである。

石渡説の応神天皇に関する部分は次のようである。

『紀』の雄略紀5年(461年)に「百済の加須利君(蓋鹵コウロ王)が弟(昆支)に“お前は日本に行き、天皇にお仕えせよ”と言った」という記述があり、また雄略紀23年(479年)に「日本に在住していた昆支の5人の子の中の第2子が百済に送られた」という記述がある。一方、昆支が百済に帰国したという記述はない(帰国したのなら、そのように書くはず)。したがって、昆支はヤマト朝廷に婿入りしたと考えられる。 

和歌山県橋本市の隅田八幡神社に保存されている人物画像鏡に刻まれた銘文を読み解くと「癸末年8月、百済の武寧王は日十大王の世、男弟王が忍坂宮にいます時、二人の高官を遣わし、上質の銅を使ってこの鏡を作らせた」となる。この癸末年とは503年であり、日十大王とは応神天皇で、男弟王とは継体天皇である。武寧王は応神の子であり、継体にとっては甥に当たる

石渡によれば、銘文にある「日十大王」とは、アスカ大王またはクサカ大王の表記であるという。彼は文献を調べて、早が日と十に分割されている例があることを発見した。そして、早は草と同音で、ソカやスカの表記に使われ、それが次第にアスカ・クサカと訓まれるようになったという見解を述べている。

横道にそれるが、「日十」は「日下」となり、下が本に代えられ「日本」になった(『日本人の正体』林順治 三五館 2010年 注2)。

さて、石渡説は通説とはかなり異なる。水野祐と井上光貞は「癸末年」を石渡説の503年でなく、443年としており、「日十大王」を允恭天皇(19代、在位412-453年)に比定している。この60年の差は大きな意味を持つ。すなわち、通説では応神は4世紀後半に活躍した天皇としているが、石渡説では応神は461年に渡来し6世紀初めまで在位したとする。つまり、100年以上時代がずれている。

『宋書』に「倭王興死し、弟武が即位して、宝物を献上し上表す」注3という記述があり、通説ではこの倭王武を21代の雄略天皇に比定するが、石渡説では武を15代の応神に比定する。そして、石渡説では応神が百済から来たとしているから、当然ながら応神の母、神功皇后は架空の人物ということになる。

また、石渡説では、応神の後を継いだのは弟の継体(26代)であるとしているから、応神と継体の間の天皇、すなわち16代の仁徳から25代の武烈まですべて架空ということになる。架空とされる天皇については、天皇家系図をご覧頂きたい。なお、石渡説では継体は応神の弟だが、この系図を見れば応神と継体の間には4代あり、これも架空ということになる。

石渡説が正しいとすれば、『紀』『記』はヤマト朝廷の歴史を古くみせるために、応神の年代を遡らせ、継体との間に架空の時間を創出し、そこに架空の天皇を嵌めこんだ、ということになる。

考古学の見地からの物的証拠を示しているだけに、石渡説は説得力がある。しかし、そこに大きな疑問が生じる。

もっとも知名度が高い天皇の一人である仁徳が捏造ということがありうるのか。架空の人物なら、堺市にある仁徳陵はだれを埋葬したものなのか。この質問には誰も答えられないだろう。その理由は、天皇陵はすべて宮内庁によって非公開となっていること。

もう一つの疑問は、仁徳から武烈にいたる天皇にそれぞれ個性豊かなエピソードがあるが、それらはすべて捏造なのか、創作ならもっと簡単にできたのではないか。

例えば、仁徳には有名な逸話がある。すなわち、ある夕食時、民の家から煙が出ていないのを見て、民が困窮していると推測し、しばらく徴税をやめたら再び煙が上がるようになって「民の竈は賑わいにけり」と喜んだという。また武烈には、人を木に登らせてそれを弓で射た、というような暴虐ぶりが記述されている。

しかし、本当らしく装うためにもっともらしいエピソードを沢山揃えたという考えもあり、『紀』『記』だけでは判定できない。

さて、ここではヤマト朝廷渡来人説について検討したが、ヤマト朝廷の起源については九州発祥説と大和発祥説もあり、この方が学界の主流である。これについては、後日邪馬台国について研究する時に合わせて述べることにする。

注1) 中国式年数表示は「甲乙丙」に始まる十干と「子丑寅卯辰巳」に始まる十二支を組み合わせる干支紀年法で、60年で一回転する。『紀』『記』における年代は、実際よりも古く歪曲してあることが多いが、でたらめに古くするのでなく、60年単位で歪曲していると思われる。

注2) 林順治:1940年生まれ。編集者として石渡信一郎のほとんどすべての著作に携わった。『日本人の正体』は石渡説の解説だが、自身でも数多くの歴史分野の著作がある。林によれば「日本書紀は昆支=倭王武の出自を隠すために編纂された歴史書である」(『日本人の正体』115ページ)

注3) 倭の五王「讃、珍、済、興、武」の朝貢については、章を改めて論考する